やはりツリフネソウが豊作の今年…何となく写真を撮っていたらナンと白い花に出合った↓目がそうとう悪くなっているので…😅じ~っと見て距があることで白花のツリフネソウ(吊舟草)だと❗初見の今日一番の収穫ですので~☺
ハイヾ(´▽`*)ゝどこでもツリフネソウでした🍀ヤクシソウ↓も咲いてきてますよ
こちらはキバナアキギリ↓曰く因縁付きの(密告者が見せしめに処刑されたという場所)戊辰戦争の日光杉並木の中ですが😵
帰りに寄ったスーパーの駐車場より↓何をほふったのか?雲よ☁
うずくまる宮古馬(ナークー)の洞ことり来る/青萄
作句傾向をABCDとして便宜的に4つに分け、音や文体の句は、何千句か登場した後は自己や他者の模倣に陥る惧れがある。反対に内容の句は、何十万句か登場したところで、まだ新しい句ができる可能性がある。作句態度としては高度な娯楽派と命の詩芸術派に二極化する。…と述べている。
因みにAは平凡な事物を特異な認識で捉え、読者へおもしろく見せることに腐心する動き。Bは重たい(ヘビーな)内容でも深刻さを感じられないほどライトに言う動き。Cはその反対で、現代社会における重たい(ヘビーな)内容を、読者にそのまま重く(ヘビーに)突きつける動き。Dは意味そのものよりも内容が醸し出す空気感や雰囲気を売りにする動きである。…という。
平均17音の俳句の中で、出せる音の遊びも文体の操作も徐々に限られてくる、ということ。
音の響きやリフレインや韻を踏むのも、音の遊びを追求しているだけで内容は特にない。
文体の句とは、あえて平凡にした内容を非凡な文体で表現し、謎解きゲームを読者に提供している。つまり認識として提供されるのは謎解き後の内容ではなく、すごい謎だと思わせる文体である。と季何氏は手厳しい。
イメージの句は新興俳句や前衛俳句が開拓してきたが内容はあった(富澤赤黄男や安井浩司がぎりぎりのところ)とも。
不肖青萄は赤黄男の俳句が好きだが、やはりイメージだけでは俳句は続かないのだろうと思う。発想もイメージも文体も大事だが、季語の現場に立ってしっかりとした句の肉付けをしなければ、逆に自分が辛くなるのではないか。自分の作った俳句を乗り越え、自己類想を排除し、日々更新しなければならないのが俳句だ。「同じことを幾度繰り返してもどうなることではない」と、病床に放った赤黄男の言葉がせつない。