日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

図形と数学認知と記憶      20220712

2022-06-28 18:18:13 | 日記
 数学の図形を初めて学習していた時の記憶をどうしても思い出したくなってしまう。当時はどうだったかなと紙面を開いてみる。

すると思い出し、この時は何故だか総合的な運動の試験が終わった後の疲れ切っている時に、自学をさせられた所で1-2頁しか進められなかった所だなと思い出す、面積比と線分比に面積比と相似比。大事な部分の続きだからと継いで観ると当時中学最後の授業で取り上げられず終了してしまった範囲の続きと連関するということ。

その後は全て受験期間で繋がり統合する所が自学になってしまった範囲で、何故図形を避けるのかなと思ったんだよな。当時を振り返って今改めて何故これ程と思う時に観ると、その繋がる先が見える気がする。

学習指導要領でも触れらていないし、加えて教師は図形が苦手だったと想像できるか。その教師好みや趣向が反映されるとも記載があったものな。

そしてそのまま、高校の範囲となっているが此処も省略されて取り上げられなかった範囲。悉くに私の頭と恐らく当時の殆どの人にとって大事なものが削られているという状態か。

前述の数学認知の話での重要性が語られているのにそれが意図的に外されているとしか思えない状態か。戦前からの教育と制度の話でもそうだったしな。

別の話で、戦後直ぐの上の世代は図形が苦手という。そりゃやって無ければ苦手になるはなという思いと戦前程図形関係を重視していた話も無いのにそういう話を知らないのかな?と言う思いとも重なり戦後にGHQに焚書された3分の1は未だによく解っていないという話もあるからその手の話なのかもしれないな。

医学部でトップだったが夭折してしまった親戚の女の子は今の教育は全て間違っていると話していた時の言葉を話していた時の場面を思い出すな。手の動きと目の動きからどういう経過を辿って、何が見えていたのか今なら解るんだよな漸くだもんな・・。

蛇足 claymoreのclareが覚悟をもってテレサの頭部を抱えながら歩く場面の音楽が何だか頭の混乱が収まり文章が纏まる何故かな(微笑)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育と認識と隔たりと  20220624

2022-06-21 17:36:48 | 日記
 戦略企画課企画官という募集が標的表示された。母集団を広くという意味なのだろう。けれどそれが建前で実際は採用したい人物の目星は付けているのが条件の限定さや期間からも容易に推測できる。

募集されていたものは確かに興味深いものではあるが私の場合3項目ある1つの経験に問題ありで、思うのは恐らくは祖父だったら難無くと通過して行くんだろうなと想像してしまう。

そう思うのは最近では漸く話題に為り始めた秋丸機関という話でそこに祖父も協力し関与していたからだ。その時の出来上がりの成り立ちも聞いているからで、汲み上げ方は先ずは文章は使わないというものあった。

その事の意味も本質や中心義もそうとは知らずに聞いているが、今回は一つの事に限って書くことにする。文章を使うと日本語で万頁に為ってしまうからと言う事が解っていたからと、それが一人の量に為ってしまうからという事だった。

実際に書いた時に一人で一万頁を超えた人も何人かいたという。その一万頁から数千頁の数を複数の人が書いたら、何十万から何百万頁に為ってしまう、「それも相当に何度も短くしろと言われ10ー50回位だったか書き直しと言われたそうだ」が書き直した回数の記憶は曖昧だ。

実際に祖父が書いた頁数は一万頁弱位で、余り文章で書いても頭に残らなけれ仕方がないからというもので文章以外が多く一番短かったそうだ。流石だなと思う一方でこの事と親戚の女の子の当時理解できなかった話と頭の中で交錯する。

 確かにその通りだと思う一方で、戦後の教育で日本を農業国の貧しい国にしようとしたGHQの策略も、教育が随分歪められて来たのは最近になって、漸く少しは拡がって来たことは良い傾向になるが未だ未だと言う印象。大学で社会・教育・制度の講義の話を以前書いたと思うが、この外縁から見た視点でもこれ程なのだから、内縁からだと相当だろうなと言うのを前述した話を聞いても、随分隔たりがあるなと言う思いにさせる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真直ぐさの欠片

2022-06-16 22:39:21 | 日記
 真直ぐにモノを観る事の大事さ。この事の重要さだよな。

何の掛け値なしにとはよく言われることではあるが自分自身はこの事に涙した事さえあり、当時は何故涙しているのかさえ理解できなかったこと。その時のそれは作品でありアニメでありshadowskillという作品とclaymoreという作品だった。

当然に当時は作品と言う認識はなく、大好きなもので何時までも傍に置いていたいという思いでしかなく、その事に重要な意味があるともどうしても思えずに切り離すことも出来なかった。

