デンマンのブログ

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英国議事堂爆破事件

2025-01-22 02:24:57 | 歴史四方山話


 

英国議事堂爆破事件

 


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ケイトー。。。 どういうわけで急にイギリスの国会議事堂のことなどを持ち出してきたのォ〜? 最近、そういう事件があったなんて聞いたこともないわァ〜。。。


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いや。。。最近の事件じゃありません。。。1605年に起きた事件ですよ。。。

イギリスの国会議事堂がマジで爆破されたのォ〜?

カソリック教徒の急進派が国会議事堂を爆破しようとしたのだけれど、その陰謀が見つかってしまった。。。

でも、どうして そんな昔の事件を持ち出してきたのォ〜?

たまたま、バンクーバー市立図書館で借りていたDVD を観たら次のドキュドラマが出てきたのですよ。。。

 


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火薬陰謀事件

 


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火薬陰謀事件(Gunpowder Plot)とは、1605年のイングランドにおいてロバート・ケイツビーを首謀者とする同国のカトリック教徒たちが、国王ジェームズ1世の暗殺を企てたが失敗に終わった政府転覆未遂事件。

イングランド国教会の成立に伴う半世紀以上にわたるカトリック教徒への迫害を止めさせ、カトリック教徒の君主に挿げ替える企てであった。

当時は「火薬反逆陰謀事件(Gunpowder Treason Plot)」や「イエズス会反逆事件(Jesuit Treason)」と呼ばれていた。

このテロ計画は、1605年11月5日に貴族院(ウェストミンスター宮殿)で行われる予定であった議会開会式を狙い、大量の火薬をもって議場ごと爆破し、国王ジェームズ1世以下その側近らをまとめて暗殺した上で、同時にミッドランズ地方で民衆叛乱を起こし、ジェームズの9歳になる王女エリザベスをカトリックの傀儡君主として王位に就けるというものであった。

 


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ケイツビーが陰謀を企てたのは、新王ジェームズの宗教政策が期待していたほど寛容ではなく、イングランドのカトリック教徒たちが失望したためだと考えられている。

ケイツビーの仲間には、ジョン・ライト、トマス・ウィンター、ガイ・フォークス、トマス・パーシーの主要5名のほか、ロバート・キーズ、トマス・ベイツ、さらに彼らの縁者やカトリックの友人であるクリストファー・ライト、ロバート・ウィンター、ジョン・グラント、アンブローズ・ルックウッド、サー・エバラード・ディグビー、フランシス・トレシャムなどがいた。

この中でフォークスは、オランダ独立戦争(八十年戦争)で、反乱軍(独立軍)の鎮圧に失敗したスペイン軍側に10年従軍した経歴を持ち、計画の要となる爆発物の責任者となった。

1605年10月26日、第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカーに送られた匿名の手紙によって、この計画は当局に察知された。

11月4日深夜、貴族院の探索が行われた結果、議場を瓦礫に変えるのに十分な量の火薬樽36本を隠し持つフォークスが見つかり、逮捕された。

 


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計画が露見したことを知った犯人らのほとんどはロンドンから逃亡するが、最後の抵抗として計画通りにミッドランズでの反乱を起こそうとした。

しかし、もはやケイツビーらを支援したり協力しようとする者はおらず、スタッフォードシャーのホルベッチ・ハウスに滞在していたところを、州長官率いる200人規模の追跡隊に襲撃された。

この戦闘でケイツビーら主だった者が何名か射殺され、生き残った者は逮捕された。
他の場所へ逃げていた者もまもなく逮捕され、平民のベイツを除いて全員がロンドン塔に投獄された。

1606年1月27日に行われた裁判において、フォークスを含む生きたまま捕縛された8人が大逆罪で有罪となり、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑が言い渡された

刑は同月30、31日に執行された。
また、ケイツビーら既に死亡していた者も遺体を掘り起こされて斬首され、晒し首にされた。

当時の裁判では陰謀の首謀者はケイツビーらではなく、イエズス会が黒幕ということにされた。
計画の詳細については、当時のイングランドにおけるイエズス会の要人であったヘンリー・ガーネット神父が知っていたとされる。

