チェンバレンの女(PART 1)
ちなみにチェンバレン自身にも『チェンバレンの女』と呼ばれる日本の女性がいた。パーシヴァル・ローエルは写真の名手で明治22年の東京で若き日のダンディーなチェンバレンをはじめ次々と写真におさめているが、その一枚に着物姿の日本女性が写っており、裏にローエルの筆でChamberlain's girlと記されている。
チェンバレンは、生涯妻帯せず、秘書や家政婦たちと一緒に暮らしていた。彼の日本でのことはよく分からないが、後年には赤坂の家からホテル住まいに変わった。箱根宮の下の富士屋ホテルの構内、ホテルの北東、熊野神社傍らに、書庫兼書斎、後の王堂文庫を建てた。彼は、午前、午后の数時間をそこで過ごしていた。
また、ジュネーブではアパートの部屋で、ボラール書記と女中一人を置いていたが、後にホテルの二階に住んだ。
チェンバレンの長い滞在中にこのような日本女性との関係があったために(小泉)八雲は、彼を受け入れられなくなったのである。もちろん、このようなことは、当時日本の社会通念からすれば、男の甲斐性として非難されぬものであった。
なお、この関係を、チェンバレンの日本での研究第一人者(名を秘す)である方に問い合わせたところ、「チェンバレンの件ですが、交際していた女性はいたと思いますが、サトウやハーンの場合のような日本女性がいたのかどうか聞いていません、虚弱な人でしたからそういうことはなかったのではないかと推察します」との御回答を頂いた。
ここでの、「アーネスト・サトウ云々」は、彼が、武田兼と同棲し、二人の男子をもうけながらも、最終的には妻子を残して離日したことである。チェンバレンは、1894年1月22日付、東京、八雲宛の書簡で、「もし私が、いつかこの国を離れるとするなら、たぶん妻を日本人のままにしておく方を選ぶでしょう。なぜなら、そのようにすることが、彼女の最上の幸せと思うからです。もちろん、このような問題は、各人の判断によるものですが」と書いている。
八雲は、このような当時の外国人の気持ちにはついて行けなかった。
(注: 写真はデンマンが貼り付けました)
241-242ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社
デンマンさん。。。あんさんはどうして明治時代の女性関係の話など持ち出してきやはったん?
わては、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と日本人の小泉セツさんとの関係に不変的な愛の形を見るような気がするねん。
つまり、あんさんは、また「愛の色と形」の話を蒸し返そうとしやはるの?
めれちゃん。。。、苦虫を踏み潰したような顔をせんでもええやん。
要するに、わたしの愛は閉鎖的で、独占的で、閉塞感があって、しょうもない愛の形やと、あんさんは言いたいん?
めれちゃんも、そないに思うてるんか?
ちゃいますがなァ。。。、あんさんがそないに言いますさかいに、わたしが要約したまでやんか! あんさんの言う事を認めたわけやないねん。
さよかァ。。。、あのなァ、小泉八雲がセツさんに寄せる愛には人種を越えた。。。何か本質的な愛の姿が見えるような気がしたのや。。。
どういうところが本質的な愛の姿やねん?
本の中に次のような箇所があるねん。
なぜ女性を大切に扱うのか?
これは、チェンバレンが女性をどうかしたか、という確たる証拠があってのことでなく、八雲が、不幸な母親のこともあって、女性を大切にし、その結果、女性をいじめたり、女性関係にだらしない人を嫌ったということを強調するものである。八雲の作品でも、日本女性を非難したようなものがほとんどないのも、その辺りの事情を物語っている。著書『日本』の「封建制の完成」でも、「日本女性を道徳的、宗教的信念を持った愛らしい倫理的創造物である」とし、「日本社会の純粋培養花」とまで激賞している。
エルウッド・ヘンドリック宛の手紙で、「世の中には自分の子を産んでくれた女を虐待する人もあると思い出したら、天地がしばらく暗くなった。子供が生まれた時、目に見えざる力に謙虚と感謝の念がこみあげて来た」(1893年11月熊本)とある。また晩年、お抱え車夫や自家の使用人を選ぶ条件として、愛妻家や小児を愛する人には悪人はないといって、それらの人を雇った。
いつの頃かよく分からぬが、小泉一男は、父・八雲について次のように語っている。
八雲は、自分の生母が罪無くして離婚された事実に甚だしく同情し、一生を通して母を慕っていた。それ故か女房を虐待して離別する人には、たちまち愛想尽くしをして交際を断つのであった。チェンバレン氏との交友のさめて行った原因の一つにもこうした問題が潜んでいたらしい。
(「左顧右眄」より)
また、妻であるセツは、
すべて、女と子供とか言う弱い者に対してひどいことをすることを何よりも怒りました。一々申されませんが、ヘルンが大層親しくしていました方で後にそれ程でなくなったのは、こんなことが原因になっているのが幾人もございます。日本人の奥様を捨てたとか、何とかそれに類したことをヘルンは怒ったのでございます。
(「思い出の記」より)
239ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社
八雲が、不幸な母親のこともあって、女性を大切にし、その結果、女性をいじめたり、女性関係にだらしない人を嫌ったという、と書いてるねんけど、明治27(1894)年当時、日本人女性と恋愛関係・性的関係にあっても、正式に結婚したり、また八雲のように日本に帰化する外国人は極めて少なかったようやでぇ。
人種差別やと言いたいん?
