2024年度版 馬場あき子旅の歌38(11年4月)
【遊光】『飛種』(1996年刊)P125
参加者:N・I、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
レポーター:N・I 司会とまとめ:鹿取 未放
289 王権と宗教のむごき葛藤の距離をゆくエフェソスよりヨハネ教会まで
(まとめ)
古代の商業都市エフェソスは、紀元前11世紀にイオニア人によって建設され、紀元前133年に共和制ローマの支配下に入り、アジア属州の首府とされたが、その後も古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となって7世紀頃まで繁栄は続いたという。共和制ローマ最末期の紀元前33年にはマルクス・アントニウスがエジプトの女王クレオパトラと共に滞在したという伝説も残っている。人口は最盛時15万人、この地で数々の国際会議が開催された。しかし、6世紀頃から土砂の堆積によってしだいに港の機能が失われてゆき、アラブ人の進出によって経済システムにも変化が起こりエフェソスは衰退していったという。かくして1400人収容の音楽堂、2万4千人収容の大劇場、12万冊の蔵書を誇る図書館など多数の遺跡が残された。宗教の面では繁栄していた当時のエフェソスにパウロが伝道のためにやってきて3年間留まり教会の形成を行ったといわれている。パウロが去った後、エルサレムを追われたヨハネが聖母マリアを伴ってこの地にやってきて暮らしたという。287番歌「秋風に胡桃の広葉鳴る下にさびしもヨハネの福音きけば」、288番歌「マリア終焉の地はここなりと胡桃の風音にさやげる山に連れゆく」でもみてきたように、ヨハネとマリアは晩年エフェソスからアヤソルクの丘に移り住んだ。
1世紀から4世紀にかけて、ネロなど歴代の皇帝はキリスト教を迫害したが、厳しい迫害にもかかわらずキリスト教徒はますます増大した。4世紀初めのディオクレティアヌス帝による大迫害のあと、もはやキリスト教徒を敵に回しては分裂しているローマ帝国の統一は困難であると悟ったコンスタンティヌス帝は、キリスト教徒の団結力を利用する方向に軌道修正した。その結果ローマ帝国統一を成し遂げたコンスタンティヌス帝は、翌313年キリスト教の信仰を公認する「ミラノ勅令」を出した。その後、ローマ皇帝テオドシウスⅠ世は、古くからの神々を廃し、392年に一神教であるキリスト教を国教とした。(それから3年後の395年テオドシウスⅠ世は死亡、コンスタンティヌス帝が統一していたローマ帝国はまたもや東と西に分裂し、その後帝国が統合されることは無かった。)
そういういきさつがあったため、エフェソスの地は商業や文化のみならず教会行政の中心ともなったのである。431年には東ローマ皇帝テオドシウスⅡ世の勅令のもと、エフェソスの地で第3回宗教会議(エフェソス公会議)が開かれ、キリスト教世界全体から150人もの聖職者が集まったという。やがてヨハネと聖母マリアが暮らしていた辺りに「聖母マリア教会」が建てられた。場所は円形劇場の近くで、現在は荒廃したその跡だけが遺っている。
長く繁栄を誇ったエフェソスであったが、前にも書いたように港の沈降などの理由で人々は離れ、代わってアヤソルクが経済や教会行政の中心となっていった。キリスト教公認後の4世紀にはアヤソルクのヨハネの墓の傍に小さな教会が建てられていただけだったが、6世紀に東ローマ皇帝ユスティアヌス1世の命令によって大々的に建て替えられ、聖ヨハネ教会となった。
この後のキリスト教とイスラム教の鬩ぎ合いや政治との関わりはもはや書ききれない分量になるので省略するが、ヨハネ教会のすぐ下にトルコ人の支配下に入った後に建てられたイスラム教のモスク、イサ・ベイ・ジャーミーがあるという。
ヨハネ教会があるアヤソルクの丘は、エフェソスの都市遺跡群からは歩くと30分ほどの距離だという。遺跡群を見学した後、ヨハネ教会までは歩いたのであろうか。あるいはバスだろうか。移動しながら「王権と宗教のむごき葛藤」について思いをめぐらせていたというのだ。それがここでいう現実の「距離」であり、恐ろしいほどの時空を抱え込んだ「距離」でもある。その一端を考えただけでも目がくらむようである。人間とはどれほど複雑怪奇ないきものであろうか。(この項は、複数の書籍を参考にした)(鹿取)
【遊光】『飛種』(1996年刊)P125
