日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

3色ボールペン(訂正)

2012-07-29 00:00:30 | 日記

 最近幸せだと思う。

働いているときは望む学び、勉強をしたくても出来なかった。

高校の頃入院し奨学金の望みも潰えた。

高校の出だしから両親は協力的で無かった。進研ゼミで不足分を補おうとしていたのに、希望していたモノを受諾していなかった。

出来れば5教科7科目だけど、英語は中学からの延長がいいだろうと、国数理社で特に理科は科学と生物と物理を希望していた。

だが、3ヶ月たっても教材は到着せず。

遂に5ヶ月目に漸く尋ねた。

 

家の親はやって欲しい事についてお願いしたとしても、断ることがある。

私が必要だと思っていることでも。その一つが昔欲しかった3色ボールペンだった。

 

だから、伝え方を頼むようにしておけば判断を仰ぐという選択では無いので、どうしても必要という意思が伝わるだろうと思っていた。

だが、それが大きな間違い(初め(え))だった。

 

成績上位じゃないと、そういうのは取れないだろうと予想していた。

だから、なるべく早く埋めたいと思っていたのに母が「勝・手・」に判断した。

「高いから、頼まなかった。」え!!「やると思わなかったから。」え!!!

予備校は高くて行かせてくれないでしょう。だからそういうモノで努力し頑張ろうと思っていたのに。

更に、現在そのことを問いただしても、覚えすら居ない。最悪だ。

 

悲惨な中学時代。この問題の根本の母への軽蔑。そして怒り。憤り。

小学時代にどうしても欲しくて、頼んだ3色ボールペン。

それでも買ってくれなくて、ボールペン各2色でいいでしょう、と言われ母の財布から、お金を失敬して、買ってしまったこと。

大人から見ればほんの「些細な額」だろう。

そして「ホンの些細な出来事」だろう。

でも、子供にとってはそういう事で愛情を確認したりするのだ。

 

これは今なら自分で心理学でも解っていることである。

 

これは結局使うことが出来なかったが。

 

叱られると思って居たが、何も反応が無かった。

 

そのときは良かったとも思ったが、今なら解るがそれは無関心。と言うことだ。

 

そんなに欲しかったの。というだけ。

大したものでは無いのに。と呟いただけ。

 

そ・こ・が・。大事なところなのである。

そんな大したものでも無いモノでさえ、買ってくれないと言うことだ。(ヤバイ、これを思い出すと涙出てくるな。。)

そういう所から後から何も期待出来ないと思っていったのかな。

 

それが、その頼まなかったという事の時に猛烈に頭に湧いてきた。

 

そして中学時代に英語の先生からのひどい叱責。

その時期の問題の発覚。

 

怠けているわけではない。心理学の中でやっているから判る。

何らかの理由でというものだ。

 

先生としては最悪の選択をしたものだと思う。

怠けていると決めつけたこと。

 

確かに新興住宅地に引っ越してきたが、お金に余裕があるわけでは無かった。

特に自分に対しては。

 

母が此程までに、共感する能力が無いのは致命的だと思う。

 

結局、自分で仕事をして貯めたお金で、教材や環境など。学習するのに、不都合な事を改善していった。

ボールペンは母方の祖父に頼んだら本当に良い物を買ってくれた。

 

それが宝物の一つに成った。大事に取って在ったのに。

 

「そして今は亡き、父方の祖母に話したら、今適当なのも無いし、一緒に行ってあげられないからっといって2000円もくれた。」

訂正箇所:鉤括弧は願望の記憶の改竄だな。一晩で思い出したのは父が1500円で祖母が500円であったこと。そして言葉のニュアンスは父が暖かかったのと、祖母に貰おうと思ってではなく、何か言って欲しくて話したら祖母が共感を示し、理解し、分ってくれたことが嬉しかったことだった。一番嬉しかったのは祖母だったと言うことだった。やっぱり、おばあちゃん子だったんだな。亡くなったときメチャメチャ悲しく、寂しかったものな。。

 

 

当時月に小遣いで400円しか貰っていない自分にとって本当に嬉しかった。

そういう意味が有ったのなら棄てなければ良かったな。

もしかしたら、まだ有るのかな。。アソコニ・・

 

母のような人と一緒に暮らし、結婚するぐらいなら、死んだ方がマシだし、一人で居た方が余程良い。

 

母が入院したときに意外な程悲しくなかった。そこには嫌悪する自分しか居なかった。

 

そういう事が少しは改善され望んだ事が出来るのだから本当に幸せだ。

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迷いと躊躇い

2012-07-23 16:45:34 | 日記

 なんというか、迷いというのは本当に人を惑わせる。

どんなことにも付きものなのだが。

 

幼い頃から、面倒くさがりだった。

小学校の頃の数学、当時は算数だがそれも面倒なので、全部覚えることにした。ということを勝手に自分で決めてしまった。

本質を理解することが算数であるのに。

まあ、周りがすんなり進んでいくので、そんなもんなんだろうと当時は思っていたが。

きっと、帰ってからも勉強をするのが当たり前だったんでしょうね(苦笑)

当時勉強は学校でするものという何だか頑なな拘りが在ったように思う。

それが、面倒くさがりだった自分の解決方法が全部覚えるという、行為に繋がった様にも思う。

 

昔から一人、いや妹が居たか。何だか戦友の様なきもちもあるが、それも中学の時に失せたか。

 

場所を変えるか、時間の使い方を変えるか、人付き合いを変えるか。か。。。

 

