ビール缶握り潰せば流星群 春日石疼
「二物衝撃」という用語がある。山口誓子が連作俳句の配列や構成を述べる際に使用したもので、やがて、一句の中での素材や言葉の組み合わせを意味するようになった。二物衝撃はソビエトのエイゼンシュテーインらが映画の編集に用いた「モンタージュ」の訳語である。視点のことなる複数のカットを組み合わせること。もともと俳諧の考え方であったが、それが欧米の芸術に影響を与えた。そして、昭和になって逆輸入されたのである。
小津安二郎の映画も影響を受けている。浮世絵の手法がフランスの印象派に影響を及ぼしたのと同じ流れである。シュルリアリズムでも使われた用語だが、シュルリアリズムの二物襲撃と俳句のそれとは幾分違いがある。たとえば有名なロートレアモンの「ミシンと蝙蝠傘との解剖台の上での偶然の出会い」の「ミシン」や「蝙蝠傘」は本来の機能や存在から解放された事象として扱われている。しかし、俳句では〈夏草に機関車の車輪来て止まる〉のように、事象本来の機能や存在感が失われていない。むしろ、事象の質感はさらに増している。
元になった俳諧の理論は「取合せ」である。李由・許六編『篇突』では「発句は取り合はせ物なり。二つ取り合はせて、よくよりはやすを上手と云ふなり」という芭蕉の言葉を伝えている。二つのものを共振させて、その響き合いに相乗効果を発揮させるのである。「とりはやす」がそれで(古池や蛙飛びこむ水の音)の「古池」と「蛙」の関係である。子規は配合という言葉を好んで用いた。二人とも重視したのは「新しさ」という点であった。そして、その対比する映像を近代的事象に求め、詩としての意外性をより強調しようとしたのが「二物衝撃」といえる。
この句では、「ビール缶」と「流星群」の関わりがそれにあたる。缶を「握り潰した」音と「流星群」の聞こえるはずのない音との対比。そこをどう読み取るか、読み取ることができるかどうかが、この句の成否の鍵を握る。なお、表現構造から言えば、この句は一句一章。一句中に断切があるのが二句一章で「取合せ」はどちらにも存在する。念のため付け加えておく。
渡りをする蝶↑人気のアサギマダラだが…
気づけばこの十月桜は…毎年この時季↑ささやかに咲いている🌸
条条…なんて…読めます?おちおち、だそうですが😅俳句でもまず使わないような。それでも最後は芸能人チームが奇跡の100万円ゲット👏👏モズク採り、岸和田城、世界🌏は広いです🐱