市議会傍聴報告会に参加してきました。
3月4日、市議会を良くする市民団体の発表会に出席してきました。49名の市議のうち、3名の方が参加され積極的に議会運営の問題について市民と意見を交わしていました。 そこでの議員の発言の中で相模原市の実態や将来のことがいくらか見えてきたところがあります。気がついたことをいくつか書き込んでみたいと思います。
「市の職員はきわめて優秀な人材。その優秀な人材の出身地は津久井4町であり、そこと合併できたことは良かった」(市議の発言)
相模原の行政が優秀な津久井地区(愛川町などの近隣を含めて)の人によって支えられているということはうすうす感じていました。相模原の優秀な人材は市役所には来てくれず、首都圏に勤務しているというのも頷けます。しばらく前までは市職員は相模原市内在住者に制限されていましたので、今の若手は革新的に優秀な人材になったようです。
この現象はある事実を示唆しています。旧相模原市民は勤務先として京浜地区を選択できる。あるいは京浜地区に職場を持っている人がベッドタウンとしての相模原に移り住んできた。津久井地区から京浜地区に勤務することは実質的にほとんど不可能。せめてもの職場を旧相模原市街に求めている。すなわち人の流れは横浜線を西に、小田急線を北に向かっている。
合併によって巨大相模原は発展し、人口はどんどん流入してくるので、当面の予算は津久井に流れるかもしれないが、市民の努力によって10年もすれば旧相模原市の人も再び潤うようになる・・・というのが市議の考え方のようだが、私にはとてもそうは思えません。津久井地区の人はますます中心部への指向を高め、過疎化が進行し、人口減少と一極集中化によって旧市民は再び都心部への流出指向が高まる。いったん70万となる人口も急速に減少に向かうのではないでしょうか。一方で、旧市街、特に駅周辺の林立マンションに人口は集中していく。巨大相模原市が極端にいびつな構造になる可能性があります。それをどう食い止めるか、あるいはそういう傾向の中でいかに財政を守り立てていくかが今後の重大な課題になりそうです。
3月4日、市議会を良くする市民団体の発表会に出席してきました。49名の市議のうち、3名の方が参加され積極的に議会運営の問題について市民と意見を交わしていました。 そこでの議員の発言の中で相模原市の実態や将来のことがいくらか見えてきたところがあります。気がついたことをいくつか書き込んでみたいと思います。
「市の職員はきわめて優秀な人材。その優秀な人材の出身地は津久井4町であり、そこと合併できたことは良かった」(市議の発言)
相模原の行政が優秀な津久井地区(愛川町などの近隣を含めて)の人によって支えられているということはうすうす感じていました。相模原の優秀な人材は市役所には来てくれず、首都圏に勤務しているというのも頷けます。しばらく前までは市職員は相模原市内在住者に制限されていましたので、今の若手は革新的に優秀な人材になったようです。
この現象はある事実を示唆しています。旧相模原市民は勤務先として京浜地区を選択できる。あるいは京浜地区に職場を持っている人がベッドタウンとしての相模原に移り住んできた。津久井地区から京浜地区に勤務することは実質的にほとんど不可能。せめてもの職場を旧相模原市街に求めている。すなわち人の流れは横浜線を西に、小田急線を北に向かっている。
合併によって巨大相模原は発展し、人口はどんどん流入してくるので、当面の予算は津久井に流れるかもしれないが、市民の努力によって10年もすれば旧相模原市の人も再び潤うようになる・・・というのが市議の考え方のようだが、私にはとてもそうは思えません。津久井地区の人はますます中心部への指向を高め、過疎化が進行し、人口減少と一極集中化によって旧市民は再び都心部への流出指向が高まる。いったん70万となる人口も急速に減少に向かうのではないでしょうか。一方で、旧市街、特に駅周辺の林立マンションに人口は集中していく。巨大相模原市が極端にいびつな構造になる可能性があります。それをどう食い止めるか、あるいはそういう傾向の中でいかに財政を守り立てていくかが今後の重大な課題になりそうです。
