日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

再構成と感覚 追記20180601

2018-05-30 17:43:04 | 日記
 2010年09月頃に理系について、視点が広く持てないという事を書いた記事がある。その記事について、何故そう思ったのかという事を考えていたが、錯覚してしまったという事だろうと思う。自分の周りの人で理科大院卒の人がいて、明らかに理系だと思うが、彼から拡大して、考えてしまい誤った結論に達してしまた。今思えば統計学から考えればそんな結論に至る筈がないのに。大学科目で統計講義があった時受けたんだけどなー。

恥ずかしい事だがそれを踏まえた上で考え直して観ると、数学について直ぐに答えられ頭に入っている人と、何だが思い出せなくて教科書を見て暫くしないと思い出せない人がいるのかもしれない。数学の本質を理解するという事なのだろうか?

まあ、あの当時の記事を書いた時は何故理解できないのかって、混乱の真只中で、此れが科学的考え方というモノの始まりを認識することになるんだよな。その時に何故か、基礎の教科であるはずの科学的見方考え方という科目が理解できなくて完全に精神が参っていたからな。そんな科目なのに理解するのに、大変な困難を抱えることに為ったところだったんだよな。

全体的に見れば、数学の理解の仕方を誤っていた事を認識した後に、頭の再構成を図るという意味で、試行錯誤の時期だったものな。数学をバラバラなものとして、例えるなら数学の世界だけで完結している感じ。何故それが理解出来なかったんだろうか・・。

なんだが、普通に言語を話しているさなかに、幼いころ感じた裏の言葉が別に鳴っている感じがするのと、もう一つが似ているけど別の響きを感じる様な感覚。

言葉がより心情に近く、もう一つは近付かなくても感じるような感覚。

そういえば初めて会ったときの妹の旦那に二重の感覚を求めて居た気がする。一つ目が駄目な場合の手段としてという意味で。この事を父に話したが、何のことかという感じだっただろうな。何といっても本人さえも、認識出来ていないんだから。
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数学 その五 心理と数学

2018-05-28 21:02:26 | 日記
 川田亜子アナか・・。亡くなって話題になった時も戻った数列の学習をしていたな・・。恥ずかしい事ではあるが・・。当時は何故理解できないのか,何が問題なのか,今までの方法が間違っていたのかと訳が解らなくなって,一人混乱と孤独の中で彷徨っていたな。。そんな中で華やかな世界に居る人が,どうなって行くんだろうと純粋に思っていた。


心理と医学と数学と情報と文化等々あらゆる学習を同時に求められて居る時に,川田亜子さん彼女は選択を間違ったよなぁと,何となくそこはかとなく,心理学の存在を知り始めた段階であったが思い始めたんだよな。小此木啓吾の話に正に当て嵌まるじゃんって思って,亡くなってしまった時から暫らくして,心理とは真理であり審理なんだなぁーと思い出したんだよな。そして今は数学で心裏を感じているところと言うわけか。。


数学の学習の行動が,進めていると登山の様だなと感じる様に為って来たと言うことなのかな。適切な方法じゃないと登れない上れない昇れない。途中で遭難してしまう。理解できない事が起こる時はそれまでの過程で何処か誠実でない仕方で自分の頭に入っていない。


即ち登山で言えば何処かしらで,偶々と言う様な誤魔化しの様な事が起こっていると言う事になるのかな。私の場合はだけど。誰かに気軽に訊ける様な環境があれば別なんだろうが,私の場合聞いてもその時は解った様な気になるが,どうもしっくり来ないと言うのが常で,質問している意図が伝わらない事が多いんだよな。よく言われるのが「そんな事を気にしなくても良いんじゃないの?」と言われる事だが,実際はそこの気にしている箇所が私の知りたい処だったりするんだよな。これは長岡亮介の「数学の二つの心」で漸く理解できた事ではあったが・・。
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赤毛とフレデリカ

2018-05-25 23:23:52 | 日記
大好きなばあちゃんの形見とも言える、河豚尻尾があったりする丸い形の和風醤油皿が割れてしまい、とても哀しいと言う話をした。私はとても気に入っていたと何度も話して、母は私はこう言うのは買わないし気に入っても居ないと言うのに、私には別のどうでもいい皿を使わせて、自分は私の気に入っていると言っている皿を使う。


こう言う所だよこう言う所が本当に、嫌な過去を思い出させて、やっぱりこの人なんだなぁ〜と思わせる。


xファイルのスカーリーや銀河英雄伝説のフレデリカだったらこう言う事はしないだろうな。。

フレデリカが苦しんで居た時の私の女神に思えて居たんだよな。それは今でも変わらないか(微笑) なぜかと言えば人に薦めることができる作品であるという事は今でも変わらず好きでもあるという事だし、前の作品の方が音楽も最高だったし。


フレデリカは赤毛じゃないけど、今までだったら赤毛で描かれる人物だと思うんだけどな〜。
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エーリッヒフロムと河合隼雄  20180525‐26