彼は最終的に大逆罪で死刑宣告され、1606年5月3日に処刑されたが、実際にどれほど把握していたかについては議論の余地がある。
彼は告解によって計画を打ち明けられたがために、告解室の絶対的な守秘義務によって当局に知らせることができなかった。

陰謀が発覚した直後より、イングランド政府は新たな反カトリック法を制定するなど、カトリック弾圧を強める姿勢を見せたが、実際には限定的なものであり、ジェームズ1世の治世下では多くの重要かつ忠実なカトリック教徒が政府高官として活躍した。

また事件を起こしたのは、カトリック教徒の中でも一部の過激派であると見なし、外交政策でもスペインなどのカトリック国家との融和に努めた。

また、事件は神によって未然に防がれたという認識も登場し、ジェームズは王権神授説の思想を強め、陰謀発覚の翌5日には失敗を記念する焚き火がロンドン市内で焚かれた。

これはその後「11月5日の遵守法」として正式な祝祭日となり、以降、この日には、特別な説教や教会の鐘を鳴らすといった公的な式典も行われるようになった。
これが現在でも11月5日のイギリスで行われているガイ・フォークス・ナイトに発展した。




出典: 「火薬陰謀事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



議会が開かれていた当日、議事堂が爆破されていたら、国王を始め、側近や重要人物が根こそぎ爆殺されたわけねぇ〜。。。



そうなのですよ

ジェームズ1世が爆死していたら、その後の歴史は変わっていたかもしれないわねぇ〜。。。

そうです。。。カソリック教徒が優勢になり、多くのプロテスタント教徒が虐殺されたはずですよ。。。

どういうわけで、陰謀が発覚してしまったの?

当時のロバート・セシル国王秘書長官がイギリス国内だけじゃなく、ヨーロッパの主要な国にまでスパイ網を構築していたのですよ。。。

 


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ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)

(1563年6月1日 - 1612年5月24日)

 

初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシル(Robert Cecil, 1st Earl of Salisbury)は、イングランドの政治家、貴族。

テューダー朝最後の女王エリザベス1世とステュアート朝最初の国王ジェームズ1世に重臣として仕え、エリザベス朝後期からステュアート朝初期のイングランドの国政を主導した
国王秘書長官(在職:1596年 - 1612年)や大蔵卿(在職:1608年 - 1612年)などを歴任した。

エリザベス1世の即位から晩年までの重臣の初代バーリー男爵ウィリアム・セシルは父である。
また19世紀後半に3度にわたってイギリス首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは9代後の子孫である。

1563年、女王エリザベス1世の国王秘書長官初代バーリー男爵ウィリアム・セシルの次男として生まれる。
ケンブリッジ大学やリンカーン法曹院等で学び、フランスのソルボンヌ大学にも留学した。

父の後援を受けて1584年に庶民院議員に当選して政界入りした。
国務を差配する父を補佐し、議会活動を通じてエリザベス女王の目にもとまり、1591年には枢密顧問官に任じられた。

しかしその後、女王の寵臣第2代エセックス伯爵ロバート・デヴァルーとの権力闘争が始まり、両者は様々な問題で対立を深めるようになった。

エセックス伯派とのポスト争いの中で1596年には国王秘書長官、1599年には後見裁判所長官に就任した。
1598年から1599年にかけて女王とエセックス伯の関係が悪化したため、セシルが優位に立つようになる。

さらに1601年にエセックス伯がクーデターを起こして失敗して処刑されたことで彼の権勢を脅かす者は消え去った。

エリザベス女王の晩年にはスコットランド王ジェームズ6世と連絡を緊密にしてステュアート家への王位継承準備を整えた。
彼の手まわしのおかげで1603年3月のジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)への王位継承は大きな混乱なく達成された。

