日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

原理と存在と衡平と平衡と

2023-03-27 10:08:48 | 日記
 原理を考える時全てはあらゆることに通じるものが現れてくる.例えば次の様なものが検索すると初めにでる.

原理
[げんり]
定義
事象やそれについての認識を成り立たせる,根本となるしくみ。主として人間の活動にあてはまる原則とは多少意味の違いがある。
"多数決のげんり" · "相対性げんり"
哲 世界や現象の根本原因・根拠であるもの。本源。アルケー。〔哲学字彙(1881年)に英語 principle の訳語の一つとして載る〕原則
"哲学字彙" 



げん‐り【原理】 の解説
1 事物・事象が依拠する根本法則。基本法則。「てこの―」「民主主義の―」

2 哲学で、他のものを規定するが、それ自身は他に依存しない根本的、根源的なもの。

という様なものがまず最初に出て来て,特に今回の場合はその規定する者の対象自身ということになるから,特にそれ自体が成り立ちから哲学に為り,哲学は即ち数学と対象を為しているという事になる.此れが真直ぐに当てた場合となる事は明白だろう.

そこで対象自身は何かと,問う時存在という事に成るのは何の疑いようはない.もし哲学を問うていないとするならば敢えて真直ぐにミる事をしていないと言う事で,実際の場合でも対象を真直ぐに観ていない,或いは観られない,中てられないという状態に成り,中りが出ないと為るのは自明な事か.

この場合には数学と哲学の上に当然の事で心理学性や文化性や現実性の問題が出てくるという事か.それの平衡だろうなぁ.

そう言えば衡平と平衡は私の中では意味が違うんだけどな.衡平は衡平器詰まりは天秤に似たものによる抽象的を含む釣り合いをとるものという感じだし,平衡は疎らなものを全体的に増えたり減ったりしても平らにすると言うイメージがあるんだけど余り語られないような感じがするな.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

衡平性と対象性と相似性と   追記20230322

2023-03-21 10:51:31 | 日記
 「衡平性と関係性」で書いた通りのことを含み,中学時代に受けた英語教師からの暴言と暴行と侮辱。自分の体操服の名前を取らされるという事をさせられ,教師の禁忌と謂われる行為をされたということに為る訳で,何故この様な人が教師に成っているのかという問題となる。

職員室に呼び出しをしたという事は少なくとも自身が普通の行動をしていないという認識は在った訳で,「存在の跳ね返り」を詰まりは照射されて来たものの跳ね返りを受け取り,存在者として受け取った訳だ。この場合に「問うこと」に付いて深く考えていないという事なのか。

ある一定の所まで出来るという事の話から察するに,その事に対して「真直ぐ問うていない」という事か。存在者に対する「「問い」と「問う」」(追記・い・と・う)という行為と「対象」を為しているという事か。

 対象漸く出たな。そうか深く問うという行為をしてこないでその場に存在者としてという事か。

確かに,私を落とした大学に説明を求めに行った時に,もっと簡単で単純な人が良いと奇妙なことを言われて困惑したが,正にソコに齟齬があったという事か。寧ろ逆じゃないかと。

そうか,そうか,そこで衡平性が出てくるんだな。漸く理解出来た。

 衡平性を成立させるには存在者側に相似性が存在していることが必須であるか。成程なぁ~。

衡平性が存在していない存在に,互いにその対象性を求めていたと言う訳か。漸く解ったな。


そしてこれを含む関係性をと言う訳か・・・。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

衡平性と関係性

2023-03-15 07:35:22 | 日記
https://blog.goo.ne.jp/dark_angel_jam/e/acc254b3e73e7418c591b3a97d04bac1

 この記事にある教授の話し通り「君が居るから~来たんだ」同一日ではなかったが,ハイデガー的な思想が意識され認識される瞬間なんだなと言う事が解る瞬間か.

 Twitterより.「形而上学の時の講義終了時のことで,挨拶した時に教授が私に言った言葉で教授の言葉の意味が漸く解った。君が居るから此処にいる。この為にこの学校に来たんだと言い,何を言っているのか解らなかったが,何だか関連している言葉ですごく印象に残っている言葉だったけど此れと繋がっていたとはな。」


与えられた事が無い課題を長文記述する経験が不足していたな.どうにかして,この不足している感じを補おうとしていたが,それが詰まりの「時」というヤツだったんだな.教授会の様なもので度々語られていたことではあったが,私自身はそういう感覚は余り感じないからか,何がそれなんだろうという感じだったものな.

その「時」が来たという感じか.何だか明智光秀の逸話を思い出してしまうな.何故かな・・.

 並行して,同時に漸く朧気ながらに見えてきた感じはするな.自分の考えることへの終着点が.

 衡平性が大いに不足している感じ.他にもあるけど.

それぞれが何と無く解っていたけど,頭の中で拡散していたんだよな.頭の隅の方に在って関係するのか?という感じだったものな.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情と慕いと悔いと

2023-03-07 17:37:10 | 日記
 教育に付いて允か此処まで自分の認識が追い詰められるとは思はなかったな。認識の許可する在り方だから苦労するんだろうが,心理学と数学を勉強していたからどの段階が問題なのか具体的な姿が見えてくるし,これでもしも勉強して無かったらどんな風に考えていたかなっとゾッとする。

 安易に自身の小さな経験を語っていたのではないかと想像して,恥ずかしくなる思いもある。そして大きい意味での経験という事を,恐らく後に本来は述べたい筈なのにそのことが書けずに悔しい思いもするのだろうか。

 悔いるという事は殆ど無いと思っていたが,自分自身の恥ずかしさの所為で言い出せなかったという事が当て嵌まるのかと最近認められる様になった。大学で仏文学を学んでいた教授に,学びの素晴らしさや楽しさや苦しさを語っている姿に慕う思いを抱き,その気持ちは何なんだろうか。

 という事が当時は解らなくて,現在に至って一緒に写真を撮れなかった事が,後悔だったんだと理解し認識出来る様になったということ。

これが後悔というヤツだったんだな~。あの時感じた離れ難い思い。

当時は自分がオカシくなってしまったと思ってしまったものな。この感情は何だろうかという思いで。

教授は次の年度で辞めようかと思っていたが,私の時まで延ばしてくくれたという論文内容を授業で語っていたことがあり,その内容を書いたのは正しく私だったなという事があり,大学ではこんな事があるのかと衝撃を受けたんだよな。

何だか何を書いているか分からなくなって来たから終了だな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする