日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

黒鉄一輝を思い出してしまった心

2018-06-27 21:56:59 | 日記
 以前の記事にも言葉がハッキリ胸に入ってくるが記憶のできなかった言葉を黒鉄一輝の出てくる第二話の話を以前書いた。https://blog.goo.ne.jp/dark_angel_jam/e/a05ea03b871b016bc95517510cb9a8b8

 と言うところで。この中で語られることば,道を間違って,迷って,見失って。と言う言葉が何だか私も共感なのか,ただ単に心境なだけなのかは分からないがそういう思いを感じている。これを書きたくなったのは,最近話題の島津慧大の大胆な行動を見た所為だろう。

迷いの森に迷い込んで,道を間違え,道を迷い迷い,更にあらゆる道を見失って,背の高い葦の空間をさまよっている感覚だもんな。それが黒鉄一輝の映像とも何故か重なってしまう。


これのDVDが欲しいなぁ~。いつか買おうかな。その為には続きが是非みたいんだけどな。。
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数学の二つの本と交差する感覚

2018-06-27 05:11:32 | 日記
 数学の遣り方を見直して,頭の再構成をする為に,再び取り組んでみると,当時高校時代に変だなぁーと感じていた当時を事を思い出す。


当時何故か変だぁーシックリ来ないな。と不思議な感覚を感じどうしてなのか解らなかったが,長岡亮介の解説を聞いてみるとそれが良くわかる。性質と言うものに付いての解説の大きな違い。



それは二つの本を具体的に読んでみて解ったこと。それは数学を自分のモノとする為には二つの本の内の一つ,長岡亮介の二つの心の本中にある裏の心を知らなければ為らないが,その為には二つの本の内のもう一つの本「数学者の哲学+哲学者の数学」にある証明が数学の求めるところである。と言う精神が決定的に欠けていたと言うことが数学の教科書を見比べてみると良く解る。


私の学校だけがおかしかったのだろうか?っと思い著者や認定があるかなど確認すると何れも文部省認定教科書であり,かつ戸田宏他何名かと書かれていたりして,どう言うことなのかと言う思いに駆られて浮かんでもくる。どういう言葉かと言えば変だなぁ~。オカシイな~と言う言葉だ。


そうして紡ぎ直してミると心の中でしっくり来る感覚がある。他の人はこんな風に思わないんだろうか。小学時代に感じた「二つの方法の分かれ道が交差する感覚。」と言えるのかもしれない。これも日本人を混乱させるGHQの洗脳工作なのだろうかと思わずには居られない。



また,相応しいモノが書けた。気分がいいな。
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長岡亮介がくれた答え。

2018-06-25 23:07:51 | 日記
 長岡亮介が語ってくれた事が,高校の頃にずっと探していた,疑問の答えがあったとは益々好きに成るな(微笑)

 デカルトが触りしか出来ていなかったことが,現代の高校では触れられているか・・。この中で語られていた長岡亮介の言葉。中学までは文字を自在に操れるだけで問題なかったが,高校ではその次の段階の抽象的理解を駆使する事を自在にする事が求められる。か・・。


 現代の試験では必ずしもそういう問題じゃないから,歪んでいくんだろうな。昔の私はそういう試験問題から類推する傾向だったから,尚更混乱をしてしまったわけだが,戦後日本人の特に私の様に,素朴に考える者にとってはGHQに誠に真に見事に填まってしまった訳だ。


GHQが戦後日本人の頭を混乱させるには十分だった訳だな。故に本質を見えにくくし,更に其処から再生産されるという見事に嵌る状態を生ませた訳だ。ウマすか・・。確かに見事だな・・。膿ますに倦ますに績ますに熟ますか・・。


そう言えば高校の頃,何時も校門まで出て行く時からずっと2キロ位歩いている間中に,中学との違いを求められているものは何だろうかと,ずっと考えて居たんだよな。


その事が,唯の延長である筈が無いと思っていて,中学の頃に感じたのは,具体的なことを一般化するという事はどういう事なのかを理解したんだよな。其れが文字だった訳で,その様な事が必ずある筈だと思っていたが,見事に解らなかったんだよな。恐らく私の通っていた学校のレベルが低かった所為であったんだなーと思って本来必要でないのにあらゆる科目のBの参考書を母親に裏切られた時から自分のお年玉で買って行って居たんだよな。


お年玉何に使っているのと聞かれたときは参考書を買っていると言ったけど,「そう」というばかりだったんだよな。私としては未だ期待を抱いていたと言う何とも愚かだったよな。愚直なんだな・・。きっと。私は一度行った事を必ず実行してくれると期待してしまっていたんだな。。
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二つの違和感

