自分は何か引っかかると思っていたが、試験の目が無いんだな~。まあ、性格が回避性なんで仕方か無いといえば仕方が無いんだが(苦笑)
それ故にあの詩が心に響くのかもしれない。ではどうするかと言う様な形で。
私が気に入っている兵法書では寧ろそれが好ましいと書かれているのが救いではある。しかし、自分にとっての救いだが、現実世界では厳しく無能とも思える。ところが現実世界に付いての兵法の評はこれが悉く合致しているから興味深い。
前置きは此れくらいで、試験についててある。自分にとって何が必要か、肝心なところで絞りきれないというところなのだ。毎回の試験でそうなのである。だが試験というものは、その試験に特化した対策を行い、「特化」した適応を採点者に示し、それこそ特化した有能性を日本では示すことに他ならない。
だが、前述した私の特性の場合、絞ることが恐怖となり、それを回避してしまう。結果色々なものを深く深く、行おうとして次第に進度が大変遅くなる。
だから、それが終わって心の恐ろしさが無くなり、必要なくなった段階でようやくその絞った事を「気・楽・」な気持で進めることが出来るのである。
だから、自分を初めて知る人は生真面目という評価が一般的になるが、自分にとっては大変知能遅れ、遅参状態という自己評価と結果になってしまう。
それ故にベーシック・インカムがあれば、自分にとって大変合っていることではないかと思えるのである。
だから、私が受けて来た、通常の学習でかったるさを感じるのかもしれない。いわゆる積み上げをひたすら見せていくものについて。
大学の授業でも高校の授業でも中学の授業でも、逆のパターンので進める先生が稀に居る。この場合勉強をしなくても、80点台半ば迄取れるのが普通だった。やる気も無いのに、自然と頭に入ってしまうのである。
それに加えて図を多用する先生の場合90近くは粗確実だった。
私にとって教え方が上手な先生といえるのであるが、高校ではクラスの凡そ3分の2が分かりずらいと評し、残り半分の評価が普通となり、こういう教え方があるのかという感じで、残りの半分が大変分かりやすいということになるのだ。残りの6分の1に該当することになる。
だが高校については普通と言える学校であったのかも知れないので、そういうことが起きたのかもしれない。抽出数が自身の経験でしか無いのでハッキリとは分からない。だが、勉強に飽きる子達というのは概してそういう子が多いようにも思えた。