(一)山本太平
天保6年3月、山本太平は山本半兵衛三男として相模国津久井中野村に生まれる。半兵衛の家は豪農とは言えないがそこそこの百姓地主であった。次男は12歳になると近くの宮大工に弟子入りしている。農家の次三男は一切の家督を分けてもらうことはできず何らかの職を身に着けて独立していかなければならなかった。三男太平も1年遅れで日野にある剣道場に住み込みで下働きをしながら剣術の指南を受けることになった。百姓の次三男坊は大農家の養子として婿入りすることが最大の出世であり、農家も用心棒ともなる剣術の腕の立つ養子を求めるというのが当時の風潮であった。太平の剣術の腕はみるみる上がっていき、2年もたつと先輩でも勝てるものはいなくなった。
そのころ、続々と農家の次三男坊の若者が入門してきた。その新人たちは八王子、多摩の豪農の生まれが多く、道場主には特別に目を向けられて、太平の立場は少しずつ下がって行った。道場主もこの中から養子を選択する意思があり、太平はその候補には遠く及ばなかった。
道場には太平の出身中野村の近く、津久井郡大井村から小野澤フサという女の子が賄い係として太平より数か月前に住み込んでいた。太平の立場に同調してフサは急速に太平に接近してきた。その仲が取りざたされて太平は道場を去ることになる。しかし、相模で天然理心流を指南している桑原某という剣術家を紹介されその道場に移る。嘉永7年太平19歳の時である。太平は桑原以外の天然理心流師範にも認められて腕を上げた。しかし、その間天然理心流の免許というのは誰からも受けていない。
フサは太平が日野を去って1年後津久井大井村の実家に戻っている。太平との秘かな付き合いは続いていた。後に太平は和田家に養子として入るとき、和田の分家の娘を嫁にとるという条件を無視してフサも一緒に和田家に入籍させてしまう。和田家本家分家間の確執が生まれることになる。
(二)山岡鉄舟
太平は桑原道場に移ってから多くの天然理心流のつわものたちについて回って、特に横田某という剣士について流派の普及の手伝いをした。彼らと一緒にいるときは食い扶持は客人扱いで自分の金を使うことはなかったが、金策には苦労した。当時は高い書物代に使う金を中野村の実家に頻繁に戻ることでなんとか手に入れていた。
そのころ、山岡鉄舟と接触することがあり、剣の腕前だけでなく学問を学ぶ姿勢が評価された。鉄舟は幕末三舟のひとりと言われ幕末から明治維新の政治的な影響力を持つ男であった。江戸幕府では浪士組取締役であったので新選組を組織することにもかかわっていた。明治政府に仕えてからは急出世するがこの頃は浪士の間を渡り歩く程度のあまり知られていない存在だった。もっともその程度の幕府との付き合いだったのが明治政府に取り入るのに幸いした。
太平が先行きは養子縁組という道を進みたいという希望を常日頃師匠に話しており、そのことが鉄舟の耳にも入っていた。養子希望者は剣術組の中では溢れかえっており、そう簡単なことではなかったが、その後安政7年(1860)相模角田村の和田家を紹介されることになる。太平25歳の時である。
(三)和田太平
天然理心流範士横田は山岡鉄舟から弟子の中なら和田太兵衛家の養子を選ぶように依頼された。安政7年正月の挨拶に出向いたときである。山岡によると、和田家は嘉永4年1851年頃、当主和田太兵衛良房の孫息子が亡くなり、すでに亡くなっていた良房以来家督相続するものがなく10~20年間ほどの空白の時代が生じた。ただひとり、良房長男の高齢の嫁が生存しているだけとのことである。山岡は江戸に医者の勉学に来ていた和田の分家遼庵から没落した和田本家を立て直す養子を探すよう頼まれていた。天然理心流の剣士から選んでほしいという要望があった。腕が立てば出自については注文は付けないという。そこで直ちに太平の名が上がり、山岡も太平とは面識もあったことから横田との間ではたちまちに話がまとまった。和田遼庵が焦ったのは、最近遼庵家に集団強盗が入り金品を奪われたという事実があり、隣に地続きの屋敷のある本家に剣術の達人がいれば自分の家の用心棒になるという魂胆があった。
太平の父半兵衛が呼ばれ、相州野津田の庄屋に遼庵も含め関係者が顔合わせをし、太平の意思にはかかわりなく話はどんどん進んだ。後日、太平は実家から半兵衛とともに角田村を訪ねる。中野村と角田村は目と鼻の先、と言えど大人の脚で3時間ほどかかるところである。途中半原村の半兵衛次男の世話になっている宮大工にも立ち寄る。
