日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

ファーブルとジョジョ 第五部 黄金の風

2018-03-18 23:12:49 | 日記
 ファーブル昆虫記をどうしても読み進められない時分があった。私が小学校高学年5年生の終わる4ヶ月前から,6年の初めまで特に進められない状況が続き,一時中断しそれが中学1年,2年と続いた。


初め小学校の頃は自身の語学力の無さと,読解力の無さであると思っていた。それ故に自分なりに必死で本を読み,小学国語辞典で何度も調べ,帯が少し黒くもなり,更に学校から漢和辞典も渡されても居なかったが,母方祖父からボロボロの辞書を貰い助け舟を出してくれて、それを何度も引いた。祖父には感謝している。


それでも,中学時代に再度読んでみようとしても,どうしても読み進められなかった。その時私は頭がオカシイのだと思った。何故なら他の本は進度は遅くても少しづづでも進めていけるのに,そのファーブルの本だけはできない。出来ない私は昆虫がよっぽど嫌いなんだと自分で納得するしか無かった。昆虫はそんなに嫌いでは無い筈なのにと言う思いを抱きながら。

今時分に少し読み進めた範囲では理論的なものは好きだったのだが,私の状況より少なくとも心は自由だったんだなと言う姿が,近いようでいて全然違うという事を観るのが辛かったんだと今なら分かるが。


 この思いというか,情緒的反応が再び繰り返されたのが,ジョジョの奇妙な冒険の第五部 黄金の風 編。ジョジョ作品で一番好きな作品ではあるが,此れの場合はまるで時分の事が描かれているかの様に感じて,余りにも辛くて当時の自分には観る事が出来なかったので,それが少し落ち着いて観られる様に為るまで,少し時間を空けながら見るしか無かった。当時父に話したが,勿論取り合ってもくれはしなかったが。


追記 大学の先生が先生に付いてもらって数学は学ばなければ為らないと言っていたが,私にそんな内的にも外的にも,出来ないと心の中で思っていた。最高学府に行ける人たちはきっと幸せな家庭環境でもあったんだろうと感じていた。泡沫(うたかた)の我が身で話しているこの場に立っていることが,苦節何年の末漸く,混乱から離れられてそしてスタートラインに立てたという状況というそんな,感情が渦巻いていたものな。
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ディスレクシア

2018-03-08 21:45:21 | 日記
 ディスレクシアの本を読んでみた。

すると驚くことに私と似ている症状が多くある事に気付かされる。

それは低学年時に偏の位置が解りにくかったり、本で読む行を間違えたり、本で読むのが遅かったり。

黒板に書いてある宿題を書き写せなくて、宿題を出来なくて、怒られて、遣って来る人と、来ない人に赤シールを貼り、更に椅子の刑と称して、床に座らせて、椅子を机に見立てて授業を受けさせる。此も経験があるし。

 作文が書けず、居残りさせられて、放課後に独りで残された記憶。

その何れもが経験がある。

中学時代の社会時間に余りの板書の速さに、何も頭に入らずそれまでで最低の点で、焦りを感じ方法を考えて改めて、余裕の無いときは全て平仮名で書こうとノートを見直した経験。此によって授業を俯瞰するという副産物を得たが(微笑)


それである時ノートを提出することがあり、社会の教師に呼び出され色々言われた経験と記憶。


それで、英語と字なんだな。。
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一体今まで何をやって居たんだ

2018-03-07 22:45:52 | 日記
 何という事だ。長岡亮介の数学をやった後に数学完成事典を観ると良く分かる。一体今まで何をやって居たんだ。

数学の二つの心を読んだ後に何を求めるべきかという事が分かったからなのだろうか? 数列の応用がどうもシックリ来なかったが、ようやく何を理解すべきなのか分かった。アホだな。長岡亮介は言う初めて抽象的理解を求められる単元であると。

成る程と言う他無い。私は初めから、数に付いて理解すると言う事を失敗して居たのだから。

長岡亮介の言う、本質を理解すると言う体験をした事がないのじゃ無いか?と言う問いそのモノに当てはまる人。それが私だ。

長岡亮介も言う、ある意味で驚異的な物覚えの人という事になるのか。
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表の二つの感覚と裏の二つの感覚 追記20180504|0506

2018-03-05 22:14:03 | 日記
 やはり、現在本当に以前より頭の柔軟性が落ちている気がする。仕方の無い事ではあるが・・。解っていたが認識するのは辛いものだな。。此処まで17歳の終わりから死んだ者として人生を歩いてきた。

中学の感覚を思い出すのはあの時は本当に柔軟だったという感じがする。幾らでも集中できたが、同時に最悪の時期だった感覚も思い出してしまう。


数学の二つの心の様に、深いところに入って行くと感情の感覚も同時に吹き出してしまうという。深い考への思考感覚と経てきた情緒感情の感覚。


それと同時に、時々起こる奇妙な体験の感覚。ある一つでは空間に色が見えたのだ。その瞬間は時が見えた。その時一体何だ、何が起ったのかと思って親に話してしまったら何を言っているの?と素っ気なく切り捨てられただけ。同様の感覚は時々起こる。その時の歪んだモノは「別の空間の時間感覚」で二重の感覚。目の前はその様な状態で裏の感覚だけはもう一つある。5次元空間だったのだろうか?
 それは人の死や生をを感じることがある感覚と似ている。


後にそれは心理学を勉強し学ぶことで「共感覚」であることは解ったが。もう一歩ある筈だと思っている。


私のこの感覚に付いて書いてあることを見つけたのは共感覚だけだった。
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