ネットとは本当に不思議だ。

今の世の様に個人が様々な場所で自分の考えを述べ合っている。

私がネットを始めた2000年の境90年後半頃ならば考えられなかった様なことだ。

その頃はダイヤルアップだったし。あの電話に繋げるピ~ピィリリーって音が何だか懐かしい。

当時までに、HIDEのCDを聞くことが有ったが、そんな音で感覚を共有しているようで益々好きになったことをCDを聞いて思い出すこともある。

 

英語とはなんだろうか。

英語を勉強していると何時も感じることである。

そして、心理学史も勉強しているとやはり重なってくる。

日本語は感覚に寄り添った言語だと思う。

平安時代は今よりもっと情緒豊かな表現があった。

いかにしてもっと巧くその内容を表現することを競っていた。

そして現代である。

日本語が英語化してしまった様に感じる。

総てを対象化して見るようにする。

 

私はそれは違うんじゃ無いかと感じるし思う。

 

心理というモノの認められる過程を見るにつけやはりそういう対象かにより科学とされる。

海外的な制御すること。が科学というものの本質になっている。

まあ、解る人が見れば当然だと言われそうだが、私が言いたいのはその先に有る日本語としての科学という、ものである。

それは科学では無くなるのだろうか?

私は違うと思う。

制御をベースとした考え方に今の世は限界に来ているのでは無いだろうか?

日本語的な思弁とでも言うのかそれから出発した思考により、それが計測出来ればそれこそがより深い探索に成るのでは無いだろうかと、最近思わずには居られない。

なんな考えをした人が居ないのかと思っていたときににた考えの人が、三枝博音だった。

彼の文章は旧字体で非常に難解だが、興味深い所もあった。

どんな事を論じていたのか、一部しか読んでいないので何とも言いがたいが。

 

日本語は半身の、魂の半身の様な存在であると私は最近よく考えるのだ。

 

 

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なるほどねぇ~自分の内観から

2012-07-15 12:18:52 | 日記

 混沌の心の中からの考えていた。

私の中のテーマソングは心の深いところを現していることは前にも書いたことだが、そこから考えて行く。

これは大変重要なことで、男は初恋の人を求める。ということ、これは見てくれということではなく、その人の内側などである。

それを思いながら見て行くと、私は北斗の拳のリンが好きであったのと、現実の世界では自分の欲しかった異性からの愛をくれたのは祖母であったということ。

心の内観で、祖母とリンは共通していたということだ。

意思がが強く、強い信頼、愛、そして信念。時に勇ましく。まるで女性で居ながら男性の様な心の強さ。外見はとても女性らしいが。

祖母もそういう面では戦前世代だからなのか、大奥下りの家柄なのか、凄く凛々しい声を出して叱ったり、踊りをやったり、詩を読んだり、習い事が好きで幾つもの免許状を持っていた。

流石ばあちゃん。

リンも北斗の拳2の意思の強さは相当。

そして最後に見せる笑顔がに惚れた。

 

そう見て行くと、そういう信念と愛を持つ人を好きになってしまうのかもしれない。

そして、まるで内側は男性のように心の強い女性(人)ということなのか(微笑)

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混沌

2012-07-12 22:02:30 | 日記

 私は人生で欲しいモノは愛する人だけが欲しいだけ。

この思いは小学校の頃から変わって居ない。

唯一欲しかったのは此れだけ。

大きくなり、愛が分からなくなり、自分の考えて居たモノとは違うのかと疑ったというか、分からなくなったこともあった。

 そして、愛にも様々な形があることを知ったが、共通のモノもあった。

本を読んだり、詩を読んだり、宗教本を読んだり、オペラや音楽、特にクラッシックの深いところの感性を旋律で、調べとでもいうのかを聞いたり。

 絵の事は抜けて居た。言葉に拘り過ぎて居たのかもしれない。

 小学校の時にも、中学校の時にも何時も絵をバカにされたりして居たし。

 小学校の頃は、どう書いて良いか分からなかった。

 描けば笑われる。

笑われたく無いのか?

そういう事で妹が羨ましかったよな。自分は小さい頃一緒にやった事は無いが、妹はよく目を掛けてもらって居た。

そう言えば、性的イタズラを為れたという事なのか?。

確か何処かに記述があった様な…調べ復習為るか。

自分が一人だった3年間ぐらい、正確には2年半位だけど。

 保育園にでも、いっていた方が良かったけど、此れが所謂待機児童状態って奴なんだろうなぁ。

自分の中での感情は音楽だったし、思考は絵だった。

感覚と思考の整理

だったんだなぁ…

 

 


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現代文のにおいと、お金と言葉ついてを思い出す

2012-07-10 07:41:26 | 日記

 しかし、あの犬と兎の絵盲導犬の絵はずっと見ていても見飽きない。

何かを感じるような気がするのだ。・・・和むのかな。

 

それとは別に、食べ物が良いとか、そういうことで幸せを感じたりしないんだよな・・。

いい物を着るとか。

まあ、大量生産のものだから、均一的ゆえにとも言えるのか。

たぶん特注品でも喜びは感じないだろう。

推測だが、そこに何か幸せな思いをものに感じるのだろう。

車にしてもそうだと思う。

 

 

しかし、自分のこととなると盲目的でどうにか為らんのか。

 

自分の感情と思考が分離しすぎているんだよな。

 

それに何だか禅を組まないと物事の一面性にばかり眼が言ってしまう。

本当にあの犬だよな~。眼が悪いから、においの鼻と、聴く耳、か。(微笑)

 

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