資本主義が極まると一人でも良いやという人が増える。
そういう世界では欲しいものが手に入ることが幸せという社会ということ。
その社会では一人で居られる方が都合の良い社会。複数で居れば必要の無かったモノが必要と成り消費される。
そして総て商品と成ってしまう。愛さえも。其処に問題があるように思う。人は愛さえも代替出来るものと考え、見失うことに成り彷徨う。
商品ということは条件で選択することということらしい。此処が優れて居るとか、いくら稼ぐとか、家柄がどうとか。
そして、少子化と成って行くということか…。
確かに良い面悪い面両面あるというのが本来である。要はその部分を許容出来るか。
それが最適な人と成りえるのだろうし、そう思うのだが。それを踏まえた上での信頼なのだろう。
生物種では子孫の産まれなくなった個体は進化の終わりで滅びゆく生命体なんだそうな。
環境が一定で性差が極端に傾いたとき、異性へ変態する生物もいる。ニューハーフやオカマ等もその種の原初的或いは気質的顕れとしてなのではと考えが巡る。
しかし、完全な変態遺伝子は無い未熟な生命体であるのでY遺伝子の劣化が進んで行くのみと成る。
本質を考える事を放棄してしまう人が何と多いことか。歳をとるとそうなってしまうのだろうか?
話によればある程度の余裕が心も時間も経済も無いと駄目らしいがソレがあっても駄目な様な人が居るようにも思える。宮本武蔵の世界の様に(微笑)
本質を見失う様に成っていったのは明治時代以降であると思えてしまう。
それは丁度本質を見て知っていた世代を観た人達が消えて行きつつあるところから生まれて居ると思えなくもないと考えずには居られない。