亡国の民(PART 1)
「戦争は人を鬼にする」といった決めつけは正しくない。 満州で非道の限りをつくしたといわれるソ連兵にも、やさしい兵士を何人も見た。 中国本土で残虐な行為をくりかえしたといわれる日本兵の中にも、それに参加できなかった兵士がいたにちがいない。
「あの民族は残虐である」といったレッテル貼りもまちがっている。 自分の狭い経験で「民族」や「人種」をひとくくりにするのは公正ではない。 国家政策や社会体制が非難されるものであっても、そこで生きている個人とは区別する必要がある。 国家や社会は時代がかわれば、どのようにも変化するものだ。 「民族的DNA」などは存在しない。
一つの民族の中にも多種多様な種類の人間がいるという想像力の欠如が、無用・不毛の流血を生むのである。
(中略)
八路軍の集会
「八路軍」というのは中国共産党の一軍隊である。 1921年に創立された中国共産党は、農民の支持を受けて勢力を伸ばしていた。 1935年からしだいに、毛沢東が指導権を握った共産党の「紅軍(ホンジュン)」は、蒋介石がひきいる国民政府軍と各地ではげしい抗争をつづけたが、日本が満州国を成立させると「最大の敵は日本である。 同じ民族で戦っているときではない」と抗日民族統一戦線を結成して戦闘を中止した。 紅軍は国民政府軍の下に編入され、中国中部の軍隊が「新四軍(シンスージュン)」、中国北部の軍隊が「八路軍」とよばれた。
1945年8月、日本軍という共通の敵が消滅すると、共産党軍と国民党軍はふたたび対立しはじめた。 ハルビン市は、軍政はソ連で市政は中国国民党という奇妙な形で統治されていたが、周辺は八路軍がとりかこんでいて、ひたひたと包囲網をせばめていた。
(中略)
ぼくたち日本人にとっては「共産軍」のイメージはきわめて悪いものだった。 もともと共産主義者「アカ」は危険で怖いものとと、小さいときから頭にたたきこまれてきた。 それにくわえて戦後、進駐してきたソ連軍の蛮行をを眼のあたりにして「共産軍の恐ろしさ」を肌で感じている。 しかも、八路軍「共産匪」はもっとも残酷な匪賊といわれていて、関東軍が永年にわたって苦しめられてきたのを知っている。 その匪賊がこんどはわれわれの支配者になるのだ。 どんな鬼の兵士たちが入ってくるのだろう。 日本人も中国人も市民は息をひそめて、新しい支配者が到着するのを待ちかまえていた。
5月のはじめころ、ソ連兵の姿が見えなくなったハルビンの街に八路軍が入ってきた。 しかし、それは拍子ぬけするほど静かな入城だった。 ソ連軍のような戦車・装甲車をつらねた大パレードも、道いっぱいに広がる兵士の行進もなかった。
はじめて目にする中国共産党の軍隊、八路軍の大部隊はひっそりと入ってきた。なんと一人ずつ街角にあらわれたのである。 丸い戦闘帽に、だぶだぶの木綿服。階級章はどこにもついていない。 布製の靴は泥だらけだ。 ひどくみすぼらしい服装の軍隊だった。 武器も貧弱である。 銃をかついだ兵士、槍をかついでいる兵士、武器を持たず傘を背負っている兵士、なかには腰にコップを下げただけの兵士もいる。 銃は不ぞろいで見慣れない型のものもあれば日本軍の三八式銃もある。 兵士たちは威嚇するふうでもなく、気負った顔つきでもなく、ゆっくりと道の真ん中を歩いてくる。 何メートルか後に次の一人が歩いてくる。 顔は日に灼けているが、歴戦の兵士というよりは素朴な農民といった印象の男たちである。 少年のような幼い兵士もいる。 いつ終わるともしれない、一人ずつ縦に並んだ行進はえんえんとつづいた。 それが「恐怖の八路軍」入城の日だった。