新王ジェームズ1世にも重用され続け、1605年にはソールズベリー伯爵位を与えられた。

1608年に大蔵卿に就任。
財政破綻状態の王庫を立て直すべく、既存の財政基盤の増収を徹底させた。

さらに議会に対して「大契約」を提案することで国王大権を基礎とした封建的税制から国民への恒常的課税制度を基礎とした近代的財政へ転換させようとしたが、同法案は議会で否決され、挫折した。
その後、体調を悪くし、1612年5月24日に死去した。

エリザベス女王からもジェームズ1世からも厚く信頼された政治家だった。
業績としてはテューダー朝からステュアート朝への王朝交代を混乱なく実現したこと、また「大契約」で封建的財政を廃して近代的財政を作ろうとしたことが特筆される。

大契約自体は否決されるものの、50年後の清教徒革命を経てこの構想は実現することになる。

背骨が湾曲していたため成人後も身長は150センチ足らずであった。
彼の権勢欲をこの肉体的コンプレックスから説明付ける主張が存在する


 

人物・評価

背骨の湾曲で成人後も身長150センチ足らずだったため、「せむしの怪人」「ピグミー」「小人」「悪魔のロバート」などと陰口された。
また足を地面に擦るような独特の歩き方をしたという。

ベーコンは、ロバートの権勢欲の強さを肉体的コンプレックスの裏返しと見て、それを念頭に「不具について」という論文を書いた。
そのなかでベーコンは「自分の体の中に軽蔑を招く何か根絶し難い物がある人は、誰でもまた自分自身の中に自分を侮辱から救い出して解放しようという動機を持ち続ける。
それゆえ身体的欠陥のある人は全員大胆である。

はじめは侮辱から自分を守ろうとしてであるが、時が経つにつれてそれが一般的習性になるからである」と分析した。

父のバーリー男爵が真面目一辺倒だったのと対照的にロバートにはユーモアのセンスがあったという。
友人たちへの手紙の中でそのセンスを残している。

政敵であるエセックス伯ロバート・デヴァルーとは対照的だった。
エセックス伯が長身で体格がよく武術に優れていたのに対し、ロバートは低身長・虚弱体質だった。

性格もエセックス伯が短気・激情的なのに対し、ロバートは慇懃で物腰の柔らかく、人あしらいがうまかった。
そのためエセックス伯がしばしばエリザベスを怒らせたのに対し、ロバートは女王の気持ちが収まるのを待つのを常としたという。

オウムをペットとして飼っており、宴会の席上などにも連れて来てテーブルの上をよちよち歩かせて披露したという。




出典: 「ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



なるほどォ〜。。。抜け目のない狡猾な人だったのねぇ〜。。。人扱いもうまそうねぇ〜。。。



父親の援助もあっただろうけれど、これだけ出世したのだから、まず抜け目のない官僚だったのですよ。。。

ケイトーは、このセシルに惹かれたのォ〜。。。

いや。。。こういう官僚的な人物は、僕はあまり好きになれない。。。それよりも自分の信念に沿って、迫害されようが正直に生きる人に、僕は惹かれるのですよ。。。

そういう人物が出てくのォ〜?

ドロシー・ディブデイル(Dorothy Dibdale)という架空の貴婦人が出てくるのです。。。このドロシー・ディブデイルは残酷な方法で処刑されるのだけれど、実は、この場面は、聖マーガレット・クリザロウが1586年に圧死(peine forte et dure )によって処刑されたのをモデルにしている。

 


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マーガレット・クリザロウ

(1556年頃- 1586年3月25日)

 


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マーガレット・クリザロウ(旧姓ミドルトン、)は、イングランドの反逆者であり、ローマカトリック教会の聖人および殉教者で、「ヨークの真珠」として知られる。

彼女はカトリックの司祭をかくまった罪に対する答弁を拒否したため、死刑に処せられた。
彼女は1970年に教皇パウロ6世によって列聖された


イングランドとウェールズの40人の殉教者の一人。

マーガレット・クリザロウは1556年に、トーマスとジェーン・ミドルトン(旧姓ターナー)の末っ子として生まれました。
父親は尊敬される自由人で、蝋人形商を営む実業家。

