佐伯今毛人は臆病者か?(PART 1)
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デンマンさん。。。どうして急に佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を取り上げたのでござ~♪~ますか?
卑弥子さんは名前を聞いたことがないのですか?
「佐伯」という苗字は聞いたことがありますわ。 でも、今毛人という名前は聞いたことがありませんわ。
卑弥子さんは、ど忘れしているのですよ。 僕と次の記事の中で、この人物について語り合ったことがあるのですよ。
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■『唐から来た14歳の少女』
(2012年6月28日)
あらっ。。。上の記事の中に佐伯今毛人さんが出てきたのでござ~♪~ますか?
出てきたのですよ。 この上の記事はアメブロの僕のブログでは結構人気があるのですよ。
マジで。。。?
次のリストを見てください。
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これは6月4日から7月3日までの30日間の「人気記事リスト」なのですよ。 『唐から来た14歳の少女』は6月28日に投稿された。 その5日後、7月3日には他の記事を押しのけて25位に登りつめた。
上の女の子の写真が可愛いからですか?
あのねぇ~、記事を選ぶ時には写真は見えませんからね。 写真の女の子が可愛いから記事が読まれたわけではないのですよ。
その後の人気はどうなのですか?
投稿してから11日後、7月9日には 17位に登りつめているのですよ。
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■『唐の乙女とロシアの美脚男』
(2012年7月5日)
上のリストの9位に躍り出た『唐の乙女とロシアの美脚男』の「唐の乙女」も、実は、この「唐から来た14歳の少女」のことですよ。
あらっ。。。そうだったのでござ~♪~ますか? 存じ上げませんでしたわ。。。んで、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)さんは記事の中ではどのように登場したのですか?
卑弥呼さんは、ど忘れしているようなのでここに書き出しますよ。 読んでみてください。
僕がバンクーバーで死んだってぇ、カナダの首相は僕に「ブリティッシュ・コロンビア州・名誉州知事」なんて称号を決して贈ってくれないですよ。 要するに藤原清河さんは玄宗皇帝に認められるような業績を唐の国に残したのですよ。
藤原清河さんが亡くなる前に大和朝廷でも、清河さんが唐に住んでいるにもかかわらず常陸守に任じ、従三位に昇叙していますわね。 大和朝廷でも、それだけ清河さんを認められていたのでしょうか?
認めていたのですよ。 清河さんは日本へ帰ってきたかったけれど、阿倍仲麻呂と一緒に乗った第1船が遭難して日本へ帰ってこれなかった。 それで、半ば諦めるように「河清」という中国名を名乗って唐の政府に仕えるようになったのです。
日本へ帰るのを諦めたのでしょうか?
諦めはしなかっただろうけれど、遣唐使船はほぼ20年に一度ですよ。 つまり、帰れるとしても20年後ですよ。 だから、唐政府の勧めるままに「秘書監」という職について中国人女性と結婚したのです。
それで生まれたのが、やがて日本へやって来ることになる「唐から来た14歳の少女」でござ~♪~ますか?
その通りですよ。
。。。んで、その少女の名は?
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「喜娘(きじょう)」という名です。 だけど、いつ生まれたのか?いつ亡くなったのか?も記録に残ってない謎の人物です。
日本にやって来たのは確かな事なのでござ~♪~ますか?
それは確かな事なんですよ。 なぜなら797年に編纂された勅撰史書『続日本紀』(しょくにほんぎ)にちゃんと書かれている。 その記録によると、唐の都で藤原清河の娘として生まれた推定14歳の少女が肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)に流れ着いた。 奈良時代末の788年11月13日のことだった、と書いてある。
それにしても14歳の少女の身でよく日本へやって来ましたわね。
確かに、遣唐使船に乗るということは生きるか死ぬかという危険が付きまとっていた。 生きて唐に着くか? 生きて日本へ帰れるか? その成功確率は50%ほどだった。 まさに、100円硬貨を空に投げて手に受け取り、裏が出るか?表が出るか?という確率だったのですよ。 当時でも、勇気のない男は尻込みして名誉の遣唐使にさえ就くのを辞退した。
そのように尻込みして遣唐使を辞退した人がマジで居るのでござ~♪~ますか?
居るのですよ。 宝亀6年(775年)の遣唐大使に任命されたのが佐伯今毛人(さえきのいまえみし)だった。 宝亀8年(777年)4月、節刀を賜り再度(前年は大宰府から引き返している)出発したが羅城門までくると病になり渡航を断念し摂津に留まることとなった。 でも、世間では仮病を使って遣唐使になることを渋ったという噂が広まった。 遣唐使になるには、それほど勇気が必要だったということですよ。
それで、その時の遣唐使船はどうなったのでござ~♪~ますか?
