昨日だったか突然理解した。河合隼雄と村上春樹の二人の話で英語の理解と日本語の理解の形を。日本語は深い。この前書いた俳句本当の内容により物事を考えて行く。英語ははじめから冠詞という形で理解する。しかし、当のネイティブはそのあたりを理解していない。語学は歴史文化というけど正にだな。
本文を入れてください間違えを指摘しようとは思わない。それが仕事でも、知識でも。それが私の方針だ。自己満足でもあろうし、何より納得しない場合は尚更質が悪い。何処まで進めるか見たいと言う気持ちもあるし、立場でもない。本人が痛い目をみないと受け入れないと言うこともある。正に動物的側面をみる感じ。
警察の面接で聞かれたこと考えていたことがある。IT捜査などで心理学が活かせるのかと。そのときは言い淀んでしまったが、今なら答えられる。その人がどのような病的な状態にあるかで、あるいは性格の背景があることでプログラムやそれを行うにも必ず特徴が出る。そう言うようなモノを一般的なプログラムを専門にしているモノよりも有利に働かせることが出来るのじゃ無いだろうか。
良く昔から言われる、技術に溺れる者は技術によって滅ぼされるだったか。心理を探求する者は時間を要するのは当たり前だろう。それが心理者じゃないかな。実際の剣術のような技術を積んだ者では無いのだから。
企業に対抗する手段が無いと経営学でも認めている。という話と、政治的な大衆迎合で地盤がない政治体制。『藩閥』という名の薩長体制であった事実。崩壊した横の繋がりと責任。そして無関心と無知を助長する社会。日本の歴史的経緯。生まれながらの宿命付けられている関係。どれをとっても参院に家長的役割の代表者が家の中で選び、世の中に訴え予備選をしていき、大選挙区でやる方が様々なしがらみもなく新しい人も生まれ、名誉慾に駆られた、無能な政治家がメリーゴーランドのようにならない仕組みの一歩に思えるんですよね~。