また、1564年にはヨークの保安官を務め、1555年から1558年までコニー・ストリートのセント・マーティン教会の教区委員を務めました。
マーガレットが14歳のときに父親が亡くなった。

1571年7月1日、彼女は市の裕福な肉屋で侍従長で、2人の息子を持つ未亡人であったジョン・クリザロウと結婚した。
彼女は3人の子供を産み、家族は現在のザ・シャンブルズ10-11番地に住んでいた。

彼女は1574年にローマカトリックに改宗した。
夫のジョン・クリザロウは国教会に属していたが、兄のウィリアムがローマカトリックの司祭であったため、彼女を支えていた。
彼は彼女が教会の礼拝に出席しなかったことに対する罰金を払った。

彼女は1577年に教会に出席しなかったために最初に投獄され、その後ヨーク城でさらに2回投獄された。
彼女の3番目の子供ウィリアムは刑務所で生まれ、彼女は投獄中に読み書きを学んだ。

マーガレットは、1584年のイエズス会等法で死刑に値する罪とされた聖職者をかくまい、養うことで命を危険にさらした。
彼女は2つの部屋を用意し、1つは自宅に隣接し、自宅は監視下に置き、少し離れたところに家を借りて、そこに聖職者を隠し、迫害の最中でもミサを執り行っていた。
彼女の家は、イングランド北部で逃亡中の聖職者が隠れる最も重要な場所の一つとなった。

地元の言い伝えによると、彼女はまた、女王の代理人が宿舎を置いていたピーショルム・グリーンのブラック・スワンに聖職者の客を泊めていたという。

彼女は長男ヘンリーを、聖職者になるための訓練のため、フランスのランスに移転したイングリッシュ・カレッジに送った。
夫は当局に召喚され、長男が海外に行った理由を説明した。

1586年3月10日、クリザロウ邸が捜索された。
怯えた少年が聖職者の隠れ家の場所を明かした。

マーガレットは逮捕され、カトリックの司祭をかくまった罪でヨーク巡回裁判所に召喚された。
彼女は罪を認めることを拒否し、それによって、彼女の3人の子供が証言させられ、拷問を受けることになる裁判を回避した。
彼女は死刑を宣告された。

彼女は4人目の子供を妊娠していたにもかかわらず、1586年の聖母マリアの日(その年の聖金曜日でもあった)に、ヨークのウーズ橋の料金所で、罪を認めさせるための標準的な誘因である圧死(peine forte et dure )によって処刑された。

処刑を行うべきだった二人の軍曹は、代わりに四人の物乞いを雇って処刑させた。

彼女は裸にされ、ハンカチを顔に巻かれ、男性の拳ほどもある尖った岩の上に横たわらされ、彼女の家のドアが彼女の上に乗せられ、7、8ハンドレッドウェイトの岩や石が載せられた。
尖った岩が彼女の背骨を折るようにするためだった


 



 

彼女は15分以内に死亡したが、彼女の遺体は重りが取り除かれるまで6時間放置された。
彼女の遺体はカトリックの儀式に従って密かに埋葬された。

処刑後、ジョン・クリザロウは3度目の再婚をしたが、プロテスタントのままであった。




SOURCE: 「Margaret Clitherow」
From Wikipedia, the free encyclopedia


 



 



ドロシー・ディブデイルも、マーガレット・クリザロウのように、当時では犯罪となるカソリックの司祭を邸宅に匿(かくま)っていたのです。。。



。。。で、ドロシー・ディブデイルも罪を認める事を拒否したのォ〜?

拒否したのですよ。。。

それで、マーガレット・クリザロウのように、裸にされ、ハンカチを顔に巻かれ、男性の拳ほどもある尖った岩の上に横たわらされ、彼女の家のドアが彼女の上に乗せられ、200キロ近い重しを載せられれて圧死したのォ〜?