2018-05-25 22:34:52 | 日記
 人間の幻術や幻想に付いて考えていた。


とりとめの無い事のようにも思えて,深い事でもある。自分が何年も勉強している,心理学ではどの様に考えていただろううかと思うとき,様々に考えるが,先ず思うのは日本人の場合と非日本人の場合に付いてだと思う。


この場合やはり原初の統一意識のようなもの,記憶と呼べるものかがある様に思えて,具体的にそれは何であろうかと思うとき,一夜明ける前から考えていて,漸く今になってしっくり来る感覚が浮かんできて文字化してみようと現在に至るが,それは日本人に付いては日本神話であり,非日本人はギリシャ神話であったかということがあった。


日本人については日本神話と何処か繋がっているような気はするが,何処か切れているような感覚もある。この奇妙さは何だろうかと随分昔から思っていた。いつ頃からかと思い返すのも難しい程であったので時間が掛かったが,恐らく初めからだと思う。詰まりは小学校一年生の時だ。


あの時代は不思議な感覚が溢れていた記憶がある。絵画の溢れている二階の廊下があり,其処を歩ける時に歩くのが好きで,帰りにも其処を歩いて帰るのが好きだった。歩いて来ている時に何度も不思議な感覚になり,絵から人々の感覚がダイレクトに直接に語りかけてくる感覚が在り,何度か暫らく,自分の周りの世界が暗転し空中に浮いている感覚になり,直接語りかけてくる場所から深く入っていったような感覚が在った。

今の表現で言えばダイブしている感覚で,それを繰り返しているうちに深さがある事に気づき,更にそれを(ここでは「を」で好い何故なら感じる主体のままであるから)気づいたすぐ後に共通の意識の様なモノがあるのに気づかされたのだった。それが何であるのか,当時は解らなかったが,文字も怪しい時であったし。

それから文字が少し解るようになって,それを求めるかの様に図書室に通いだしたのだったな。通っている時もその現象が良く起こって入るんだったな。。そういえばそれを体験した後は他の場所でも,濃淡はあるが常に存在している感覚が在ったんだった。全体を意識したのはその時だが,それより随分幼い頃に,母方祖母の家で感じる感覚があり,寝ている幼い私の囲いの中からの記憶と自宅に戻った時の感覚の違いだったか。その時は間欠に感じるという感覚だったか。


学習した中ではギリシャ神話の事が良く述べられていた,科目であったので日本人の事が余り述べられていないのが私としては不服であった。そこで本を買う事になって河合隼雄を買ってあったんだと思い返すに至る。


私の場合この様に,二重の要求の様な事があり,本を読み始めるのだが,此れが何だか煮詰めるという巷でよく聞く現象の様に聞こえてしまって私としては実際にはどうなんだろうかと気になる所ではある。
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数学 その四  長岡亮介と小河勝

2018-05-24 14:04:53 | 日記
 言葉を書くと混乱するということを以前書いた事がある。これは以前に書いた通り間違ってはいなくて、明確な方法を知らずに書くと混乱を極める様になるという事と言って良い。けれど、その効用はあって、後から見直すときに自身がどんな状態であるのかを確認するには良い。吉本工業の首脳の方が言っていた事を思い出す。


そんなことを踏まえた上で、数学の効用としては自身の頭の中の整理を手助けしてくれるという事に他ならない。その場から進むという場合で考えれば、無数の選択肢がある場合に、それぞれを把握するという事なのかもしれない。それが抽象化と謂われるものなのかもしれないが。


そういう事を思っているとき、現実世界に戻って数学教育を考えるとする、その時に割り算を教える場合に、私が教えられた時代は円グラフを使って教えるというモノ。観察すると甥の状況を見ても、それは変って居ない様に思われるがそれで本当に理解できるものだろうか。この事について既に小河勝先生は指摘されているが、先生は戦前の教育は別の形で、この様に教えるのが一般的だったとも本で語る内容もある。この様に教えないと本質が解らないとも同時に語ってもいる。


私の様な数学的能力の低い者についてはその本質が理解できないまま進んでしまうと思うのだが。


だが、最近は敢えてそうしていると私は思って来ている。それは歴史的経緯、GHQ連合国軍総司令部のその中のWGIP War Guilt Information Program なるものがあり、此れを日本語に敢えて直訳するのではなく誠実に内容を踏まえて翻訳すれば「敗戦後 罪意識 刷り込み 設計指針機序」という風に、成るのでなないか。


私は小学時代から、これに起因する事柄を探してきた。


そう考えて行くと、合点が行く様に思える。長岡亮介先生の数学教育の深化という話でもこの割り算の話なども出てくるんだろうか。


心理学的なことも同時に浮かんでもしまうが、此れは書いてあることが混乱するので避けた。



参考

  https://www.sankei.com/life/news/150408/lif1504080003-n1.html
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