(中略)
ひっそりと侵攻してきた八路軍は、だが、しっかりと街を支配した。 要所要所に八路軍の兵士が立って、鋭い眼で周囲を監視している。 八路軍の兵士は市民に暴力をふるったり、女性をはずかしめたり、家屋に侵入して物品を強要することはなかった。
「道裡(タオリ)で日本女性に暴行した二人の八路軍兵士が軍法会議にかけられて銃殺された」という告示が市内に貼られた。 この告示が市民に大きな安堵感をあたえたのはまちがいない。
糸一本とるな
当時、八路軍の東北地区の師団長は林彪(りんぴょう)。のちに毛沢東の後継者に指名されながらも権力闘争に敗れ、飛行機で逃亡中に墜落死した悲劇の将軍である。 このときまだ38歳、道裡の白系ロシア人の高級アパートに、夫人と子ども、それに日本人のお手伝いさんと住んでいた。 きりっとした容貌の彼の写真が、中国人の写真館のウィンドーに飾られていた。
ある日、数人の「人民解放軍」という腕章をつけた鉢路軍兵士がわが家を訪れた。 ピストルを腰に下げた幹部らしい兵士が、われわれは近所の宿舎にいる八路軍だと自己紹介して「机と椅子を貸してほしい」とていねいな物腰で言う。 廊下に出していた使っていない机と椅子を差し出した。 おどろいたことに、彼らは「10日間、机一個、椅子三個を借ります」という借用書を書いて、おいていった。じっさい、借用書の期限には二人の兵士が「謝謝(シェシェ)ありがとう」と返却にきた。 ソ連軍の問答無用の略奪「ダワイ」に慣れていたぼくたちには、信じがたいできごとだった。
167-172ページ
『中学生の満州敗戦日記』
著者: 今井和也
2008年3月19日 第1刷発行
発行所:株式会社 岩波書店
デンマンさん。。。あんさんは長々と引用して何が言いたいねん?
石原慎太郎さんが占領後のハルビンで無法なソ連兵を相手に同じ事をしたらアイスキャンデーで頬を殴られるどころか連行されて強制労働キャンプに送られ、さらにシベリアへ連れてゆかれて、石原さんの反抗的な態度から、ソ連兵のイジメにあって死んでいたと思うねん。
それは、あんさんの個人的な意見やんか!
■『亡国の徒』
(2011年1月16日)
そうやァ。。。しかしなァ、もし上の記事を読んで、満州に進駐してきたソ連兵の残虐ぶりを知っていたら、10人のうちの8人までが、わての意見に同感すると思うでぇ。
そやけどソ連兵が暴虐やと決め付けるのは正しくないと上の本の著者・今井さんは書いてますがなァ。
確かにそうやァ。。。中には優しいソ連兵も居たのや。 でもなァ、確率統計論を持ち出せば、もし、アイスキャンデーを食べながら道の真ん中を我が物顔にソ連兵が歩いてくるとしたら、その人物に石原さんが殺されたとしても、ちっとも不思議ではないねん。 それほど残虐な事をソ連兵は当時の日本人にしたのやがな。 だからと言って、「ソ連兵がみな残虐である」と決め付けるのが間違っているということは今井さんが書いている通りや。
。。。で、その事を言いたいために長々と引用しやはったん?
いや。。。その事だけではあらへん。 今井さんは次のようにも書いてるねん。
国家や社会は時代がかわれば、
どのようにも変化するものだ。
この上の言葉がそれ程あんさんにとって印象的やったん?
そうなのやァ。。。これこそ、わての書きたかった事なのやァ。
そやけど、それ程珍しいことでも、啓蒙的な言葉でもあらへん。 むしろ、常識的な言葉とちゃうん?
そうかもしれへん。。。でもなァ、現在の中国と、今井さんが見たという中国、つまり、「八路軍の国」を考えてみる時に上の言葉は極めて考え深いねん。
どのように。。。?