そうなのですよ。。。もう信じられないほどの残酷な刑罰です。。。

 



首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑

 


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首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑されるヒュー・ル・ディスペンサーを描いたジャン・フロワサールの手稿

 

首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑(くびつり・ないぞうえぐり・よつざきのけい、英:Hanged, drawn and quartered)は、イングランド法における反逆罪(大逆罪)で有罪判決を受けた者に対する最高刑(死刑)である。

1351年反逆法の制定後に1352年から施行されたが、記録に残る最初の執行はヘンリー3世の時代(1216-1272年)であった。

罪人はハードル(木枠)に固定された状態で馬に引きずられながら処刑場に連行され、まず(死の寸前まで)首を吊られた後、性器を切除され、腹を裂かれ、その後、断首された後に四つ裂きにされた

 


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その死体はしばしばロンドン橋など国の目立つ場所に晒し者にされ、反逆を企む者への見せしめにされた。

公序良俗の観点から、大逆罪で有罪判決を受けた者が女性の場合には火あぶりの刑に処された。

判決の厳しさは、罪の重さに応じて判断された。
イングランド王室の権威への攻撃として大逆罪はもっとも極端な刑罰を必要とする卑劣な犯罪だと見なされていた。

刑罰が見直されて不名誉な死を免れた一部の受刑者を除けば、数百年の間に大逆罪で有罪となった者たちの多くは、この刑で裁かれることとなった。
この中にはエリザベス朝時代のイングランド人のカトリック司祭や1649年のチャールズ1世に対するレジサイド(王殺し)に与した者たちへの処刑も含まれる。

大逆罪を制定した議会立法はイギリスの法令集に現在でも残っているが、19世紀に行われた長い法改正において、まず引きずり回し・死ぬまでの首吊り・死後の斬首・四つ裂きの刑(drawing, hanging until dead, and posthumous beheading and quartering)に変更された後、1870年にイギリスにおいて廃止された。

1998年には反逆罪における死刑も廃止された

 

刑の執行

判決を受けた罪人は、通常、数日間牢屋に留め置かれた後、処刑場に連行される。
中世初期には罪人が直接体を馬に結びつけられて刑場に連行されることもありえたが、その後は馬に繋がれた籐製のハードル(つまり木製のパネル)に載せた状態で連行されることが通例となった。

歴史家のフレデリック・ウィリアム・メイトランドは、この理由をおそらく「死刑執行人が罪人が生きている状態を確保したいからだ」と推測している。

刑の名前に「draw(引く)」という意味の "drawed" という言葉が使われていることはある種の混乱を生じさせた。
オックスフォード英語辞典のdrawの定義には、「内臓や腸を引き出す」というものがある。

「内臓や腸を外に引き出すこと。~から臓物を取り除く(調理のために家禽に行う。あるいは反逆者や罪人に絞首刑の後に行うもの)。」とあるが、これに続いて「死刑執行の多くの場合においては、これを意味しているか、もしくは[(犯罪者を)馬の尻尾やハードルなどで処刑場まで引きずっていくことであり、かつては大逆罪の法定刑であった]ことを意味しているかは不明である。

hanged(絞首刑)の後にdrawingが出てくる場合は、内臓抉りの意味だと思われる」となっている。
歴史家のラム・シャラン・シャーマも同じ結論を述べている。

「一般的な「hung(首吊り), drawn and quartered(四つ裂き)」のようにhungedやhungに続いてdrawnが出てくる場合は、反逆者の腹を切ることを意味している」。

この説を支持している歴史家はシャルマだけではなく、「死ぬ寸前までの首吊りの後に、"drawn" と四つ裂き」という表現をしている二次資料の関連書は多い。

歴史家で作家のイアン・モーティマーはこの説に同意していない。
彼のウェブサイトに掲載されているエッセイでは、内臓摘出を行うことを明示することは比較的近代の措置であり、確かに多くこのようなことが行われたのは事実だが、だからといって「draw」が内臓摘出を意味するという推定は誤りであると書いている。