中津川近辺の歴史
中津川倶楽部のフィールドの真正面川向こうに小さな幣山という集落が見えます。10軒くらいしかないのですが家を新築している様子も見えたし、豪邸も見えます。昔から橋の便利も悪く孤立した集落でしたが、このご時世にも過疎化することなく栄えている様子なのが不思議です。
江戸時代中期に編纂された『新編相模国風土記』という有名な諸国調査の歴史記録書がありますが、そこには、毛利庄の章に○角田村(須美太牟良)の項の中に○幣山:南方(角田の)ニアリ、昔役小角ガ奉幣ノ旧跡ナリ。依テ名付クト云、此ノ山ニ連テ、□天岩屋ト唱ル所巌石ノ山ナリ。八菅山修験ノ行所ニシテ修験ノ他絶頂ニ上ルヲ禁ズ・・・とある。三増合戦の武田勢の一部かと思っていたが風土記ではそうは触れていない。
この書物によると隣のの海底(オゾコウと読む)の元の文字は『乎曽古』と書いたようである。このあたりの歴史を調べるのもおもしろい。
中津川倶楽部のフィールドの真正面川向こうに小さな幣山という集落が見えます。10軒くらいしかないのですが家を新築している様子も見えたし、豪邸も見えます。昔から橋の便利も悪く孤立した集落でしたが、このご時世にも過疎化することなく栄えている様子なのが不思議です。
江戸時代中期に編纂された『新編相模国風土記』という有名な諸国調査の歴史記録書がありますが、そこには、毛利庄の章に○角田村(須美太牟良)の項の中に○幣山:南方(角田の)ニアリ、昔役小角ガ奉幣ノ旧跡ナリ。依テ名付クト云、此ノ山ニ連テ、□天岩屋ト唱ル所巌石ノ山ナリ。八菅山修験ノ行所ニシテ修験ノ他絶頂ニ上ルヲ禁ズ・・・とある。三増合戦の武田勢の一部かと思っていたが風土記ではそうは触れていない。
この書物によると隣のの海底(オゾコウと読む)の元の文字は『乎曽古』と書いたようである。このあたりの歴史を調べるのもおもしろい。
4月開始の手帳購入
手帳を買いました。覚えている限り、システム手帳以外日記式の手帳を金を払って手に入れるのははじめてです。
手帳とは、会社の名前入りのものを使うのが常識で、金を払ってまで買う必要は今までありませんでした。リタイヤ後は古いシステム手帳を<使っていたのですが、持ち歩きに不便なので新しい手帳に変えようと考えていました。今年も2ヶ月を過ぎたので安売りしているかもしれないと思って本屋を覗いたら、ちゃっかり4月開始の手帳ばかり売られていました。これも知らないことでした。1400円を払うのに抵抗を感じながらともかく買いました。生まれたときから持っているメモリー機構が怪しくなってきたのでスケジュールを確実に記録する外部メモリーが必要になりました。
携帯電話で充分手帳の代わりになるのですが、どうもなじまないのは年代のせいでしょうか。一時は携帯電話のメモ機能を使っていたのですが、どうしても手書きの手帳と併用したくなるので、携帯活用が続かない。一覧性のある旧来の手帳が手放せません。
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手帳を買いました。覚えている限り、システム手帳以外日記式の手帳を金を払って手に入れるのははじめてです。
手帳とは、会社の名前入りのものを使うのが常識で、金を払ってまで買う必要は今までありませんでした。リタイヤ後は古いシステム手帳を<使っていたのですが、持ち歩きに不便なので新しい手帳に変えようと考えていました。今年も2ヶ月を過ぎたので安売りしているかもしれないと思って本屋を覗いたら、ちゃっかり4月開始の手帳ばかり売られていました。これも知らないことでした。1400円を払うのに抵抗を感じながらともかく買いました。生まれたときから持っているメモリー機構が怪しくなってきたのでスケジュールを確実に記録する外部メモリーが必要になりました。
携帯電話で充分手帳の代わりになるのですが、どうもなじまないのは年代のせいでしょうか。一時は携帯電話のメモ機能を使っていたのですが、どうしても手書きの手帳と併用したくなるので、携帯活用が続かない。一覧性のある旧来の手帳が手放せません。
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