参加者:N・I、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
レポーター:N・I 司会とまとめ:鹿取 未放
289 王権と宗教のむごき葛藤の距離をゆくエフェソスよりヨハネ教会まで
(まとめ)
古代の商業都市エフェソスは、紀元前11世紀にイオニア人によって建設され、紀元前133年に共和制ローマの支配下に入り、アジア属州の首府とされたが、その後も古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となって7世紀頃まで繁栄は続いたという。共和制ローマ最末期の紀元前33年にはマルクス・アントニウスがエジプトの女王クレオパトラと共に滞在したという伝説も残っている。人口は最盛時15万人、この地で数々の国際会議が開催された。しかし、6世紀頃から土砂の堆積によってしだいに港の機能が失われてゆき、アラブ人の進出によって経済システムにも変化が起こりエフェソスは衰退していったという。かくして1400人収容の音楽堂、2万4千人収容の大劇場、12万冊の蔵書を誇る図書館など多数の遺跡が残された。宗教の面では繁栄していた当時のエフェソスにパウロが伝道のためにやってきて3年間留まり教会の形成を行ったといわれている。パウロが去った後、エルサレムを追われたヨハネが聖母マリアを伴ってこの地にやってきて暮らしたという。287番歌「秋風に胡桃の広葉鳴る下にさびしもヨハネの福音きけば」、288番歌「マリア終焉の地はここなりと胡桃の風音にさやげる山に連れゆく」でもみてきたように、ヨハネとマリアは晩年エフェソスからアヤソルクの丘に移り住んだ。
1世紀から4世紀にかけて、ネロなど歴代の皇帝はキリスト教を迫害したが、厳しい迫害にもかかわらずキリスト教徒はますます増大した。4世紀初めのディオクレティアヌス帝による大迫害のあと、もはやキリスト教徒を敵に回しては分裂しているローマ帝国の統一は困難であると悟ったコンスタンティヌス帝は、キリスト教徒の団結力を利用する方向に軌道修正した。その結果ローマ帝国統一を成し遂げたコンスタンティヌス帝は、翌313年キリスト教の信仰を公認する「ミラノ勅令」を出した。その後、ローマ皇帝テオドシウスⅠ世は、古くからの神々を廃し、392年に一神教であるキリスト教を国教とした。(それから3年後の395年テオドシウスⅠ世は死亡、コンスタンティヌス帝が統一していたローマ帝国はまたもや東と西に分裂し、その後帝国が統合されることは無かった。)
そういういきさつがあったため、エフェソスの地は商業や文化のみならず教会行政の中心ともなったのである。431年には東ローマ皇帝テオドシウスⅡ世の勅令のもと、エフェソスの地で第3回宗教会議(エフェソス公会議)が開かれ、キリスト教世界全体から150人もの聖職者が集まったという。やがてヨハネと聖母マリアが暮らしていた辺りに「聖母マリア教会」が建てられた。場所は円形劇場の近くで、現在は荒廃したその跡だけが遺っている。
長く繁栄を誇ったエフェソスであったが、前にも書いたように港の沈降などの理由で人々は離れ、代わってアヤソルクが経済や教会行政の中心となっていった。キリスト教公認後の4世紀にはアヤソルクのヨハネの墓の傍に小さな教会が建てられていただけだったが、6世紀に東ローマ皇帝ユスティアヌス1世の命令によって大々的に建て替えられ、聖ヨハネ教会となった。
この後のキリスト教とイスラム教の鬩ぎ合いや政治との関わりはもはや書ききれない分量になるので省略するが、ヨハネ教会のすぐ下にトルコ人の支配下に入った後に建てられたイスラム教のモスク、イサ・ベイ・ジャーミーがあるという。
ヨハネ教会があるアヤソルクの丘は、エフェソスの都市遺跡群からは歩くと30分ほどの距離だという。遺跡群を見学した後、ヨハネ教会までは歩いたのであろうか。あるいはバスだろうか。移動しながら「王権と宗教のむごき葛藤」について思いをめぐらせていたというのだ。それがここでいう現実の「距離」であり、恐ろしいほどの時空を抱え込んだ「距離」でもある。その一端を考えただけでも目がくらむようである。人間とはどれほど複雑怪奇ないきものであろうか。(この項は、複数の書籍を参考にした)(鹿取)
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