また、(連行手段としての)draw(引き回し)は、処刑における補助的な役割を示していたがゆえに、hung(首吊り)の後に言及されるのだ、としている。

ロンドン橋のゲートハウスには、処刑された罪人の頭が槍先(スパイク)に刺されて飾られていた。

 


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上部はチャールズ1世が処刑を待っている様子を描いている。下部は王殺しに関与した者が絞首刑、別の一人が四つ裂きにされ、その首が観衆に晒されている。

 

メアリー1世の時代には、引き回し中の罪人を群集が自分たちの手で苦しめていたように、民衆もこうした刑を支持していたという記録が残っている。

ウィリアム・ウォレスは、鞭で打たれたり、襲われたり、腐った食べ物やゴミを投げつけられたとされ、また1587年の司祭トマス・ピルチャードの処刑では、彼が絞首台に着いたときには、既に瀕死状態であったといわれている。

さらに罪人を諭そうとする熱心な信仰者もおり、説教者が罪人の後を追いながら悔い改めよ、と説教するのも、ありふれたものだった。

サミュエル・クラークによればピューリタンの聖職者ウィリアム・パーキンス(1558-1602)は、絞首台にいる若者にあなたは赦されたと説教を行い、そのために若者は「目に喜びの涙を浮かべて…… まるで以前から恐れていた地獄から解放され、天国が彼の魂を受け入れるために開かれたのを実際に見たかのように」死に向かうことができたという。

王の命令が読み上げられた後に、受刑者の発言が許されるが、通常ではこの前に群集は絞首台から離れるように求められた。

こうした受刑者の発言のほとんどは自分の罪を認めるものであったが(反逆罪の場合は認める者はほとんどいなかったが)、それでも執行官や牧師は注意深く見守り、時には対処を迫られることもあった。

1588年にカトリック司祭のウィリアム・ディーンが群衆に向かって演説したことは非常に不適切とみなされ、彼はほとんど窒息するほどの猿轡を噛まされた。

1591年にエドモンド・ジェニングスが経験したように、忠誠心や政治に関する質問が囚人に投げかけられることもあった。
彼は司祭狩りのリチャード・トップクリフから「反逆罪を認めてくれ」と要求されたが、ジェニングスは「もしミサを行ったことが反逆罪とされるなら、私はそれを認めるし、誇りに思う」と答え、トップクリフは彼を静かにさせるように命じ、絞首刑執行人に彼を梯子から突き落とすよう指示した。

時には死刑囚の処刑に責任を持つ証人が立ち会うこともあった。
1582年、政府の内偵者であったジョン・マンデーは、トマス・フォードの処刑に立ち会った。
無実を訴えた司祭に罪の告白を思い出させた執行官をマンデーは支持した。

このような演説で表現された感情は、投獄中の状況と関係がある可能性がある。
多くのイエズス会の司祭は他の囚人たちによって酷い目に遭い、最も反抗的な態度をとることが多かったが、逆に地位の高い者はよく謝罪した。
こうした悔恨の念は通常の斬首ではなく、内臓を抜き取られることへの極度の恐怖から生じたものであり、自分の運命を受け入れたように見えるのは、反逆罪かはともかく、重大な行為が行われたこと自体は認めているからかもしれない。
あるいはまた絞首台における神妙な態度は、自身の悪評が相続人に向かわないようにしたい囚人の願いだった可能性もある。

時折、死刑囚は他の反逆者や共犯者が目の前で処刑されるのを見せられた。
司祭のジェームズ・ベルは1584年に仲間のジョン・フィンチが「四つ裂き(a-quarter-inge)」にされるのを見させられた。

1588年にエドワード・ジェームズとフランシス・エドワーズ(Francis Edwardes)は、ラルフ・クロケットの処刑を見せられた。
これは、処刑される前にエリザベス1世の宗教的覇権に協力し、受け入れさせるためのものであった。