2018-06-17 01:01:29 | 日記
 社会的に奇妙で違和感に思っていたことは漸く長岡亮介の二つの心と言う本を読んで解決できたが,もう一つ世界の感覚が違って観えたのは何時頃だろうかと言う質問を先日大学で受けた。その後色が見えたり,今は共感覚だったりすることが分かったが,その時に答えを一瞬戸惑ってしまったのは恐らく分からなかったかも知れない。


その場面で,今までこうして文章を書いて来たから,その場面で言葉を発する事ができて,言葉を継いで行く内に自然と告いだ。その時話したのは死を意識したときからだったと思うと一瞬で思うに至り,幼い頃の置き去りの恐怖記憶そして,川で溺れて2キロ近く流された経験がある記憶。


夢中でもがいてもう駄目だと何度も思い,必死で体力を削られながら足掻いた記憶。始めは数十メートルだから戻ろうと流れに,逆らってしまい,維持に近い状態に持っていくことすら全く駄目で,流される量が3分の1に為るだけだったこと。そして無駄な動きをして体力が5分の1になって削られたと後悔した感覚。


その後,横に行こうとするが目の前が暗くなってきて本能的に此処で,暗くなったらやばいと思い,これでは何処にも行けないし,このままでは意識を失うと思い,時間を稼ぐんだと何とか呼吸だけでもと切り替え,上下を繰り返し行おうとするが,中々水面に出られず,やっとそうして何回か口だけ出せたか出せないか。

細切れ呼吸で漸く,冷静な意識を持つんだという気持ちになり,現在どういう状態に為りつつありどうするのかと思い,時間が欲しい,時間が欲しいと,感覚的から思ってしまっただった。

細切れ分でやっと,体力の回復した感覚が半分で,これでは自力では何処にも行けないと思い,取り敢えず呼吸を維持する事にしたが,維持をする状況でも次第に体力が減って行く感覚が在り,回を重ねる毎に半分に為って行く感覚。これは不味いと思い一度頭を周りを見る事にして意外に川の幅が広い事に挫けて,狭いほうにと思い向かうと,温度は冷たく身体は動かなくなりそうで,更に体が仰向けに為り,上下左右の更に下降に引きずり込まれそうになったんだよな。

それで場所がどうと言っている余裕も無くなり,もう考えるのは止めたんだよな。

とにかく時間を稼ぐ行為をして,その下降に向かない方に少しでも進む事にしたんだよな。

考えるのを止めると,体力というより動ける力が半分に削られるのが無くなったんだよな。今思えば当然なんだが。感覚としては回復するのが半分で,消費の割合が下降に向かうところで3分の1で徐々に離れていくと5分の1で済むように為って来た様に思う。


それで,漸く足の着くような所に来たが立てなくて歩けなくて,石に捕まり暫らくそのままで居たんだよな。どれ位そのままで居たか分からない。


そういえば,その時後からか。何だが自分の周りである宙が奇妙に感じられる様になって,奇妙と言うのは何だか斑が感じられる様になって,何故か人が何かを纏っている様にも観える事が度々ある様になったのは。


それで小学3年生の時から,水が怖くて仕方がなくて,深いプールがある市営プールに行ける時は一人でも出来るだけ行くようにしていたのか。
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図と数学的認識 20180618-修正20

2018-06-17 00:24:07 | 日記
 最近無性に頭の中を映像を,図にしたくて仕方が無かった。そんな為かA3のスケッチスケッチブックを買ってしまった。


何だが不思議な事に,数学を学べば学ぶほど,世の中の繋がりと重なってくる。

その一つが順次共謀罪なるものが,数学のところと重なって,マジかよと言う感じに思えてしまう。数列だったり,指数関数であったりするものが,社会と繋がって観えると言う不思議な感覚。こんな事有り得なかった。


そして、新しく図を描いていると思っていたことが、既に数学で触れられて居たりする。マジかよっという感じ。私の理解の仕方が特に図であるので更にそうなのだと思うところもあるが、これは日本語特有でないのかとも思う。


 普通の人はこんな風な感覚を良く感じるのだろうか。普通の人と言うのは,長岡亮介の定義する普通の数学だが。

此れが小学生の頃に違和感を感じて、求めていたものだった。


更に、最近は物事を理解する事柄と人に対してあるビジョン或いは図と言って良いのか、それが何だか話していると視得る様になってきた。家督を継いだ伯父さんに対しても少し見えていて、更にその息子にも見えた。当時は凄く朧気なものであるが・・。


そうしているうちに、あることが浮かんできた様な気がした。それは図を共通にして許容する変化量が数学の認識力であるように思えたという!私にとってはもの凄い発見なのだが、尊敬する祖父の感覚はこんな感じなのだろうか。。更に言えば菊乃さんの認識界はどんななのかな・・。


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