人種差別と決め付けるわけやないけれど、チェンバレン氏は次のように書いていた。
もし私が、いつかこの国を離れるとするなら、
たぶん妻を日本人のままにしておく方を選ぶでしょう。
なぜなら、そのようにすることが、
彼女の最上の幸せと思うからです。
チェンバレン氏は英国人。チェンバレンの女と呼ばれる女性は日本人やァ。 いわゆる内縁の妻やがなァ。
つまり、「ラシャメン(洋妾)」やったと、あんさんは言わはるのォ~?
そういうことやなァ。
要するに、外人の身勝手で日本人の女を「おめかけさん」として付き合っていたということやんか。
そう受けとめられているけれど、チェンバレン氏に言わせれば、正式に結婚するよりも、そのような関係こそお互いにベターだと言ってるねん。
それが男の身勝手ですねん。「蝶々夫人」の悲劇は、そのような関係やから起きたのですやん。ピンカートンは蝶々夫人という女性が日本に居るのにアメリカで良家の娘と結婚してしまった。それで、蝶々夫人は悲観して自殺してしもうたのやないかいな。男の身勝手以外の何ものでもあらへん。
確かに、そうなのやァ。 それが、その当時の外国人と日本人女性の愛の形やったのやァ。そやから、チャンバレン氏と小泉八雲は、言わば、例外やったのやァ。
例外。。。? どうして。。。?
チェンバレン氏は、生涯妻を娶らなかったのやでぇ~。 要するに、結果として「蝶々夫人」のような悲劇を避けたわけやァ。 小泉八雲の場合は、日本に帰化するほどの固い決意でセツさんと正式に結婚して家庭を持つことを選んだわけやァ。
生き方の問題やと、あんさんは言わはるの?
そうや。。。結局、人生の選択の問題やと思うでぇ~。。。
。。。で、あんさんは、小泉八雲の生き方に共感を持っていると言わはるの?
そうやなァ~。。。わての生き方は、チェンバレン氏よりも小泉八雲に近いと思うでぇ~。。。
そうやろか。。。?
めれちゃんは反論があるようやな?
わたしは次の箇所を読みましてん。。。
ネルソン提督、広瀬中佐、と東郷大将
八雲はネルソンを尊敬せず、広瀬中佐や瓜生少将、東郷大将らが、日本海海戦前に仁川港外や旅順港の海戦において奮戦し、「東洋のネルソン」と呼ばれる度毎に、「広瀬や瓜生、東郷などの立派な日本武士の人格を無視し、これを侮辱するものであると憤慨した。
(中略)
広瀬中佐は、死を覚悟して妻すら娶(めと)らなかった日本武士であるのが、英国人ネルソンは、死を知るが故に不倫の行為を敢えてした人物だ。大した人格の差である(『父八雲を憶う』小泉一雄)」
242ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社
あんさんは八雲が嫌ったネルソン提督のように、敢えて不倫するような考えを持ってますやん。
それは、めれちゃんの独断と偏見やでぇ~。。。不倫と言うのは結果として、本人、あるいは相手の家庭が崩壊したりして不幸になることやでぇ~。。。、つまり、不倫=不幸 ということやんか。 めれちゃんが、わてと、ある女性の関係を何と呼ぼうが、わては相手の女性を大切にするし、その女性の家庭は崩壊することもなく、その女性が不幸になることもないねん。 要するに、不倫=不幸 という関係が成り立たない以上、それは不倫ではあらへん。
それは、あんさんの詭弁ですやん。
しかし、関係者が誰も不幸にならん限り、それは、望まれる関係やと、わては信じているねん。 それこそ、レンゲさんが言う愛と性の自由と言うことやんか!
(すぐ下のページへ続く)