わては次のような面白いエピソードを読んだのやがなァ。
1944年の秋、第二次大戦中のことだ。 宋美齢は47歳だった。 そのとき彼女は夫(蒋介石)とともに重慶市黄山(こうざん)の主席官邸にいた。
彼女の夫がアメリカ人の記者たちに延安(えんあん)行きを初めて許したあとのことだった。 重慶に戻ってきたアメリカ人たちは、延安の共産党幹部の清廉さを褒め、共産軍兵士の規律のよさを称賛し、重慶政府支配地域との違いの大きさを熱っぽく語った。
宋美齢と蒋介石
宋美齢はそうした話をまるっきり信じなかった。 それでも直接に話を聞いてみようと思いたち、彼女はアメリカ人の記者たちをお茶に招いた。 かれらは中共党の指導者の誠実さ、理想主義、清潔さを褒めちぎった。 よもやという話ばかりだったから、彼女は大きなショックを受けた。 そんなことは信じられないと言い捨てて、気を落ち着けようとベランダにでた。 部屋に戻ってくるなり、彼女は言った。
「もし、あなたたちが共産党について聞かせてくれた話しが本当だとするなら、わたしには、それは彼らが真の権力をまだいちども経験していないからだとしか言いようがない」
72ページ 『「反日」で生きのびる中国』
著者: 鳥居 民
2004年2月27日 第1刷発行
発行所: 株式会社 草思社
つまり、八路軍の国(後の中華人民共和国)の幹部である毛沢東や林彪は、その当時「真の権力」を知らなかったと、蒋介石の奥さんが言わはったん?
そういうことやねん。
。。。で、「真の権力」とは、どういうことやねん?
「真の権力」とは、もちろん、建前で、本音は権力者が持つ事ができる贅沢を楽しみ自分の懐を膨らませる腐った権力と言うことやァ。 蒋介石の奥さんは、そういう贅沢を充分に楽しんできて自分の懐も充分に膨らませてきた。 「真の権力」の裏も表も知り尽くしていたのやァ。
要するに現在の中国は「八路軍の国」とは変わってしもうたと、あんさんは言わはるの?
そうやァ。。。だから、次の言葉は重要やねん。
国家や社会は時代がかわれば、
どのようにも変化するものだ。
。。。で、いつから変わったん?
リュウ小平(テン・シャオピン)が「改革・開放」路線を推し進めた時から中国は完全に変わり始めたのや。 元に戻れん程度に変わり始めたのやでぇ~。
小平は胡耀邦を前面に押し立てるだけではすまなかった。 はどのように対応したのか。
河南省の南街村の党書記は、パソコン完備の見事な小学校や集中管理の冷暖房設備のあるアパートと引き換えに、村の人びとに毛沢東思想を遵守させるのに成功した。 小平は逆のことをした。
市場経済に移行するなかで、そして経済発展がつづくなかで、工場、オフィスビル、商業施設の建設を望み、土地を欲しがる私企業や外国企業を相手にする地方党書記は、それこそ誘惑との争いの日々を過ごすことになった。 すべてを没収し、公有地としてしまった土地は、事実上、党書記の占有地と変わらないことになってしまっていたからである。
国営企業を株式化することになれば、かつては党書記の権力の後ろ盾となっていた資産が金の卵を産む鶏となった。
は、かれらとその親族が十分に欲望を満たし、私服を肥やすことに目をつぶり、それと引き換えに、マルクス・レーニン主義を捨てさせたのである。
74-75ページ 『「反日」で生きのびる中国』
著者: 鳥居 民
2004年2月27日 第1刷発行
発行所: 株式会社 草思社
つまり、小平(テン・シャオピン)さんは共産党の中央の幹部や地方の党幹部にまで「真の権力」を与えて、党の上層部の人々を信服させてしまったと、あんさんは言わはるの?
そうやァ。
そやけど、その下のミーちゃんハーちゃんや学生や、農民たちは不満がたまりますやろう?
