小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

ドラゴンへの道

2014-01-28 06:57:07 | 武道・スポーツ
ブルース・リーの主演映画の第三作は、「ドラゴンへの道」である。これは、制作、監督、脚本、主演、音楽、全てをブルース・リーがしている。ブルース・リーの独断場の映画である。

アメリカでは、「燃えよドラゴン」が一番人気があるが、香港では、「ドラゴンへの道」の方が一番人気があるのである。

誰も問題意識すら起こっていないだろうが。「どうしてブルース・リーは映画の舞台をローマに選んだのか?」この理由を、わかる人がいるだろうか?

カンフー映画なのだから、戦いの舞台は、香港や中国で、いいはずなのに。なぜ、ローマを舞台に選んだのか?

私の考え。それは、ローマにコロシアムがあるからである。ローマのアテネでは紀元前509年から、紀元前27年まで、クレイステネスやペリクレトスなどによって共和制国家になった。共和制といっても、奴隷がいて、コロシアムで奴隷の剣闘士に、どちらか死ぬまで戦わせることを強制していた。その見世物は、ローマ市民の一番の娯楽だった。もちろん、剣闘士の奴隷は、これに怒って、スパルタクスの反乱(前73年)などが起こっている。

どちらか死ぬまで戦うルール無しの格闘。世界において、その一番の原点は、ローマのコロシアムでの剣闘士の戦いである。つまり武術の原点である。相手が東洋人だったり、強くなかったりしたら、ブルース・リーは、ローマのコロシアムにこだわらなかっただろう。しかし、相手は6年連続、世界プロ空手選手権チャンピオンの強豪、チャック・ノリスである。しかも白人でブルース・リーより体がひとまわり大きい。

ブルース・リーは格闘の原点として、ローマのコロシアムの剣闘士の戦い、に相当、関心を持っていたことだろう。相手が白人で、超強豪で、どちらか死ぬまでの戦い、となれば、もはや、戦いの場はローマのコロシアムしかない、と考えたのだろう。

その前の作品である、レイモンド・チョウ制作、ロー・ウェイ脚本の「ドラゴン怒りの鉄拳」は、清朝における、ヨーロッパ列強、および日本の中国に対する植民地化に対する中国人の怒りを強く打ち出しているが、それも多少、ヒントにはなっているかもしれないが。

私は、「ドラゴンへの道」は、そういう政治的主張はなく、単に、格闘の原点として、チャック・ノリスと戦うには、ローマのコロシアムしかない、とブルース・リーは考えたのだと思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

乙武洋匡

2014-01-28 02:02:52 | Weblog
私は乙武洋匡氏を全く評価していない。氏が、1998年に、「五体不満足」を出版した時、買う気は全く起こらなかった。内容は買わなくても、大体、想像できるからだ。

しかし、その二年後くらいに、どんなことが書かれてあるのか、一応、買って読んでみた。内容で評価出来る所は全くなく、読んでて、全くつまらなかった。欠伸が出てきた。あれがベストセラーになった理由は、ただ一つ。それは電動車椅子に乗っている氏の表紙の写真ゆえだけである。

内容で、感銘を受けたのは、「障害は不便だが不幸ではない」というへケン・ケラーの引用文だけである。

あの時は(今でも、そうだが)出版不況で、何とか売れる本を出そうと出版社は必死だった。

その出版不況を何とか打開しようと、障害者の手記は売れる、と出版社が目をつけたのである。実際、障害者の手記は、内容とは関係なく売れるものなのである。

そのあと、障害者の手記は売れると、柳の下の泥鰌を狙って、目の見えない少女の手記を親が書いたりして、ちょっとした障害者手記ブームが起こった。

乙武氏は、その後も、笑顔で、肘までしかない腕を広げた写真の表紙の本を出版したりしていたが、いささか、悪ノリであると思う。

それを後押ししたのが、政府であり、政府の政治的意図である。あの本ほど、政府のバリアフリーの政策の宣伝に効果のある本はない。

他人のことだから、氏の性格について、とやかく言う気はしない。

しかし障害や病気を金儲けに利用したり、名声を得る手段にするのは、私の感性では嫌いである。もののあわれ、が無い。私にとっては障害や病気とは人生の悲哀をかみしめるものである。

しかし氏は、2013年5月に、車椅子では事前連絡が必要なレストランに入店拒否さてれて、ブチ切れて怒り狂った。

私も三歳から喘息で(医者になろうと思ったのもそのためである)、病気は悪化の一途をたどり、自殺を真剣に何度も考えたほど、今日に至るまで病気との闘いの人生である。だが、私は、「オレの病気を理解しろ」とか「喘息や過敏性腸症候群、うつ病などの心身症患者を差別するな」などと世間に訴えたいとは、全く思わない。

むしろ、病気に生まれついたことに、私は感謝している。面もある。なぜなら、病気を持っている人間は、絶えず、「死」を意識しているから、健康な人間より、人生を真剣に生きようという気持ちが、嫌でも起こるからである。

健康な人間に対する劣等感を、絶対、彼らより充実した人生を送ってやる、という意地にブチ込むのである。少なくとも私はそうして生きてきた。し、これからも、そうして生きていくだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする