箱根の思い出(PART 1)
Subj:小百合さん、おはよう!
明けましておめでとう
From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date:Sun, Jan 2, 2011 12:24 pm
Pacific Standard Time
日本時間:1月3日(月)午前5時24分
バンクーバーの元旦は寒かったよ。
いつになく早めに、午前9時に目が覚めて、ラジオをかけたらCNNのニュースで気温マイナス1度と言っていた。
バンクーバーの元旦はたいてい快晴。
2011年の元旦も、きれいに晴れ渡って日本で言えば“日本晴れ”でした。
カナダだから“カナダ晴れ”。
でも、日本語では、やっぱりダサいよね。
Gorgeous New Year's Day!
この方がいいよね。
恒例のイングリッシュ・ベイのポーラーベア・スィム(寒中水泳)は今年も行われました。
1991年が第一回だから、今年で21回目です。
よく続いているものです!
お昼の受付時間で外気はプラス1度。海水の温度の方が暖かい。
たぶんプラス4度ぐらいだと思う。
70歳の老人も参加したと言うけれど、
僕は、もちろん止めましたよ。
心臓麻痺を起こしそうだから。。。
きゃはははは。。。
ところで箱根はどうだった?
芦ノ湖では寒中水泳をやりましたか?
神域(しんいき)だから多分、泳ぐ人はいないだろうね。
セピア通りのアンティークの店で楽しいものが見つかった?
小百合さんの楽しい話を待ってるね。
じゃあ、新年も軽井沢タリアセン夫人になりきってルンルン気分で楽しい日々を過ごしてね。
バ~♪~イ!
バンクーバー市立図書館より
箱根で楽しい店を見つけたと言ってましたね。 どんな店でした?
デンマンさんにとっては面白くない店かもしれませんわ。
小百合さんがどんな店を面白いと思うのか?それを知るのが楽しみなのですよ。
アンティークの店というか。。。陶磁器などをたくさん並べているお店の中にある喫茶店ですわ。
やっぱりね。。。アンティークと関係ある店だと思っていましたよう。
どうして。。。?
僕は栃木の山の家を見ていますからね。。。
私は、それほどアンティークにハマっているわけではありませんわ。
いや。。。小百合さんはアンティークにかなりこだわっていますよ。。。あのねぇ、海外で暮らしたことがある女性って、結構アンティークにハマっている人が多いですよう。 安子さんもそうでしたよう。
今、沖縄でベッド・アンド・ブレックファーストをやっているデンマンさんの古いお友達ですか?
そうです。。。かつて1800番代のロブソン・ストリートのマンションに住んでいたのだけれど、初めて居間に入った時にアンティークの家具に圧倒されましたよ。
圧倒されたって、どのように。。。?
僕のようにアンティークに無関心な者でも、目に入る家具が、どことなく格調高いというか。。。、品格があるというか。。。、買えば高いに違いないというか。。。言ってみれば、軽井沢タリアセンにある睡鳩荘(すいきゅうそう)のリビングルームに足を踏み入れた時のようでしたよ。
私の「山の家」も睡鳩荘のような印象をデンマンさんに与えたのですか?
今から思い返せば栃木の「山の家」は、小百合さんが睡鳩荘を真似して建てたのではないか?!。。。僕は、今、そう思っているほどですよう。
デンマンさんは、なんでもそうやって関連付けてしまうのですわ。
だってねぇ、そもそも小百合さんが、どうして箱根に興味があるのか? その事を考えるとアンティークと箱根と軽井沢が結びつくのですよう。
どのように。。。?
言ってみれば軽井沢も箱根も“日本のアンティーク”だからですよう。 つまり、軽井沢も箱根にも、どこかに“上流”あるいは“舶来”を感じさせる歴史があるのですよう。 それで、小百合さんは軽井沢にも箱根にも惹きつけられるのですよう。
デンマンさんの考えすぎですわ。
それで、小百合さんの見つけた面白い店って何という名前ですか?
「茶房つぐみ」というのですわ。
ほおォ~。。。なんとなく純日本風な喫茶店という感じですね。
アンティークの椅子やテーブルがレトロな雰囲気で、洒落たカップでコーヒーや紅茶が飲めるのですわ。 それに、どちらにもお菓子が添えられているのです。
なるほど。。。小百合さんが気に入りそうな店ですね。 今度、箱根へ小百合さんと一緒に行く機会があったら、ぜひ、のんびりとコーヒーでも飲みながらダベりたいですよう。
バラの一輪挿しはテーブルにおいてありませんけれど。。。うふふふふ。。。
いや。。。僕は別にバラの一輪挿しにこだわっているわけではないのですよう。うしししし。。。ところで、軽井沢の万平ホテルはジョンレノンのお気に入りのホテルだったけれど、ジョンレノンと小野ヨーコさんが富士屋ホテルにも泊まったことがあるのですよう。
富士屋ホテル
神奈川県箱根町の宮ノ下温泉にある、富士屋ホテル株式会社が経営する。
1878年(明治11年)創業の老舗ホテルである。
現在は国際興業グループに属している。
国道1号に面しており、年始の箱根駅伝中継では選手の位置関係を表現する際に使われることもある箱根のランドマーク的な存在。
現存する本館は唐破風を取り入れた和洋折衷の木造建築であり、明治の建築様式を現代に伝えている。創業者である山口仙之助は「外国人の金を取るをもって目的とす」という言葉を残し、「外国人を対象とした本格的なリゾートホテル」をめざしたという。
古くは宿泊客に外国人が占める割合が高く、外国人専用であった時期も長かったこともあり、日本文化を伝える展示や工夫がされている。別館にはジョン・レノンとオノ・ヨーコが滞留していたこともあり、ホテル内ツアーで宿泊した部屋を見学することができる。
また、ヘレン・ケラーやチャップリンも宿泊している。
沿革
1878年(明治11年)7月15日:山口仙之助が藤屋旅館を買収・改装し、神奈川県足柄下郡底倉村に開業。
1887年(明治20年):塔ノ沢から宮ノ下間に、富士屋ホテルが私費で建設した有料の人力車道が開通。
1891年(明治24年):本館が竣工。
1893年(明治26年):ホテル奈良屋との協定により、外国人専用ホテルとなる(1912年(大正元年)まで)。
1929年(昭和4年):佐分利貞男、富士屋ホテルの一室でピストル自殺。
1930年(昭和5年):3代目山口正造により「富士屋ホテルトレイニングスクール」立ち上げ。
1931年(昭和6年):タイ王国国王・王妃が滞在。
1932年(昭和7年):チャールズ・チャップリン、兄のシドニーとともに来館。
1936年(昭和11年):花御殿が竣工。
1937年(昭和12年):ヘレン・ケラーが、花御殿に宿泊。
1945年(昭和20年)
5月:ホテル内に外務省箱根事務所が設置される。
9月:進駐軍のレストホテルとして接収される。
1946年(昭和21年):高松宮家別邸(旧宮ノ下御用邸)の払い下げを受け、菊華荘とする。
1950年(昭和25年)12月8日:政府登録国際観光旅館となる。
1954年(昭和29年):一般自由営業を再開。
7月14日 - 外国通貨両替業務が許可される。
1965年(昭和40年)4月20日:昭和天皇が宿泊。
1966年(昭和41年):国際興業グループに株を譲渡し、小佐野賢治が会長に就任。山口一族による経営が終わる。
1997年(平成9年)12月12日:本館、一号館、二号館、アイリー、花御殿、食堂および菊華荘が、登録有形文化財となる。
2007年(平成19年)11月30日:本館、西洋館、食堂棟、花御殿、カスケードルームおよび厨房が、近代化産業遺産群「富士屋ホテルと箱根観光関連遺産」に認定される。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あらっ。。。チャップリンとヘレンケラーも泊まったことがあるのですわね。
外国人専用ホテルになったり、やっぱり、富士屋ホテルはどことなく特別じゃありませんか。
ピストル自殺をした男性が居るのですわね。 いったい、どういう人なのですか?
ウィキペディアには次のように書いてあります。
佐分利貞男
1879年(明治12年)1月20日 - 1929年(昭和4年)11月29日
大正・昭和初期の外交官。広島県出身。妻は小村寿太郎の娘・文子。
佐分利家は備後福山藩士で佐分利流槍術を営む家柄であった。
貞男は、1879年(明治12年)1月20日、父好直、母八代の五男として出生した。
1905年(明治38年)7月、東京帝國大学仏法科を卒業、10月、外交官試験に合格した。
外交官補として清国、ロシア、フランス在勤などを経て、外務省参事官、大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。
1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐支那公使に就任。張作霖爆殺事件後に悪化した対支外交の打開を期待されていたが、一時帰国中の同年11月29日、箱根宮ノ下の富士屋ホテルにおいて変死体で発見され、自殺とされた。
佐分利公使怪死事件
1929年(昭和4年)11月29日の朝、佐分利は前日から宿泊していた常宿の箱根宮ノ下富士屋ホテルにおいて死体で発見された。死因はピストルで頭部を打ち抜いたことで、即死状態だった。
警察当局は、佐分利が右手にピストルを握っており、外部からの侵入者の形跡もないため、自殺と断定した。
佐分利は大変な愛妻家として知られていたが、1925年(大正14年)に妻を亡くしており子もおらず、亡妻を慕うあまりの後追い自殺であろうと推測された。
また、対支外交の将来を悲観しての自殺とも囁かれた。
しかし遺族からは自殺には疑問が呈されていた。
他殺疑惑
死体は右手にピストルを握っていたが、佐分利は左利きであった。
遺書もなかった。
また、佐分利は日頃から護身用に小型のピストルを所持していたが、使用された拳銃は銃身六インチもある出所不明の三十八口径大型コルト八連発拳銃であり、ホルスターも見つからなかった。
また、身綺麗な外交官に相応しくない寝間着姿での自殺は不自然であり、翌日の行動予定もあった。犯人は大陸浪人説、中国国民党工作員説などがあるが真相は不明である。
名誉毀損訴訟
佐分利は広田弘毅と帝大の同期であり、入省年次は一期先輩であった。
城山三郎の小説『落日燃ゆ』では広田のライバルとして描かれているが、佐分利の名誉を毀損する描写があったとして佐分利家側が城山を相手取り訴訟を起こし、死者に対する名誉毀損が不法行為として民法上の損害賠償の対象となりうるかどうかが注目された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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