小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

菊池寛(論)

2014-01-11 20:47:25 | Weblog
論、というほど、大げさなものじゃないが。菊池寛の文学は、非常に素晴らしい。しかし、菊池寛は、自分が小説家になれるか、どうか非常に悩んだ文学志望者だった。自分の作品が売れるか、というか、文学者として生活していけるか、に、学生時代、非常に悩んだ。

菊池寛にしてみれば、売れなくてもいいから小説を書きたい、という思いはなく、文学部に入ってしまった手前、小説家になろうと思ったが、小説家というものを職業選択の一つとして考えていた。食べていけないのなら、別に小説家にならなくてもいい、と思っていたのである。非常に現実的な人間である。

そう思うのも無理はない。なぜなら、菊池寛は、(読書は非常に好きで、膨大な日本の歴史知識を持っていたが)性格が、非常に善良であったからである。善良な性格というのは、言い換えれば、「人がいい」「お人よし」などとも言える。いわゆる、「人がいい」人には、小説は書けない傾向があるのである。心の中に「善」と「悪」の両方が激しく、あって、葛藤しているような人でないと、小説は書けない傾向があるのである。さらに、何が何でも表現したいもの、も菊池寛には無かった。だから、菊池寛が、自分が小説家として、生活していけるか、どうかに、悩んだ、のは、至極、当然のことである。

しかし、結果としては、菊池寛は文学者として大成した。この理由は、一言でいって、菊池寛は、善良な性格であるとともに、「悪」を憎む気持ちも非常に強かったからからである。

菊池寛が、最初に文壇に認められたのは、「無名作家の日記」である。これは、誰が、どう見たって、芥川龍之介がモデルである。大学で同期だった、芥川龍之介のことを、徹底的に悪人として書いている。小説としても面白いし、おそらく、フィクションは、少なく、事実にかなり忠実に書いているように思われる。あまりにも、芥川らしさ、や、当時の文壇の様子が正確に書かれている。

菊池寛は、芥川龍之介が昭和二年に、自殺して死んだ時、友人代表として弔辞を泣きじゃくりなから読んだ。はじめは嫌っていた芥川を、菊池寛が、いつから、どういう理由で、無二の親友に変わったのか、それは、知らない。

菊池寛は誠実な作家で、その作品は、どれも、読者を満足させる。手を抜いていない。

それと、菊池寛は、小説も面白いが、評論的な文章も、とても面白い。

「芥川の事ども」も読んで面白いし。

「小説家たらんとする青年に与う」も読んで面白い。これには私は内容的に多少、異論もあるが、菊池寛の理論が理路整然としていて、それが面白いのである。もちろん菊池寛の主張していることも、80%は、その通りだな、と私も思う。

これらの評論文は、心地いいので、疲れた時、再読までしてしまう。これは、菊池寛の人間性の優しさを感じてしまい、気持ちいいからである。

それと、「二千六百年史抄」や「日本合戦譚」などは、小説ではないが、面白い。

氏にあっては、小説だの、評論だの、のジャンルに関係なく、氏の書くものは、ほとんど全て面白い。

結局、人間性というか、性格の面白い人の書くものはジャンルを問わず、面白いのである。

逆を言うなら、人間性というか、性格のつまらない人の書くものは、つまらないのである。

ここで一つの、粗削りな文学論を思いついた。

要するに、読んで面白ければ、それでいいのである。

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出会い系サイト

2014-01-11 00:01:12 | Weblog
慈恵医大の関連病院の清川遠寿病院で働いていた時、上司に嘉村という慈恵医大出の医者がいた。

彼は、製薬会社のMRの女の誘いに乗って、一緒に食事するような、デレデレしたナンパ野郎だった。

慈恵医大から、慈恵医大出の、きれいな研修医の女医が来ると、デレデレにやついて、話しかけていた。

彼は、出会い系サイトで、女とのメル友のやりとりをしていて、その女と会うことが決まって、毎日、フワフワと心地いい自慢話をしていた。そして、とうとう、ある日、その女と出会った。

