東京裁判、同様、ナチス首脳を裁いたニュールンベルグ裁判も国際法からすれば違法と言わねばならない。
新しく作った法律でもって過去の出来事を裁く、という行為が誤りであることは、明白である。
(そんなことをされたんでは、たまったものではない)
ユダヤ人を500万人も殺したホロコーストも、それが、戦争と関連して、戦争に勝つために、国家が行った行為である以上、それは個人の殺人罪とは言えない。
ドイツ兵士の中でも、ユダヤ人を殺すことが、正義の行為だと思っていた兵士は、多く、いるはずである。
仮に、殺人罪として裁くのであれば、ナチス首脳に限らず、ドイツ兵士、全員を殺人罪として、裁かねばならない。
戦争の犯罪性の難しいところは。戦争による殺人は個人の犯罪とはならい。が、たとえば、アメリカ軍のグラマンによる、日本の民間人の機銃掃射が、人を殺す快感をともなっている点である。
戦争の犯罪性の難しさ。それは「人を虫ケラのように殺すことを楽しい遊びとしてする」これは、明らかに個人の殺人罪である。しかし、それが、国家が認めた、戦争という国家利益の追及ための行為の中で行われた、という点で正当化される、という点にある。
アメリカが日本に原子爆弾を落としたことは、殺人罪として、全く裁かれていない。
ナチスのホロコースト、つまりユダヤ人をガス室に入れて毒ガスで殺す、行為は、非人道的の極みだが、原子爆弾を投下して、無辜の民間人、罪のない女子供を大量に虐殺し、死ななかった人達には、原爆の後遺症で、死ぬ以上の、生き地獄を味あわせることは、やむを得ない、仕方のないことだったというのか?そんなのは連合国の勝手な言い分である。
残虐性を比較することは、意味のないことだが、死ぬより苦しい、生き地獄の後遺症に悩まされながら生かされるより、スッパリと殺される方が、まだ、むごたらしく苦しませない分、原子爆弾より、ナチスのホロコーストの方がまだ、まし、とも言えるはずだ。
東京裁判。原爆を落とした国が、何が、「平和に対する罪」だ。
新しく作った法律でもって過去の出来事を裁く、という行為が誤りであることは、明白である。
(そんなことをされたんでは、たまったものではない)
ユダヤ人を500万人も殺したホロコーストも、それが、戦争と関連して、戦争に勝つために、国家が行った行為である以上、それは個人の殺人罪とは言えない。
ドイツ兵士の中でも、ユダヤ人を殺すことが、正義の行為だと思っていた兵士は、多く、いるはずである。
仮に、殺人罪として裁くのであれば、ナチス首脳に限らず、ドイツ兵士、全員を殺人罪として、裁かねばならない。
戦争の犯罪性の難しいところは。戦争による殺人は個人の犯罪とはならい。が、たとえば、アメリカ軍のグラマンによる、日本の民間人の機銃掃射が、人を殺す快感をともなっている点である。
戦争の犯罪性の難しさ。それは「人を虫ケラのように殺すことを楽しい遊びとしてする」これは、明らかに個人の殺人罪である。しかし、それが、国家が認めた、戦争という国家利益の追及ための行為の中で行われた、という点で正当化される、という点にある。
アメリカが日本に原子爆弾を落としたことは、殺人罪として、全く裁かれていない。
ナチスのホロコースト、つまりユダヤ人をガス室に入れて毒ガスで殺す、行為は、非人道的の極みだが、原子爆弾を投下して、無辜の民間人、罪のない女子供を大量に虐殺し、死ななかった人達には、原爆の後遺症で、死ぬ以上の、生き地獄を味あわせることは、やむを得ない、仕方のないことだったというのか?そんなのは連合国の勝手な言い分である。
残虐性を比較することは、意味のないことだが、死ぬより苦しい、生き地獄の後遺症に悩まされながら生かされるより、スッパリと殺される方が、まだ、むごたらしく苦しませない分、原子爆弾より、ナチスのホロコーストの方がまだ、まし、とも言えるはずだ。
東京裁判。原爆を落とした国が、何が、「平和に対する罪」だ。