
サンジャクバーベナ (別名・ヤナギハナガサ<柳花笠>)
人のズッコケ失敗話は、聞いていて面白くて楽しくて仕方がない。
しかし、自分の失敗話を書こうとすると、なかなか前に進めないものだとつくづく思う。
小沢昭一さんへのインタビューは、自分の不勉強と不熱心によって、「失敗仕事」のひとつだろうと思っている。今振り返ると残念なことだった。当時、上司からの苦言はなかったが、自分としては反省しきりである。
人の話を聞くときには、周囲の評価によらず、まず瞬時に相手の美点を見つける。相手に好感を持ってもらうのに神経を使うのではなく、自分の方が相手に先に惚れてしまえば、そこで話される内容は自然に胸に落ちてくる。
私が所属していたチームは、上司であるTチーフが30歳手前、先輩が20歳代半ばと、皆さん若いのだった。その上の部長というのが温和な調整型で、Tさんを信頼しきっていたから、現場に一切口を出さなかった。
Tさんがお伺いを立てに行くと「うんうん。そこはTくんの思うようにやってください。大丈夫。もしも上から文句が来たら、私が全力でフォローするし、最終的に責任をとるのは(現場では役に立てない)私の仕事だから。どーんと任せておいてくださいよ~」と笑っていた。
部長は見かけ上からもオジサンなのだと思っていたが、その時、40歳になっていなかったかも知れない。思えば、このような人的に良い環境で働かせていただいていたのである。そういう部長には迷惑をかけられないと、皆は自ずと自重するようになるものだ。
しかし私自身が気がつかない所で、たまに手抜き仕事?で迷惑をかけていただろうことは、想像に難くない。直属の上司や部長から、何かを言われたということはなかったのだが・・。

三尺バーベナ (近くの軽食喫茶の店先にて)
で、相変わらず話は前に進まない。ちょっと待ってね^^;まず、先輩Nさんの失敗話はこうであった。
憧れの大作家にお話を聞きに行く仕事で、前日から興奮して寝られず、質問も練りに練ったつもりで、準備は万端・自信満々だったという。
当日はご自宅の書斎に通され、ガチガチにあがって向かい合った。記者の質問が流れに乗らないことに、作家が徐々に苛立ち「君は何かね、聴くことを紙にでも書いてきているのかね」と、質された。
先輩は震え上がって、しどろもどろの思案の挙句、ポケットに忍ばせていた箇条書きの紙を渡したという。
作家は受け取った紙を見ていたが、うーーむ・・と唸って目をつぶり、腕組みをして、そのままひと言も言葉を発しなくなった。
長い沈黙の間、先輩はほとんど生きた心地がしなかったそうである。おそらく居たたまれなさから、仕事放棄してその場から逃げることも考えたのではなかったか。
それで、結局どうしたんです?と私は尋ねた。普通なら「それはたいへんな目に合いましたね~」と同情を装いつつ、慰めるのであろうが。。。必ず突っ込んで訊いてしまう、ワタクシ。
己の姿を鏡で見たガマガエルが、脂汗を流し続けるのもかくやかと、(先輩にとっては)気の遠くなるほどの長い時間が過ぎて後。作家の方も仕方がないと諦めたのだろう、ポツポツと話をしてくれたという。しかし、あくまでもテンション低く。。。
他人が仕事で苦しんだこういう話は、三度の飯よりも好きである(笑)
小沢昭一さんに仕事でお会いした時、私は相手に惚れる余裕がなかったのだろう。検証してみると、全くこちら側の問題である。あれほどの素晴らしい人の美点を、まるで見ようとしていなかったようだ。ただの聴くカタチだけで、流していたような気がしてしかたがない。