しかし、会った後で、「相手の女はブタ以下」と不機嫌そうな顔で言っていた。

バカなヤツである。出会い系サイトで、男との交際を求めているような女は、ブスに決まってるじゃないか。そんなことも、わからないのか。

人をブタ以下と言っている、嘉村自信も、たいした、ご面相では全くない。人格も知能も低級である。

さて。男は、残念なことに、どうしても、女の魅力を、容貌ぬきには、考えられないものである。

(これをテーマにした小説が人道主義者、菊池寛の小説、「慎ましき配偶」である。素晴らしい作品なので一読を勧めたい)

しかし、女の容貌、という問題に苦悩する感性のある男が、ほとんどいないのも、かなしく残念なことである。

だから私は、女とメールのやりとり、などしないのである。

しかし私は、偽善的な発言ではあるが、本心なので、あえて言う。

「神はブタ以下の女を決して作ったりはしない」

・・・

2015年4月16日に書いた、聖マリアンナの精神科、指定医の不正について、具体的に書きます。

まず、端的に書くと。
清川遠寿病院の常勤医だった、杉村共栄医師が、一人で、ある小児精神病の患者Aを、入院した時から、担当医となって、同医師が、診断、し、治療薬、治療方針、を決め、退院まで、一人で担当しました。
御園生篤志医師は、その時、精神保健指定医の、国家資格を取るために、厚生省に、8症例のケースレポートを提出しました。しかし、御園生篤志医師の、提出した、レポートのうち、小児のレポートは、杉村共栄医師が、一人で担当し診療した、患者Aの、症例を、杉村共栄医師が、レポートとして、まとめて、書いたものです。御園生篤志医師は、患者Aの診療に、全く関わっていません。関わっていませんから、レポートも、自分では、書けません。その時、杉村共栄医師は、すでに、精神保健指定医の資格を取っていました。ですから、レポートの書き方のコツも、わかっているのです。精神保健指定医のレポートは、厳格なもので、正しく書かないと、レポートを厚生省に、提出しても、厚生省は、OKにしてくれません。というより。正確に言うと。レポートの書き方、が難しい、のではなく、通るのに、いい症例であることが、重要なのです。暴れて、入院したけれども、治療によって、症状が改善していき、通院治療しても、いいほどまでに、症状が改善し、そして、退院した、という症例が、厚生省に提出して、通る症例なのです。入院期間は、問題ではなく、症状が改善して、退院した症例なら、入院期間が、一ヶ月でも、かまわないのです。そして、増田直樹院長は、それらのことを、全て知っているうえで、平気で、そのレポートを、御園生篤志医師が担当して、そして書いたレポートと、認めて、サインしたのです。これが、不正でなくて、何でしょうか。

これを、書いていて、思いついたことがありがます。ケースレポートの8症例のうち、措置入院、と、小児精神病、と、器質性精神疾患、の3つの症例、で、通りやいすレポートに出来るような、いい症例は、なかなか、見つかりにくいのです。
清川遠寿病院は、神奈川県の、はずれにあり、なかなか、医師が集まりにくいのです。
院長の増田直樹医師は、慈恵医大出で、常勤医は、慈恵医大の医師が、ほとんどです。しかし、聖マリアンナ出の医師も、半数くらい、いるのです。これは、慈恵医大の、精神科教授だった長谷川和夫、教授が、聖マリアンナの精神科の教授になってから、聖マリアンナの精神科は、慈恵医大の精神科の傘下に入った、ということを、この耳で、慈恵医大の医師から、聞きました。全ての慈恵医大系の病院で、そうなのか、その真偽は、分かりません。しかし、少なくとも、清川遠寿病院が、聖マリアンナの精神科と、つながりを持っていることは、間違いありません。私が勤めていた時は、半分近くも、聖マリアンナの、医師が来ていたのですから。もちろん、夜の当直のアルバイトも、慈恵医大か、聖マリアンナの医師です。
ならば、精神保健指定医に通る、いい症例を、やる、ということを、聖マリアンナの精神科に、言って、聖マリアンナの医師を、集めている、ことは、十分、考えられます。指定医のレポートが欲しい医師を、呼んでも、その医師、本人が、指導医の指導の元で、ちゃんと、患者の診療に当たって、本人が、レポートを書くのであれば、問題は、ありません。
私が見た、不正は、一度だけですが、あそこまで、ひどい不正を、平気でやっているのなら、他にも、何回も、不正をやっている、ことは、可能性として、十分、考えられます。つまり、余罪です。一人に対する方針は、万人に対する方針です。聖マリアンナの精神科の教授に、指定医にしてやるから、二年くらい勤務してくれる常勤医を送ってくれ、という、取り引きをしている、のでしょう。これは、病院の医者集めの構造的なものです。今でも、行われている可能性は、十分、あります。
万引きをして、捕まった人は、「ほかで万引きをやったことは、一度もありません。これが初めてです」と言うのは、当然です。

