思わず、フェチを刺激されたウォマー。ankle warmer とでも言うのか。 しかし、3月の聖女の記事で、落ちが間違ったら、どうしようも無いじゃないか。
思わず、フェチを刺激されたウォマー。ankle warmer とでも言うのか。 しかし、3月の聖女の記事で、落ちが間違ったら、どうしようも無いじゃないか。
日曜日に小田原へ行った。目的は大雄山、最乗寺に行く事。
父は此処で不敬をして、脚の肉離れを起こす。更には傘まで誰かが借りて、それを家に持って来てしまうという、何とも不吉な事の禊ぎの旅である。
ずっと父に必ず返しに行った方が良いと父に話していた。
山深い事は確かだが、私が禅をし瞑想する時のこんな場所があれば良いのにと思った川の景色が目の前に来た時に、初めて来たはずなのに、驚きを感じた。
正に求めていた、水のイシを感じる観じるとでもいうのか。
返しに行き、祓いの札と何かをもらい、行った所のおみくじを引いたら、普段出る事の無い、大吉であった。
その後、長年行きたかった小田原城へ行った。
小田原城は期待していたのに、自分が思っていた様なものではなかった。
私は松本城、深志城の様な見事な作りを期待していたのに。
本当に、今書いているブログの風景の様なものも在って、蛙の心境であった。
自分の弱点の一つである、英語を遣っていると本当に日本語初学時代を思い出す。
周りの人がなんとなく文章を理解できているのに、なぜ自分はまったく頭に入らないんだろうと。何だろう。悔しいと思うのが普通なんだろうが、「情けない」という気持ちに陥っていた。
先生から、文章がバラバラで単語の羅列にしか過ぎないと。
確かに。自分でもそう思っていた。でも、自分では頭の中に在るものをそのままというのだから、それで良いと思っていた。
こういう事って言うのは昔から有るんだよなー。
言葉を額面どおりに受け取るって言うのが。
まあ、逆に良い先生に出会えれば伸びる、否、伸びたか(苦笑)
そして、要求に答える為に考えに考え抜いて、その日では答えが出ず、考え抜いた3日目に(やはり3という数字(笑))やっと、一つの結論。
心を開放するしかないという結論に立った。
心を開放して、空のような、無のような状態にし、そうすると自分の中に浮かんできたのは文字ではなく「絵」模式的な絵でもいいし、モヤッとしたものを表すのは絵でしか表せなかったというのが正確か。
メタ認知というらしいが。教科書にも別の本にも書いてあった。
そう考えていると、英語を学習することは日本語、自分の本質の日本語学習に迫ることであるという言葉が脳裏に浮かぶ。
大学の友人が自分の話したいことが、予測変換に出てくると話していたことがあったが、私の場合はそういう事は稀にしかない。
携帯などでも特にそうだ。
私は当然だと思う。文字で表しているのは私の場合は絵だからである。千変万化する絵。絵から得られる情報は膨大で一つとして同じものはない。絵というより像である場合も有るか。
こんなことを気づかせてくれた菊乃さんに本当に感謝したい。
図形問題は色々なポイントが有ったんだなー。
やっぱり、基礎は出来ている。それを使った応用を知らなかったのか。
何のための図形かっていうのが分からないとイマイチ、自分の位置が分からないというのも原因。
だけど、こういう言葉を教えてくれた先生はフランス文学を専門にしていた先生。
こういう言葉に共感が持てるっていうのも、自分が文系よりだっていうのが分かることがなんだが(苦笑)
確かに自分には数学的才能は無いと思う。数に喜びなんて微塵も感じないし。
生物なら特に植物なら、植物の構造なり仕組みなりが、何だか好きなのだ。
人も、もちろん好きだが、構造も。でも、私が興味が特に沸くのは構造から心が生まれるのか、それとも初めから与えられたモノが構造を介することで、それを表現する感覚器のようなモノなのかということ。
社会科学で最近興味というか、求めていたモノは、「ホップス」に類するモノだった。
今度はこの辺りを暇なときでもっと謂うと処か。
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前に疑問だった曲はスティーヴィー・ワンダーの「isn't she lovely」だったか。その次の曲も。ベスト盤だからな・・(微笑)
こういう、愛に満ちた曲良いんだよな~。
昔はゴスペラーズの曲って全然心に響かなかったものな。
例えるならお祭りを遠くから見るって言うのか。
でも、もっとも相応しい例えは日本神話の伊弉冉(イザナミ)だったかが、岩の外の楽しいそうなという構図で、伺って居る姿が頭に浮かぶ。
こういうところからも、やっぱり自分には女性像を少しづつ取り込んでしまったんだなーっと思ってしまう。(微笑)
やっぱり、範囲を見ていると、やってしまった人から見れば、複雑でも無いが、怪しい範囲を観ると、家庭環境がより怪しく成ってきた時と符合する。
その時、どんなに考えても、集中出来ず、理解も出来なかったんだよなー。
そんなときにも成長期の身体の時期も、家庭も、学ぶ環境も、それらの解決が、減らすしか無かったんだよなー。
ふぅ~ぅんぁ。
女性にはそういう身体の負担が無いだろうから良いよな~。
でも、定期的なモノは有るんだろうけど、どうなんだろうか。
まあ、この時期特有というのは無いんだろうな。きっと。
ノートを見ると、祖父さんのノートの様な雰囲気が出ているようだから、使い方は間違っていないんだろうけど、進度が遅いなー本当に。
数学も英語も本当の意味で理解出来ていなかったんだな。
故に、歯車か線路の踏切の様に徐々に徐々に、ネジが狂い始めたのか。それから、イメージか。
美術の時間の今までに、観たことの無い想像上のモノを作れという課題が、結局出来なくて1だったが、果たして今までに見たことの無いモノを人が作るとき、そんなことが可能なのだろうか?
私は人が作るモノは何処かで観たモノの組み合わせでしか無いと思うのだが。
その出来上がった観たことの無いものは観たことのあるモノの組み合わせだがら、観たことのあるモノにはならないのか?
結局それはその通りで、受領されず、作りようも無いということで、出来なかった訳だが、菊乃さんだったらどんなモノをつくるんだろうか。或いは考えるのだろうか。
今は確かめるべもないが(微笑)
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いや~しかし,感覚的に必死というのはこういうことか。
久方ぶりの感覚だが,いや,継続してというのは2度目の死を感じた後以来か。いや,「・-・--ー」という感覚か。
感覚と理解,学問学術が後追いを様な,感覚が即の様な。感覚は感じたその瞬間から既に過去のモノへと変化する。
西洋型のものはその理解偏重のような,和は感覚偏重のような気もするが,
江戸時代には和算という様なモノもあったということから,そうでもない様な気もするが,
実際の資料を見ると,ギリシャ文字系の今やっている我々数字系ではなく,もう少し日本語親和性が高い表態を持っていることからもそうでも無いような気もするが,
おそらく,感覚から理解へという事なのではないだろうか。
この事でも英語の前置詞を考えようとすると混乱する。
出来なくは無いが,なんだか河合隼雄や村上が話していたことなのか,離れて行く感覚になる。
実際のところ,そこら辺りは興味は尽きないが,s爺さんもそんな処が面白かったんだろうか。
日本語が面白くて仕方がないと言っていたらしいし。英語が得意だったらしいから尚更感じたのだろうか。