仕方がないので、この時は副使の小野石根(おののいわね)が佐伯今毛人に代わって大使の任務を代行した。 でも、小野石根が乗った遣唐使船の第1船は帰路遭難して亡くなってしまったのですよ。
やっぱり、遣唐使船に乗るのは命がけなのですわね。
そうなのです。 でもねぇ、この時の日本への戻り遣唐使船に乗ったのが「唐から来た14歳の少女」だったのですよ。
あらっ。。。勇気があったのですわね。 でも、遭難してしまったのでしょう!?
そうですよ。 11月5日に日本に向けて出航したのだけれど、四日目に海上で大しけに遭って船が大破。 小野石根を含め多くの人が亡くなったけれど、喜娘は舳(へさき)にしがみついて6日間漂流し、11月13日に長島に流れ着いて村民に助けられたのですよ。
あらっ。。。ラッキーだったのですわね。 大使代行の小野石根が亡くなってしまったというのに。。。
運命でしょうね。 喜娘は752年の遣唐大使の藤原清河の娘。 清河自身は754年に日本へ戻る第1船に乗ったけれど、遭難して故郷に帰れなかった。 喜娘が日本へ向かった時には、父親の清河はすでに亡くなっていた。 でも、彼の日本へ帰りたいという執着心が死後も娘に乗り移って、喜娘の奇跡的な日本到着になったのだと思いますよ。 父と娘の執念の日本帰りだったのですよ。
『唐から来た14歳の少女』より
(2012年6月28日)
どうですか、卑弥子さん。。。思い出しましたか?
思い出しましたわ。 「唐から来た14歳の少女」の印象が余りにも強かったので佐伯今毛人さんの名前はオツムの隅の方に追いやられて忘れてしまったのですわ。
うん、うん、うん。。。分かりますよ。 そう言う事は往々にしてあるものです。
。。。んで、「佐伯今毛人は臆病者か?」というタイトルにしたのは佐伯今毛人は、実は、勇敢な人物だったとデンマンさんは言いたいためでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、記事を書いてから、僕は思い当たることがあったのですよ。
その思い当たることってぇ。。。?
次のような疑問が頭をもたげたのですよ。
遣唐使に命じられた佐伯今毛人は
仮病を使って役を免れたのか?
しかし、彼は「藤原良継の変」に参加し
横暴を極めた藤原仲麻呂を倒そうとした。
彼の真実の姿は。。。?
つまり、佐伯今毛人さんが臆病者だったら横暴を極めた藤原仲麻呂を倒そうという計画に参加しなかったということですか?
そうなのですよ。
でも、計画に参加するぐらいで、それ程の勇気が必要なのでしょうか?
あのねぇ~、「藤原良継の変」の前に、「橘奈良麻呂の乱」という大きな事件があったのですよ。
橘奈良麻呂の乱
橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。
陰謀の計画と発覚
藤原仲麻呂の専横に不満を持ったのが、諸兄の子の奈良麻呂である。
奈良麻呂は不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。
755年(天平勝宝7年)6月28日(7月22日)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。
7月2日(7月26日)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。
しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。
仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。
756年7月3日(7月27日)、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人を訊問。
東人は無実を主張した。
その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。
ところが同日事態は急変する。
右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。
東人らは一転して謀反を自白した。
その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。
過酷な処分
東人の供述により、7月4日(7月28日)に奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。
訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した。
奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と打ち明けた。
この後すぐに獄に移され、永手、百済王敬福、船王らの監督下、杖で全身を何度も打つ拷問が行われた。
道祖王(麻度比と改名)、黄文王(久奈多夫礼と改名)、大伴古麻呂、東人、犢養、角足(乃呂志と改名)は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。
また首謀者である奈良麻呂の名が『続日本紀』に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる。
安宿王は佐渡島、大伴古慈悲(藤原不比等の娘婿)は土佐国に配流され(両者ともその後赦免)、塩焼王は直接関与した証拠がなかったために臣籍降下(「氷上眞人塩焼」と改名)することで不問とされた。
反乱計画に直接関与していなかったものの佐伯全成は捕縛され奈良麻呂から謀反をもちかけられた顛末を自白した上で自害した。
他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。
また、右大臣・藤原豊成が息子乙縄とともに事件に関係したとして大宰員外帥に左遷された。
中納言・藤原永手も、その後仲麻呂派で固められた朝廷内で政治的に孤立し逼塞を余儀なくされたと言う説がある。
豊成・永手らは反仲麻呂派であると同時に奈良麻呂らの標的とされた孝謙天皇の側近であった人々であり、天皇廃立を企てた奈良麻呂らに対して過酷な尋問や拷問を行った人々であった。
その後
仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。
758年(天平宝字2年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。
そして、760年(天平宝字4年)には太師(太政大臣)にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。
だが、その没落も早く、孝謙天皇の寵愛は弓削道鏡に移り、764年(天平宝字8年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ(藤原仲麻呂の乱)。
出典: 「橘奈良麻呂の乱」
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