精神保健指定医の資格を取るという条件で、病院に就職した、私には、指定医を取らせたくない態度だったのも、納得できます。私は、病院の医師の数を増やして、病院の点数を上げる目的のためだけに利用された採用であり、増田直樹院長は、聖マリアンナの精神科との、つながりを、強めることしか、考えていない、ことも、十分に推測できます。

なお、また、旧館の5病棟の、ベテラン婦長が、「私たち(看護婦)は、みんな、院長にだまされて、採用されたのよ」と言ったことも、間違いない、事実として、つけ加えておきます。どういう事でだまされたのかは、知りませんが、採用でだまされた、というのなら、それは、待遇面や、勤務時間などでしょう。

さらに、嘉村という、院長と同じ慈恵医大出の医師がいました。彼は、年齢も、院長に近く、院長と腹蔵なく、何でも、話し合える間柄でした。しかし、事情は、知りませんが、嘉村医師は、院長と、激しい口論をして、ケンカ別れして、病院を辞めていきました。母校が同じで、医局も同じで、親しい間柄なのに、ケンカ別れして、辞めていく、ということは、普通は、ありえないことです。よほど、院長は、ひどいことをしたのでしょう。

私が見ていても、院長の人格の、ひどさは、目に余りました。

なぜ、私が、この不正の事実を知ったか、の、経緯も書いておきます。
私は、余所者なので、全く相手にされず、まさに傍若無人(かたわらに人なきが如し)であり、飲み会も、一度も、誘われず、仲間外れ、なので、院長も、慈恵医大や聖マリアンナの常勤医も、私を雑役夫と見ていて、相手にもしませんでした。ですから、医局会議の時も、私の存在など、いないも同然の感覚ですから、御園生篤志医師は、私の存在など、頭にありませんから、増田直樹院長も、常勤医もいる時に、口が軽くなって、こう言ったのです。
「精神保健指定医の小児のレポートは、杉村共栄先生が担当した患者の症例を、杉村先生に、書いてもらった」
と。増田直樹院長は私を見ると、ヘラヘラと誤魔化し笑いをしました。院長は、陰で、もっともらしい理屈を私に偉そうに、説教し続けたのに、陰では、こんな不正を知りながら、御園生篤志医師の、小児のレポートには、堂々とサインをしていたのです。私は、怒り心頭に達しました。ぶん殴りたい気持ちを必死で我慢しました。この病院で勤務した三年間は、一体、何だったのでしょうか。時間を返して欲しい。最初から精神保健指定医の資格を、取らせないと、わかっていたのなら、私も、院長との、共同診療で、必死に、書いていた、ケースレポートを書く時間を、小説を書く時間に当てられました。これは、全くの事実です。

これは、御園生篤志医師の小児のレポートとして提出した、患者Aのカルテに、彼の病状記載が、全くないことで、証明できます。しかし、カルテの保存期間は、医師法第24条第二項で、5年間と決められているので、もう5年、経っていますので、厚生労働省が調べても、病院は、不正隠蔽のため、カルテは、処分しているでしょう。また、厚生労働省の方でも、提出した、レポートも、通ったら、いつまでも、保管しておくとは、考えられません。大学入試試験と同じで、レポートは、合否を決めるのが目的ですから、合否が決まったら、処分するでしょう。ただ、間違いない事実だけは、書いておきます。

黙認は悪を助長します。ので、あえて、紛れもない「事実」を書きました。


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