渡辺松男研究2の31(2020年1月実施)
Ⅳ〈夕日〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P156~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:岡東和子 司会と記録:鹿取未放
238 ビールの泡のなかを泳ぎているときの哀切なるを人に見らるる
(レポート)
作者はビールの泡のなかを泳いでいる。泡は捉えどころが無くはかないものなので、その中を泳ぐ姿は無様であろう。非常にあわれで物悲しい気持ちになる様子を、「哀切なる」と表現している。そして、そのようなところを人に見られてしまった、というのだ。人間は生きている間に、「こんな時に限って見られてしまった」と思うような、気まずい思いをすることがある。作者もそのような体験をした、ということだろうか。「ビールのなか」では平凡で、「泡のなか」としたところに作者らしさが感じられる一首である。(岡東)
(紙上参加)
せつないですね。
「ああ、疲れた後の、この一杯はたまらんなあ、沁みるなあ」と、気を抜いた瞬間を、誰かに見られてしまったという感じか。(それとも、アルコールが苦手なのをごまかしているのか。)一杯目のビールを飲むときの表情が目に浮かぶ。「哀切なるを」というちょっと気取った表現が、軽いおかしみを醸し出していると思う。 (菅原)
(当日意見)
★お二人は同じようなことを言っていらっしゃる。泳いだようなとか言わずに泳い
でいると言っている歌い方が、説明的にならず動画を見せるようで面白いと思っ
たが、ビールの泡の中を泳ぐという現実にはありえないことを詠う時、渡辺松男
という名前が付いていなかったら人は受け入れてくれるだろうかと思いました。
渡辺ワールドの中で読むとわあー、いいなあと思うのですが。哀切なるを他人に
見られているというのはダブルに哀切ですよね。(泉)
★お二人は違う意見だと思います。岡東さんはビールの泡の中を泳いでいるという
のを喩として捉えていらっしゃるし、菅原さんはビールを飲んでいると捉えてい
らっしゃる。私は岡東さんと近い解釈です。ビールの泡のように頼りない生き方
をしている場面を他人に見られる。哀切なるはかっこいいとかじゃ無くて実感で
そこに共感します。こういう発想は普通は出ないのですごいなあと思いました。
ただ他人に見られることをダブルの哀切とおっしゃったけど、見られることまで
言う必要があったかどうかは疑問です。(A・K)
★第1部にも似た歌がありましたね。他人に見られるというのは社会を表している。
ただ哀切だけだったら個人のことに終わってしまう。泡は形があるけどすぐ消え
てしまうので、トリックのようなことを表している。(慧子)
★泡の中を泳ぐはビールを飲んでいる場面を提示しているんだと思います。そうい
う宴会の場でビールの泡の中を泳いでいるというのは人間関係かな。いろんな人
に気を遣って、お世辞も言うかもしれないし、嫌いな人にも笑いかけるかもしれ
ないし、そういう姿を他人に見られているなさけなさ。前回の松男研究のレポー
トを送ったら菅原さんが「作者は通俗的であることを嫌ったり、さけたりしてい
ないと感じる」という感想を書いてこられました。直接には237番歌(火の牡
牛火をふかく秘めしずかなり砂ながれゆく刀水の縁(ふち))についての感想
なのですが、 通俗と言うことに関して、私もゆっくりと考えてみようと思いま
した。(鹿取)
Ⅳ〈夕日〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P156~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:岡東和子 司会と記録:鹿取未放
238 ビールの泡のなかを泳ぎているときの哀切なるを人に見らるる
(レポート)
作者はビールの泡のなかを泳いでいる。泡は捉えどころが無くはかないものなので、その中を泳ぐ姿は無様であろう。非常にあわれで物悲しい気持ちになる様子を、「哀切なる」と表現している。そして、そのようなところを人に見られてしまった、というのだ。人間は生きている間に、「こんな時に限って見られてしまった」と思うような、気まずい思いをすることがある。作者もそのような体験をした、ということだろうか。「ビールのなか」では平凡で、「泡のなか」としたところに作者らしさが感じられる一首である。(岡東)
(紙上参加)
せつないですね。
「ああ、疲れた後の、この一杯はたまらんなあ、沁みるなあ」と、気を抜いた瞬間を、誰かに見られてしまったという感じか。(それとも、アルコールが苦手なのをごまかしているのか。)一杯目のビールを飲むときの表情が目に浮かぶ。「哀切なるを」というちょっと気取った表現が、軽いおかしみを醸し出していると思う。 (菅原)
(当日意見)
★お二人は同じようなことを言っていらっしゃる。泳いだようなとか言わずに泳い
でいると言っている歌い方が、説明的にならず動画を見せるようで面白いと思っ
たが、ビールの泡の中を泳ぐという現実にはありえないことを詠う時、渡辺松男
という名前が付いていなかったら人は受け入れてくれるだろうかと思いました。
渡辺ワールドの中で読むとわあー、いいなあと思うのですが。哀切なるを他人に
見られているというのはダブルに哀切ですよね。(泉)
★お二人は違う意見だと思います。岡東さんはビールの泡の中を泳いでいるという
のを喩として捉えていらっしゃるし、菅原さんはビールを飲んでいると捉えてい
らっしゃる。私は岡東さんと近い解釈です。ビールの泡のように頼りない生き方
をしている場面を他人に見られる。哀切なるはかっこいいとかじゃ無くて実感で
そこに共感します。こういう発想は普通は出ないのですごいなあと思いました。
ただ他人に見られることをダブルの哀切とおっしゃったけど、見られることまで
言う必要があったかどうかは疑問です。(A・K)
★第1部にも似た歌がありましたね。他人に見られるというのは社会を表している。
ただ哀切だけだったら個人のことに終わってしまう。泡は形があるけどすぐ消え
てしまうので、トリックのようなことを表している。(慧子)
★泡の中を泳ぐはビールを飲んでいる場面を提示しているんだと思います。そうい
う宴会の場でビールの泡の中を泳いでいるというのは人間関係かな。いろんな人
に気を遣って、お世辞も言うかもしれないし、嫌いな人にも笑いかけるかもしれ
ないし、そういう姿を他人に見られているなさけなさ。前回の松男研究のレポー
トを送ったら菅原さんが「作者は通俗的であることを嫌ったり、さけたりしてい
ないと感じる」という感想を書いてこられました。直接には237番歌(火の牡
牛火をふかく秘めしずかなり砂ながれゆく刀水の縁(ふち))についての感想
なのですが、 通俗と言うことに関して、私もゆっくりと考えてみようと思いま
した。(鹿取)
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