和田家は街道正面に豪華なけやき板の大扉のある長屋門を構え、豪農の佇まいであったが潜戸をくぐると広い庭は手入れがされず雑木林のごとくであった。その先に母屋屋敷があるがもうとっくに茅の吹き替え時期が来ている茅葺屋根づくりの建物である。ここの住人は病身の老婦人ひとりと聞いており、声も掛けずに再び門を出て、隣の分家和田遼庵の家を訪ねた。本家と違ってそこには活気が満ち溢れていた。子供たちが庭で遊んでおり、庭番がすぐ遼庵を呼んできた。
半兵衛側は、和田本家の落ちぶれように不安があるという感想を述べた。遼庵は、本家の財産は自分が守って来たので、養子縁組が成立したらそれらを全部引き渡すので心配はないと言った。しかし、それにも条件が付いて結局は守られないのではないかという不信感が半兵衛、太平の胸をよぎった。
遼庵は一通りの話が済むと女中に本家を案内し、一人住む老婆に紹介するように命じた。遼庵は漢方医であり、診察所の建物の裏庭にも患者と思われる何人かの客人が並んでいた。本家の屋敷とは小道を挟んで並んでおり、一角に両家を結ぶ踏み均された通路ができていた。ほぼ毎日女中はここを通って老婆の世話をしているという。老婆は半兵衛親子が来ることを知らされていたらしく着物を改めて奥座敷に正座して待っていた。玄関はしばらく使っていないということで土間から畳の部屋に上がった。半兵衛と女中は老婆が座っている座敷にまっすぐに進んだが、太平は家の具合を調べるように一部屋遠回りをして進んだところ雨漏りでぬれた畳の上に乗って床を踏み外してしまった。この家を住めるようにするためには相当の金と手間ががかかることが察せられた。
半兵衛はこれまでのいきさつを話し、お世話になるかも知れないと言った。老婆はほとんど太平の顔を見るでなく、泣きつくようなまなざしで半兵衛に言った。この養子縁組の話はぜひとも、一刻も早く成立させてほしいと。そして脇にあった袋を引き寄せ半兵衛のひざ元に置いた。ここに大小二本の刀がある。これをぜひ太平が腰に差して見せてほしいと懇願した。和田家は庄屋であったが古くから名字帯刀が許されていた。半兵衛はまだ養子縁組が成立したわけでなく、太平が刀を差すことは丁寧に断ったが何か深い思いがこの老婆にあることがうかがえた。
帰りは長屋門から出て行ったが庭の隅に3棟の土蔵が並んでいるのが見えた。その1棟はすでに屋根が半分朽ち落ちていた。
天保6年3月、山本太平は山本半兵衛三男として相模国津久井中野村に生まれる。半兵衛の家は豪農とは言えないがそこそこの百姓地主であった。次男は12歳になると近くの宮大工に弟子入りしている。農家の次三男は一切の家督を分けてもらうことはできず何らかの職を身に着けて独立していかなければならなかった。三男太平も1年遅れで日野にある剣道場に住み込みで下働きをしながら剣術の指南を受けることになった。百姓の次三男坊は大農家の養子として婿入りすることが最大の出世であり、農家も用心棒ともなる剣術の腕の立つ養子を求めるというのが当時の風潮であった。太平の剣術の腕はみるみる上がっていき、2年もたつと先輩でも勝てるものはいなくなった。
そのころ、続々と農家の次三男坊の若者が入門してきた。その新人たちは八王子、多摩の豪農の生まれが多く、道場主には特別に目を向けられて、太平の立場は少しずつ下がって行った。道場主もこの中から養子を選択する意思があり、太平はその候補には遠く及ばなかった。
道場には太平の出身中野村の近く、津久井郡大井村から小野澤フサという女の子が賄い係として太平より数か月前に住み込んでいた。太平の立場に同調してフサは急速に太平に接近してきた。その仲が取りざたされて太平は道場を去ることになる。しかし、相模で天然理心流を指南している桑原某という剣術家を紹介されその道場に移る。嘉永7年太平19歳の時である。太平は桑原以外の天然理心流師範にも認められて腕を上げた。しかし、その間天然理心流の免許というのは誰からも受けていない。
フサは太平が日野を去って1年後津久井大井村の実家に戻っている。太平との秘かな付き合いは続いていた。後に太平は和田家に養子として入るとき、和田の分家の娘を嫁にとるという条件を無視してフサも一緒に和田家に入籍させてしまう。和田家本家分家間の確執が生まれることになる。
(二)山岡鉄舟
太平は桑原道場に移ってから多くの天然理心流のつわものたちについて回って、特に横田某という剣士について流派の普及の手伝いをした。彼らと一緒にいるときは食い扶持は客人扱いで自分の金を使うことはなかったが、金策には苦労した。当時は高い書物代に使う金を中野村の実家に頻繁に戻ることでなんとか手に入れていた。
