小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

宗教の原理2

2014-01-24 04:59:04 | 考察文
アレフ(オウム)について。

「宗教の原理1」で書いたが、さらに考えを進めた。結論から言うと、アレフは無くす必要はない。ということ。というよりも、国家がなくそうとしても、アレフを無くすことは絶対、出来ない。絶対、出来ないことなら、無くそうとする行為が徒労だから全く無意味である。無駄な努力は、するだけ、無駄である。アレフの修行は、マラソンのランナーズ・ハイのように、心身を健康にして、精神に幸福感を起こす。座禅はα波であるが、アレフの修行は、α波以上のθ波などであう。アレフの修行が、どんな物だかは知らないが、結跏趺坐を組み、瞑想し、仏教の経典を唱える、などであろう。これは集中力を高め、雑念を消し、幸福感を起こす。心身の健康に非常に良い。アレフに入信する人も、修行によって、心身が健康になるから、入信しているのである。さらに言えば、覚醒剤などを使わずに、心身を健康にしているのだから、むしろ、アレフの修行は、もっと日本に広めた方がいい。とさえ、いえる。アレフでは、ほとんどが在家信者であろう。覚醒剤を使わずに、心身が健康になる。これは非常に良いことである。しかし、これは、アレフの修行だけに限ったことではなく、ランニングやエアロビックダンス、太極拳、ヨガ、健康のためのスポーツなど、あらゆる健康法で、起こることである。

アレフの修行と、麻原の関係は、どうなっているのかは知らないが、全く分離されているのか、あるいは、修行の中に、麻原を讃える行為もあるのかもしれない。

オウム(アレフ)の信者の麻原に対する気持ちは、こうではないか、と推測する。
つまりオウムの修行は気持ちがいい。幸福感が起こる。だから、こんなことを、教えてくれた人(麻原)が悪い人間のはずはない。と思っているのではないだろうか。

しかしである。そうなると宗教の定義が曖昧になってしまう。

宗教は、教祖がいて、信者がいて、信者は教祖の教えによって、心の悩み、から救われて、幸せになること、といってもいいと思う。

しかし、それなら、あらゆるスポーツクラブが宗教団体になってしまう。健康を目的として、スポーツをしている団体は、スポーツでかく汗によって、体が丈夫になり、精神も快活になる。スポーツを熱烈な趣味としている人にとっては、技術の向上は幸福をもたらすだろう。教祖もいて、たとえば、野球なら、川上哲治、落合博満、野村克也、などは、自分の信念を持っていて、野球をやっている人は、彼らを神様のように信仰している人もいるだろう。

柔道なら嘉納治五郎、合気道なら植芝盛平、塩田剛三、空手なら船越義珍、剣道なら宮本武蔵、などが教祖といえる。彼らは、技が上手いだけでなく、教義や精神の心得まで書いている。

そのうち、スポーツクラブが自分たちの団体は宗教団体である、と言い出しても、おかしくはない。

あるいは、音楽教室や、あらゆる習い事、が宗教団体に成り得る。

さらには、ある芸能人のファンクラブも宗教団体になってしまう。

実際、私は岡田有希子を神様のように慕っているので、また彼女を神様のように慕う人は多くいるので、岡田有希子教、という宗教団体が出来てもおかしくない。

さらにはSMクラブも宗教団体、とは言わないが。SMプレイにも宗教的な要素がある。M男にとっては、憧れの女王様は、絶対服従する神のような存在だからである。し、M男は、自分の慕う女王様を本当に女神様のように思っていて、女王様の言うことには、何でも喜んで従っているのである。

そもそも、宗教にはSM的な要素があるのである。

「わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛したキリスト教の聖人たちは大抵マソヒズムに罹かかっていたらしい」
(芥川龍之介、侏儒の言葉より)

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極東軍事裁判

2014-01-24 03:41:33 | 政治
極東軍事裁判とやらの(わけのわからい裁判の)被告には、昭和天皇を入れて裁くべきだった。これは、当然のことである。昭和天皇に戦争責任があるのは疑う余地のない明白なことである。

日本の全ての兵士、民間人が、「天皇陛下万歳」と言って死んでいったのである。戦争は天皇陛下の決断によって行われたのである。天皇は戦争で軍部に利用された、のは確かである。しかし、軍部といえども、開戦、終戦、の最終決断は天皇に求めたのである。

開戦の決定には、陛下は、反対した。しかし軍部が押し切った。

しかし終戦の決定は、天皇陛下の発言によるところが大きい。

名目も実質も、天皇が戦争を始め、戦争を終結させた、といって、過言ではない。

だから極東軍事裁判の被告には、天皇を入れるのは当然のことである。

これをしなかったのは、GHQ、マッカーサーの戦後の日本支配において、昭和天皇を極東軍事裁判の被告に入れるのは、日本を支配する上で、良くないという計算からである。

もし、天皇を極東軍事裁判の被告に入れていたら、天皇は、間違いなく、自分の死刑を求めただろう。連合国軍の裁判長も、天皇に戦争責任がありながら、政治的計算(および現実的な天皇の戦争責任の有無という、ややこしい問題)という、極めてややこしい問題をあつかわねばならず、もちろん、アメリカは天皇に戦争責任があると知りながら、天皇を死刑にはしたくはない、という、ややこしい問題を扱いたくなかったのである。

つまり、天皇には戦争責任があるが無罪としてしまったら、A級戦犯を死刑に出来なくなるし、天皇には戦争責任がない、としてしまったら、これもA級戦犯を死刑に出来なくなるからである。

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