通常、受刑者はシャツを脱がされ、両腕を前に縛られた状態で梯子や荷車を足場にして短時間で絞首台にセットされる。
そして執行官の命令で梯子や荷車が外され、受刑者は吊られた状態となる。

1582年に司祭のジョン・ペインが足を引っ張られて死亡したように、早死にしてしまった犠牲者もいたが、通常は窒息で死にかけさせること(この時点ではまだ殺さないこと)が目的であった。
逆に、酷く嫌われたウィリアム・ハケット(1591年没)のように、さっさと絞首紐を切られて落とされ、内臓を取り除かれた上に性器も切り取られた場合もあった。
この去勢はエドワード・コークによれば、「血の堕落によって彼の子孫の相続権が失われたことを示すため」だという。

この時点でまだ意識があった者は自分の取り出された内臓が焼かれるのを見たかもしれない。
そして心臓が摘出され、斬首、四つ裂きに処された。

1660年10月、国王殺し(レジサイド)のトマス・ハリソン将軍は数分間の絞首刑にされた後、腹を裂かれたが、身を乗り出して死刑執行人に体当たりしてきたと報告され、そのためにすぐに斬首され、内臓は近くの火の中へと投げ込まれた。

1535年に処刑されたジョン・ホートンは、腹を裂かれても祈りを捧げ、最期の瞬間には「よきイエスよ(Good Jesu)、私の心臓をどうしてくれるのか」と叫んだと伝えられている。

1326年のヒュー・ル・ディスペンサー (小ディスペンサー)の場合、シーモア・フィリップスは次のように書いている。
「王国の善良な人々は貴賤の別なく、また富める者も貧しき者も、ディスペンサーを反逆者、強盗だとみなし、そのために彼は絞首刑に処された。反逆者として四つ裂きにされてその身体は王国中にばら撒かれ、無法者として斬首された。王と王妃と王国の民の間に不和をもたらしたとして内臓抉りを受け、内臓を焼かれることが宣告された。最終的に彼は売国奴(traitor)、暴君、反逆者(renegade)とされた」。

ロバート・カステンバウム教授の見解では、ディスペンサーの死体を損壊させたのは(内臓抉りは死後に行われたと思われる)、当局が反論を許さないということを群衆に示すためではなかったという。

彼は、このような血に濡れた行為の背景には群衆の怒りを和らげるため、死体から人間であったことの特徴を無くすため、罪人の遺族によって意味のある葬儀を行う機会を奪うため、さらには死体に宿る悪霊を解放するため、などの理由があったと推測している。

死体を解体する習慣は、反逆心は身体に宿っているという中世の思想に由来していると考えられ、罪人の内臓を「火で清める」ことが要求された。

1323年のアンドリュー・ハークレイの処刑の場合、彼の「反逆心は『心臓、腸、内臓』に宿っていた」ため、ウィリアム・ウォレスやギルバート・デ・ミドルトンもそうであったように「それを取り出して焼いて灰にし、撒く」ことになった。

処刑人はしばしば経験不足であり、処刑は必ずしもスムーズに行われなかった。
1584年、リチャード・グウィンの死刑執行人は、腹に開けた小さな穴から彼の腸をひとつずつ取り出したが、「この方法ではうまくいかなかったので、彼は肉屋の斧で胸を非常に哀れなほど切り刻んだ」。

1606年1月、火薬陰謀事件に関与した罪で処刑されたガイ・フォークスは、絞首台から飛び降りることで首の骨を折って自ら死を選ぶことに成功し、死体の状態で内臓抉りを受けることができた。

 



 


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トマス・アームストロング卿の四つ裂きを描いた版画。

 

死体がどのように四つ裂きに処されたかを示す記録はないが、1684年に行われたトマス・アームストロング卿の四つ裂きを描いた版画には、死刑執行人が背骨に垂直に切り込みを入れ、腰の部分から脚部を切断している様子が描かれている。