そのころ、山岡鉄舟と接触することがあり、剣の腕前だけでなく学問を学ぶ姿勢が評価された。鉄舟は幕末三舟のひとりと言われ幕末から明治維新の政治的な影響力を持つ男であった。江戸幕府では浪士組取締役であったので新選組を組織することにもかかわっていた。明治政府に仕えてからは急出世するがこの頃は浪士の間を渡り歩く程度のあまり知られていない存在だった。もっともその程度の幕府との付き合いだったのが明治政府に取り入るのに幸いした。
太平が先行きは養子縁組という道を進みたいという希望を常日頃師匠に話しており、そのことが鉄舟の耳にも入っていた。養子希望者は剣術組の中では溢れかえっており、そう簡単なことではなかったが、その後安政7年(1860)相模角田村の和田家を紹介されることになる。太平25歳の時である。
(三)和田太平
天然理心流範士横田は山岡鉄舟から弟子の中なら和田太兵衛家の養子を選ぶように依頼された。安政7年正月の挨拶に出向いたときである。山岡によると、和田家は嘉永4年1851年頃、当主和田太兵衛良房の孫息子が亡くなり、すでに亡くなっていた良房以来家督相続するものがなく10~20年間ほどの空白の時代が生じた。ただひとり、良房長男の高齢の嫁が生存しているだけとのことである。山岡は江戸に医者の勉学に来ていた和田の分家遼庵から没落した和田本家を立て直す養子を探すよう頼まれていた。天然理心流の剣士から選んでほしいという要望があった。腕が立てば出自については注文は付けないという。そこで直ちに太平の名が上がり、山岡も太平とは面識もあったことから横田との間ではたちまちに話がまとまった。和田遼庵が焦ったのは、最近遼庵家に集団強盗が入り金品を奪われたという事実があり、隣に地続きの屋敷のある本家に剣術の達人がいれば自分の家の用心棒になるという魂胆があった。
太平の父半兵衛が呼ばれ、相州野津田の庄屋に遼庵も含め関係者が顔合わせをし、太平の意思にはかかわりなく話はどんどん進んだ。後日、太平は実家から半兵衛とともに角田村を訪ねる。中野村と角田村は目と鼻の先、と言えど大人の脚で3時間ほどかかるところである。途中半原村の半兵衛次男の世話になっている宮大工にも立ち寄る。
和田家は街道正面に豪華なけやき板の大扉のある長屋門を構え、豪農の佇まいであったが潜戸をくぐると広い庭は手入れがされず雑木林のごとくであった。その先に母屋屋敷があるがもうとっくに茅の吹き替え時期が来ている茅葺屋根づくりの建物である。ここの住人は病身の老婦人ひとりと聞いており、声も掛けずに再び門を出て、隣の分家和田遼庵の家を訪ねた。本家と違ってそこには活気が満ち溢れていた。子供たちが庭で遊んでおり、庭番がすぐ遼庵を呼んできた。
半兵衛側は、和田本家の落ちぶれように不安があるという感想を述べた。遼庵は、本家の財産は自分が守って来たので、養子縁組が成立したらそれらを全部引き渡すので心配はないと言った。しかし、それにも条件が付いて結局は守られないのではないかという不信感が半兵衛、太平の胸をよぎった。
遼庵は一通りの話が済むと女中に本家を案内し、一人住む老婆に紹介するように命じた。遼庵は漢方医であり、診察所の建物の裏庭にも患者と思われる何人かの客人が並んでいた。本家の屋敷とは小道を挟んで並んでおり、一角に両家を結ぶ踏み均された通路ができていた。ほぼ毎日女中はここを通って老婆の世話をしているという。老婆は半兵衛親子が来ることを知らされていたらしく着物を改めて奥座敷に正座して待っていた。玄関はしばらく使っていないということで土間から畳の部屋に上がった。半兵衛と女中は老婆が座っている座敷にまっすぐに進んだが、太平は家の具合を調べるように一部屋遠回りをして進んだところ雨漏りでぬれた畳の上に乗って床を踏み外してしまった。この家を住めるようにするためには相当の金と手間ががかかることが察せられた。
半兵衛はこれまでのいきさつを話し、お世話になるかも知れないと言った。老婆はほとんど太平の顔を見るでなく、泣きつくようなまなざしで半兵衛に言った。この養子縁組の話はぜひとも、一刻も早く成立させてほしいと。そして脇にあった袋を引き寄せ半兵衛のひざ元に置いた。ここに大小二本の刀がある。これをぜひ太平が腰に差して見せてほしいと懇願した。和田家は庄屋であったが古くから名字帯刀が許されていた。半兵衛はまだ養子縁組が成立したわけでなく、太平が刀を差すことは丁寧に断ったが何か深い思いがこの老婆にあることがうかがえた。
帰りは長屋門から出て行ったが庭の隅に3棟の土蔵が並んでいるのが見えた。その1棟はすでに屋根が半分朽ち落ちていた。
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