残り花のように 一輪二輪だけ咲いていたマルバアサガオ
(近くの民家の生け垣にて)
丸葉朝顔(ヒルガオ科)熱帯アメリカ原産 色は紅・紫・青・白がある
(※山小屋さんより これはマルバアサガオ↑と教えていただきました)
俳優・小沢昭一さん。昭和4年、東京生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。
「考え、行動する俳優」として、その個性は異彩を放ってきた。著書に『私は・考(1969年)』『私のための芸能野史(1973年)』『日本の放浪芸(1974年)』『小沢昭一的こころ(1974年~シリーズ化)』などがある。
レコード『ドキュメント・日本の放浪芸』は、若者を中心にたいへんな話題となる。この人気レコードは、1972年のレコード大賞企画賞を受賞した。
小沢さんは、未だにコミカルな兵隊さんのマネをされて、TVなどで満場の拍手喝采を浴びておられるが、ご本人に海軍兵学校に入校の履歴がある。
旧制麻布中学から海軍兵学校第78期生(1945年)となったが、間もなく終戦となって退校に。このコースは秀才である証し。その後、早稲田大学に行かれたようだ。
芸能の原点を求め続けて、放浪芸の収集、発掘、記録、保存、著述等の活動を熱心に推し進めている。
1973年以降、TBSラジオの「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を現在(2008年)もなお続けておられるという。
次回に載せるインタビューは、大活躍されていた1973年頃のものである。過激な言葉が出てくることなど、あらかじめご承知おきご寛恕くださいますよう、よろしくお願い致します。
なので続きはまた、次回のココロだ~!(笑)寄り道ばかりで現地到着が遅れています。申し訳ございません~♪




何かご心配でも?全然趣旨に反していませんよ。むしろ趣旨に沿っています。どうぞお気遣いなきように、お願い申し上げます
再度のコメントをありがとうございました
小沢昭一さん、私も年を経たせいか、最近良さがわかってきました(遅っ!)
失敗インタビュー、、、見たいの?(笑)
コメントをありがとうございました
長々書いたコメントバックが、どういう訳かエラーになって消えてしまいました。ガッカリ
コミックの『のだめカンタービレ』の知識しかありません、クラシックは。でも、物語の中で演奏された曲のCDは、全部買いました。マニア?ヾ(@^▽^@)ノ あはっ!
小沢昭一さんは、凄い人なんだと、最近気付きました(笑)有名人だからというわけではありませんよ。35年も前にご尊顔を拝していながら、気付けなかった私のフメイです。
このブログも、日々スレスレギリギリの危ない橋を渡っています。平穏無事が何より。オコジョさんに幸あれ!神よ~!
趣旨に反すると思ったら、このコメントも含めて
消去ください。
楽しみ!!!
トーコさん。続きをはやく・・・
あ、そうですね。別名ヤナギハナガサも入れておいたほうが良いですかね。このアサガオは、マルバアサガオというのでしょうか。葉っぱはまん丸でもなかったようですが。。。でも、普通のアサガオよりは丸い葉ですね。
「小沢昭一的こころ」はまだやっているようです。まだやっているなんて言うと、・・叱られますね(笑)「大沢悠里のゆうゆうワイド」の中だそうです。ラジオは縁が無いので、私は全然知りません~。山小屋さん、今度聞いたら教えてくださいませ。オトーサンたち頑張って
そして、面白く、説得力のある話を作る名人です。
逆説的のですが、「小沢昭一的こころ」 は奇麗事すぎますね。
一度もなるほどと思ったことがない・・・
奇麗事過ぎます。
それは立場うえ、仕方ないことかもしれません。
世の中、そういうものです。
こんなことを書くと怒られますね。
その道の大家はそれなりの力をもっています。
昔、山田一雄という指揮者がいました。
指揮台から飛び上がるなど、派手な身振りで、私はきらいでした。
尊敬するファンが多い人なので・・・恐いです。
私が最初に第九を歌ったのは、なんと言うことか、山田一雄先生でした。
練習の時は遠藤雅古という芸大の助教授・・・
ゲネプロ(本番リハーサル)で初めて、山田先生が降りました。
腕を通さず、背広を肩にかけて、腕組み・・・
「なかなかいいホールじゃないか」とのたまいました。
指揮棒を振り下ろした瞬間、それまでと全く違った音が・・・
プロはすごいです。
でも、山田先生の音楽は、いまだに・・・(笑)
小沢昭一もそういった意味では凄い芸人だと思います。
脱線です。
野にある人の本当の声を聞きたいと・・・
有名人がきらいな、オコジョのたわごとです。
さて、コメントするべきか、やめるべきか・・・
エイ・・・
平穏にいきますよう、全能の神よ!!
おもしろかったです。
まだ、やっているのですか?
最近は夕方車に乗る機会も少なく、聴かなくなりました。
サンジャクバーベナ、別名:ヤナギハナガサ・・・
遅くまで咲いていますね。
アサガオはマルバアサガオという外来種です。
これもすっかり野生化しています。
強い花ですね。
まるでトーコさんのようです。(笑)