ファーブルについてから再び文字を運びたくなった。本を完全に読んでいない状況ではあるが。大まかに知る事は大事である。劇文の読み方を教えてくれた教授はそう語っていた。その科目でAと言う評価も貰えた。通常はあまりテスト論文と言う形なので貰えない筈のもので。
彼の本当に遣りたいと言う気持ち。即ちそのことが好きと言う気持ち。これは何者にも勝ると言うこと。但し,それが心の底からならばということなのかもしれない。
その中で語られている本能というもの。前に書いた事がある事柄で動物故に客観的に観察できると言うこと。人間に付いても言える事らしいが,心理研究法でやったが何処まで出来るのか・・思いは深まる。そのことについて知っているが試していないので私は何とも言えないと言うところはあるが是非ともそれをやりたい。
それは置いておいてファーブルではのその本能と言うものの巧みさを語っていたが,人間も動物としての本能が壊れているといっても,それを認識しない場合そのことに付いてスキーマが実行されるのではないかと思っている。実際の認知状況を見てもそれは明らかだろう。そこで思い出されるのが兵法の話でもあるのだが・・。
此れと同時並行して論理的思考と言うものに付いて,も考えが浮かぶ。多く伝わってきた私の家の状況がこの話に特に近いと言う事を本家などの集まりのときに強く感じた。お互いに持ち合わせている,分析や知識や視点や経験や観測や互いに分析しあってどの様に観えるかを互いに観察して居る感覚。本家に行った時のあの感覚は今でも忘れられない。
そこで幼い時に父が示すものは論理的な思考と言う事をしろと言うことだったのだと,父なりに示していたのだと思う。更にそれは自分の頭で考えると言うこと。確かに父は考えろ考えろと良く私のことを正していたが・・。
そこで自らの傾向ということに為っていく訳であるが,5教科7科目を考えた場合,わかり易い前に述べた事から列挙していけば,科学は私の場合絵であったということ。
絵によって理解し深めていた。生物であっても,化学であっても。但し物理は数学であった。そして数学は哲学であった。その哲学とは論理の事で,己の考えを客観化する為の必須の手段であった。
正し現代ではそれが大いに歪められていて,自身の都合の為に客観視を失わせると言う状況に追い込まれていくのが流行っても居て,私も飲み込まれていたが(自嘲) それが社会の歪みを生じさせていると長岡亮介は原因を話してはいたが。
そして社会に付いてはその論理的整合性によって物事を正しく観て診ていくという,虚飾を見て行こうと言う,何処まで解っているかと言うことそのものであった。
そして言語とは表は表現方法ということと,裏は先人たちの知恵や心や魂を感じるものであったと言うこと。
美術などは表は技術などの科学であり,裏では心の現象であった。この事で私は幼い頃に保育園での頃教師に色を馬鹿にされ描けなくなり,小学校入学時に絵を描くと言うのがあり,初めての授業で絵を馬鹿にされたことが蘇り,色を黒のみで描こうと決意し,色の濃淡で表現し自分ではうまくいったと思ったが,その時も教師に認められず,張り出す事を拒否させられて私だけ絵が無い状態になり,授業参観の時の後に両親に「~君だけ」描けなかったんですと教師が言うことになった。
そして音楽は本能であり,感情の発露であり,生そのもの。生は様々なセイなのだろうと思う。
何を汲み取って学ぶべきなのか。私の場合特にその裏の意味と言うものを採るのが苦手に自分で思える。先に述べた理科と同じものが,社会と数学や他の科目も有るのだろうと思えていたがそれが解らなかったもんな。それ故に数学で心を感じるんだ何て別の教授に言われたりするが,心なんて在るの?って言う感じだったものな。
それ故に私は頭が悪いのだろう。けれど会うの話で言えば高校の頃の同級生や先輩学生などにはあなたは頭がいい,あるいは何々氏は頭がいいなんて良く言われるのだが・・。そういば別の教授にも君は頭が良くてスマートだとキャリアの先生からは言われたりするのだが,何故そうなってしまうのか・・。確かに鋭い質問をよくするとも言われるが努力の結果ではないのか・・。