ダヴィズ・アプ・グリフィズの遺体の各部が運ばれた場所についてハーバート・マクスウェルは次のように述べている。
「指輪をはめた右腕はヨークに、左腕はブリストルに、右脚と腰はノーサンプトンで、左脚はヘレフォードに。しかし、この悪党の頭は腐敗によってバラバラにならないように鉄で固定され、ロンドンで見せしめのために長い槍の柄の上に目立つように設置された」。

1660年、11年前のチャールズ1世の死に関与した摂政の何人かが処刑されたことについて日記作家のジョン・イーヴリンはこう記している。
「私は彼らの処刑を見たわけではないが、絞首台からバスケットに入れられてハードルの上に運ばれてきた彼らの四つ裂き刑で切り刻まれ、悪臭を放つ遺体は確認した」。

このような遺体は通常、半茹でにし、反逆者が陰謀を企てた場所や支持を得た場所で、大逆罪の刑罰を思い起こさせるために晒しものにされた。
煮る時には塩とクミンの実が加えられた。
これは塩は腐敗を防ぐためであり、クミンは鳥がついばむのを防ぐためであった。

頭部は、何世紀にもわたって南部からの旅人がロンドンに入るためのルートであったロンドン橋でよく晒しものにされた。
何人かの著名な著述家がこの展示について言及している。

1566年、ジョセフ・ユストゥス・スカリガーは「ロンドンでは橋の上にたくさんの首があった…… あたかも船のマストであるかのように、その上に四つ裂きにされた遺体の一部が乗っていたのを見たことがある」と記している。

1602年、ポメラニア公バルニム10世は「郊外側の橋の端には女王に対する反逆や秘密工作の罪で首を刎ねられた地位の高い30人のジェントルマンたちの首が突き立てられていた」と書き、首の存在の不吉さを強調した。

ロンドン橋をこのように使用する慣習は1678年に、虚偽のカトリック陰謀事件の犠牲者で首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑を受けたウィリア・ステイリーが最後だった。

彼の住居がその親族に与えられ、彼らはすぐに「盛大な」葬儀を行ったが、これは検視官を激怒させ、遺体を掘り起こして首を市の門の上に置くよう命じられた。
この経緯によってロンドン橋に置かれた最後の首はステイリーとなった。




出典: 「首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



こういう残酷な刑罰が実際に行われたのねぇ〜。。。



人間が、どこまで残酷になれるかということを まざまざと示してますよ。。。

そうですわねぇ〜。。。

最近、死刑廃止論が出てくるのも、こうした歴史の流れから来るのですよ。。。

ケイトーも死刑廃止論者なのォ〜?

歴史を見れば、そうならざるを獲ないのですよ。。。死刑というのは国家が殺人を犯すことですからねぇ〜。。。人を殺すのはいけないことに決まっている! だから、戦争をやることも もちろんいけないのですよ。。。でも、それが現代人にはわからない。。。

ケイトーは、まるで200年後の人間で、タイムマシーンに乗って現在にもどてきたようなことを言うのねぇ〜。。。

あれっ。。。シルヴィーは知らなかったのォ〜? 僕は200年後の人間ですよ。。。タイムマシーンに乗ってやって来たのです。。。これは、シルヴィーと僕だけの秘密ですよ。。。他の人に言わないでねぇ〜。。。200年後の世界では、死刑は、ちょうど1600年代に行われた「四つ裂き」の刑のように考えられているのです。。。

 


(future100.jpg)






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【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

ですってぇ〜。。。

あなたも死刑は、国家が殺人を犯していることだ、と思いますかァ〜?

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから他にもっと面白い話をしてよゥ!」

貴方は、そのような強い口調で わたしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわ。。。

シルヴィーさんが登場する 興味深い面白い記事は たくさんあります。

興味があったら、ぜひ次の記事を読んでみてください。


(sylvie500.jpg)


『角さんと原発と天罰(2013年1月5日)』

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じゃあね。バーィ。


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ィ~ハァ~♪~!

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