そやから江沢民(ジャン・ツオーミン)を使って“ガス抜き”させたのやァ。
“ガス抜き”。。。?
そうやァ。 つまり、中国民衆の不満を共産党幹部や共産党政府に向けるのではなく、その矛先を海外に向けさせたのやがなァ。
不満を海外に。。。?
そうやァ。。。何とかして民衆の不満を海外に向けさせない限り、ソ連や東欧のように共産党中国は崩れ去って歴史の1ページになってしまう。
それで、その矛先が日本に向けられたん?
そうやァ。。。今井さんは「民族的DNA」など存在しないと書いているのやけれど、中国の歴史を見ていると「中国的伝統」というものはあるねん。
その「中国的伝統」って何やの?
つまり、前の王朝で「真の権力(腐った権力)」が王朝幹部の間に蔓延すると民衆が不満を持つねん。 「ガス抜き」せんと、その民主の中からガッツのある者が腐敗した王朝を倒して新しい王朝を立ち上げるねん。 天命を受けて腐敗した王朝を倒す。。。それが中国的革命やないかいなァ。 初めは、誰もが新王朝に「八路軍の国」を見るねん。 前王朝から比べると素晴らしいねん。 そやけど、やがて新王朝にも王朝幹部の間に「真の権力(腐った権力)」が蔓延する。 中国の歴史はこの繰り返しやねん。
要するに、最新王朝・中華人民共和国も同じように「真の権力(腐った権力)」が蔓延し始めたと、あんさんは言わはるの?
そうやァ。。。最早、「八路軍の国」に戻ることは不可能や! そやから江沢民さんは民衆の不満を日本へ向けさせたのや。
そやけど、なぜ日本やのォ~?
中国はかつて日本帝国にさんざ痛めつけられた。 その記憶は歴史的にまだ新しいねん。 そやけど、戦後生まれの世代は日本帝国の暴虐を知らへん。 そやから江沢民さんが指導的立場にいた13年間に「愛国主義教育実施綱要」を公布し、反日キャンペーンを全国的に繰り広げたのやがな。
具体的に、どういうキャンペーンをやりはったん?
ソ連や東欧の共産主義システムは崩壊してしもうたから今更、階級闘争を叫んだところで意味がないねん。 そこで、中国共産党こそが民衆を苦しめた日本帝国から中国を救ったのだと教え込んだのやがなァ。 江沢民さんは、日本と喧嘩をして見せてこそ日本憎悪を教え込んだ中国民衆の喝采を受けるやろうと考えていた。 江沢民さんがそう思っていた頃、「飛んで火に入る夏の虫」が居たのやァ。
その「飛んで火に入る夏」の虫って誰やの?
石原さんとその仲間やがなァ。
日本の固有の領土である尖閣諸島を、シナが虎視眈々と狙っている。 国民の不満をそらすために、香港の住民を送り出し不法上陸させるナショナリズムのパフォーマンスまでさせている。 北朝鮮の潜水艦が韓国に侵入するという事件があったが、同じことがすでに日本に起こっているのだ。 これだけ国家の存立が危機に瀕していながら、そのことが選挙戦のさなかに争点として浮上することは一度としてなかった。
36ページ 『亡国の徒に問う』
著者: 石原慎太郎
2001年3月15日 第8刷発行
発行所:株式会社 文藝春秋
「国民の不満をそらすために」と石原さんは江沢民の反日キャンペーンに気づいていたようなのやァ。 それにもかかわらず「飛んで火にいる夏の虫」になってしもうた。
当時の(石原さんが所属していた)青嵐会の国会議員を含めた有志が無人島に赴いた。 彼等は交替で魚釣島に泊まりこみ、第三次隊は手製の灯台まで作り上げるにいたった。
78ページ 『亡国の徒に問う』
著者: 石原慎太郎
2001年3月15日 第8刷発行
発行所:株式会社 文藝春秋
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