漸く,疑問と言う形で結ぶ相応しいものが出来たが・・。ずいぶん長くなってしまったな(苦笑)
彼の本当に遣りたいと言う気持ち。即ちそのことが好きと言う気持ち。これは何者にも勝ると言うこと。但し,それが心の底からならばということなのかもしれない。
その中で語られている本能というもの。前に書いた事がある事柄で動物故に客観的に観察できると言うこと。人間に付いても言える事らしいが,心理研究法でやったが何処まで出来るのか・・思いは深まる。そのことについて知っているが試していないので私は何とも言えないと言うところはあるが是非ともそれをやりたい。
それは置いておいてファーブルではのその本能と言うものの巧みさを語っていたが,人間も動物としての本能が壊れているといっても,それを認識しない場合そのことに付いてスキーマが実行されるのではないかと思っている。実際の認知状況を見てもそれは明らかだろう。そこで思い出されるのが兵法の話でもあるのだが・・。
此れと同時並行して論理的思考と言うものに付いて,も考えが浮かぶ。多く伝わってきた私の家の状況がこの話に特に近いと言う事を本家などの集まりのときに強く感じた。お互いに持ち合わせている,分析や知識や視点や経験や観測や互いに分析しあってどの様に観えるかを互いに観察して居る感覚。本家に行った時のあの感覚は今でも忘れられない。
そこで幼い時に父が示すものは論理的な思考と言う事をしろと言うことだったのだと,父なりに示していたのだと思う。更にそれは自分の頭で考えると言うこと。確かに父は考えろ考えろと良く私のことを正していたが・・。
そこで自らの傾向ということに為っていく訳であるが,5教科7科目を考えた場合,わかり易い前に述べた事から列挙していけば,科学は私の場合絵であったということ。
絵によって理解し深めていた。生物であっても,化学であっても。但し物理は数学であった。そして数学は哲学であった。その哲学とは論理の事で,己の考えを客観化する為の必須の手段であった。
正し現代ではそれが大いに歪められていて,自身の都合の為に客観視を失わせると言う状況に追い込まれていくのが流行っても居て,私も飲み込まれていたが(自嘲) それが社会の歪みを生じさせていると長岡亮介は原因を話してはいたが。
そして社会に付いてはその論理的整合性によって物事を正しく観て診ていくという,虚飾を見て行こうと言う,何処まで解っているかと言うことそのものであった。
そして言語とは表は表現方法ということと,裏は先人たちの知恵や心や魂を感じるものであったと言うこと。
美術などは表は技術などの科学であり,裏では心の現象であった。この事で私は幼い頃に保育園での頃教師に色を馬鹿にされ描けなくなり,小学校入学時に絵を描くと言うのがあり,初めての授業で絵を馬鹿にされたことが蘇り,色を黒のみで描こうと決意し,色の濃淡で表現し自分ではうまくいったと思ったが,その時も教師に認められず,張り出す事を拒否させられて私だけ絵が無い状態になり,授業参観の時の後に両親に「~君だけ」描けなかったんですと教師が言うことになった。
そして音楽は本能であり,感情の発露であり,生そのもの。生は様々なセイなのだろうと思う。
何を汲み取って学ぶべきなのか。私の場合特にその裏の意味と言うものを採るのが苦手に自分で思える。先に述べた理科と同じものが,社会と数学や他の科目も有るのだろうと思えていたがそれが解らなかったもんな。それ故に数学で心を感じるんだ何て別の教授に言われたりするが,心なんて在るの?って言う感じだったものな。
それ故に私は頭が悪いのだろう。けれど会うの話で言えば高校の頃の同級生や先輩学生などにはあなたは頭がいい,あるいは何々氏は頭がいいなんて良く言われるのだが・・。そういば別の教授にも君は頭が良くてスマートだとキャリアの先生からは言われたりするのだが,何故そうなってしまうのか・・。確かに鋭い質問をよくするとも言われるが努力の結果ではないのか・・。
漸く,疑問と言う形で結ぶ相応しいものが出来たが・・。ずいぶん長くなってしまったな(苦笑)