中津川近辺の歴史
中津川倶楽部のフィールドの真正面川向こうに小さな幣山という集落が見えます。10軒くらいしかないのですが家を新築している様子も見えたし、豪邸も見えます。昔から橋の便利も悪く孤立した集落でしたが、このご時世にも過疎化することなく栄えている様子なのが不思議です。
江戸時代中期に編纂された『新編相模国風土記』という有名な諸国調査の歴史記録書がありますが、そこには、毛利庄の章に○角田村(須美太牟良)の項の中に○幣山:南方(角田の)ニアリ、昔役小角ガ奉幣ノ旧跡ナリ。依テ名付クト云、此ノ山ニ連テ、□天岩屋ト唱ル所巌石ノ山ナリ。八菅山修験ノ行所ニシテ修験ノ他絶頂ニ上ルヲ禁ズ・・・とある。三増合戦の武田勢の一部かと思っていたが風土記ではそうは触れていない。
この書物によると隣のの海底(オゾコウと読む)の元の文字は『乎曽古』と書いたようである。このあたりの歴史を調べるのもおもしろい。
中津川倶楽部のフィールドの真正面川向こうに小さな幣山という集落が見えます。10軒くらいしかないのですが家を新築している様子も見えたし、豪邸も見えます。昔から橋の便利も悪く孤立した集落でしたが、このご時世にも過疎化することなく栄えている様子なのが不思議です。
江戸時代中期に編纂された『新編相模国風土記』という有名な諸国調査の歴史記録書がありますが、そこには、毛利庄の章に○角田村(須美太牟良)の項の中に○幣山:南方(角田の)ニアリ、昔役小角ガ奉幣ノ旧跡ナリ。依テ名付クト云、此ノ山ニ連テ、□天岩屋ト唱ル所巌石ノ山ナリ。八菅山修験ノ行所ニシテ修験ノ他絶頂ニ上ルヲ禁ズ・・・とある。三増合戦の武田勢の一部かと思っていたが風土記ではそうは触れていない。
この書物によると隣のの海底(オゾコウと読む)の元の文字は『乎曽古』と書いたようである。このあたりの歴史を調べるのもおもしろい。