其処で最近学んだHSPというものに正にだなと感じて思うものもあったと言う事。

これを知って感じることを超えて思う事に至るときに、二つを物語を通り越して共通さを探すときに二つとも好きな要素を含んでいたんだなと解って、解ることは良いのだが前述のこともあり自分としてはとても辛い気持ちに為る面もある。二つを一緒にしたくないという面と。

その共通部分の好きなところがclaymoreではTeresaで当時観ていた時には当たり前の反応だよなという思いと共にキャラクターの心情というか激情というか豹変さというか感じるものがとても近いと言う思いにさせた。

勿論に性別は違うのだがとても感じるものがあり、失敗も同じというか真直ぐさを失ったときに訪れるというのだが、当時は何が問題だったのかは理解できなかった。けれどコレだ!という直感的確信は在って、性別が違うという表現にも意味があったという事を知る事に為る。


shadowskillに付いては次だな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感じなかった感覚の継続か

2022-06-12 21:10:29 | 日記
 暫く前に尊敬して目標としていた祖父が語っていた最終的な意味が解った気がした。その意味は話をしていた当時の伯父も解らないと言っていた事だった。

そして、その事が解ったとき、急に不思議なことに感覚として世界が立体的に感じられる様に為って来たのだ。何だろうこの感覚は。

深い所で感じる皮膚感覚に近い様な感覚でもあり、違う様でもあり、手掛かりとして過去にこんな感覚を昔感じた事が在ったかなと思い返す。

しばらく感覚を思い返すと、完全に一致する感覚は一度もなく、昔感じた共感覚での量子の縮尺の時に見えた感覚の一段浅い所の様な感覚に近い感じではある。勿論当時は何が見えたのかは分からなかったのだが。

そして感じそうで感じられなかった近い感覚と言えるのが8-9歳頃に人の話を聞いていると図形が透ける様に見えたりするという不思議な感覚に為るということがあり今もそれはあるが、その時に、届きそうで届かないもう一段の時に、一度だけ一瞬感じられた様な時の感覚に近いソレが継続している感じか。

脳科学的に言えばそれは変質する重要な時期でもあるときであるのは最近では分かっているが、当時はその感覚を無意識的に求めていた気はする。本当にこの時期の1-2年は色々あったな。

そう言えば伯父にこう言う色や映像が祖父には見えたことがあったのかと尋ねたが、そういう話は聞いたがそういう話は聞いた事が無いと言っていたから見えて居なかったのかな。けれども私の一族の昔の文書などを見るとそういう事を思わせる節の記述があるんだけどな。

何が書きたいか判らなくなってきた来た。ここに書いている趣旨に合うな(微笑)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

着せ恋と真直ぐと徳川家康と   20220604

2022-06-01 09:22:55 | 日記
私の中で流行状態になっている「その着せ替え人形は恋をするという」物語。これ程に魅力的にどストライクな話も久しい。

稀に見る作品で、神作品というこの言葉を使うのもいつ以来かと思う程だ。近い所で言えば「俺物語!!」は近い所を行くが神作品と言う風に評したことは無い。名作止まりだろう。

そしてこの作品はというと思い出せな位だということ。そう思って歴代作品を調べてみると電影少女以来という事に為るから相当という事になる。

そこで何故かと考えた時は勿論一つは祖母の幻影は当然だろう。そしてその事を思い出すときに昔親戚の女の子で医学部入学1位で2位との差が随分離れていたという子の話を思い出してしまう。

その子に私みたいな人を探すんだよと親に言われ、その子が私の好きなタイプか感じかを聞かれた事があった記憶がある。その時に答えたのは祖母の様な人とは答えたがうまく伝わらず、では物語か何かの作品はないのかと問われたことがあった。

その時は何故物語か作品なんだろうかと理由が解らなかった。この時の作品は美術品の様なものでもいいとも言われた。

何だか納得できないまま、特にないけどと言う風に伝えたが、欠片の様なものでも良いからと再び一歩進んで問われ答えた。そして再びそれの何が良いのかと問われ、願いが叶うか叶わないか分からないのに一途に脇目も振らず進む様かな。

その時に再び健気とは違うのかと問われ、違うと答え自身が何をするべきか又、周りに何をするべきかも判っているのにそれが出来ない歯痒さを抱えつつも真直ぐ進む様かと。

その子と話しているとつらつらと言葉が出てしまう不思議な感覚に襲われて、その時に、「正に此れなんだ」と言ったが流石にその子もえ?何?という反応を見せて笑いに繋がった。

この真直ぐさの片鱗がその子にもあった瞬間という事になるが、そういう片鱗が私自身もあったのかもしれないな。だから徳川家康が私の本家に来た時曇っていた顔の表情が、晴れやかな表情になって毎回帰っていくという事を繰り返していたのかもしれないな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする