浅間山噴火とフランス革命(PART 1)
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ケイトー。。。 今日はまた、すごいタイトルを書いたものねぇ~。。。 浅間山噴火とフランス革命が関係あると言うのォ~?
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いけませんか?
だってぇ、浅間山は日本にあるし。。。、浅間山が噴火したところで、パリに住んでいる人たちは痛くも痒くもないと思うわァ。
たぶん、シルヴィーも そう言うと思いましたよ。
この記事を読み始めた人だって、きっとそう思うわよう。。。
そうでしょうねぇ~。。。 分かりますよ。。。 分かりますよ。。。 とにかく、浅間山とパリは離れすぎているからねぇ~。。。 でもねぇ~、シルヴィーはインドネシアで生まれたから、クラカタウの火山爆発のことは知っているでしょう!?
もちろんよ。。。 1883年に大爆発を起こしたのだわ。。。 私の ひいおばあちゃんがジャカルタにいて、その時の爆発を見ていて、その話を私は小さい頃に何度も聞かされたものよ。
クラカタウ (Krakatoa)
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クラカタウは、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の中間、スンダ海峡にある火山島の総称であり、ランプン州に属する。
全体がウジュン・クロン国立公園の一部である。
1883年の大噴火
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旧クラカタウ島の三分の二が1883年の大噴火で消失した
1883年の5月10日、微々たる揺れ(空気の振動や風の響きがかろうじて感じる程度)が始まった。
5月15日、振動は前回よりも強く長く続き、広範囲で感じられた。
5月20日、ラカタ島で水蒸気爆発を伴う噴火が始まり、同時に発生した地震は数年にわたって観測された。
8月11日、同島の3つの火山が噴火した。
そして8月26日日曜日の午後1時6分に地震の雷鳴が聞こえた。
次の8月27日月曜日バタヴィア時間午前10時02分(現地時間9時58分)に大噴火が起った。
噴火で発生した火砕流は海上40kmを越え、スマトラ島ランプン湾東部の Ketimbang(インドネシア語)で人間を殺傷した。
また、噴火により発生した津波が周辺の島を洗い流し、航海中の船を激しく揺さ振った。
死者は36,417人に及び、2004年にスマトラ島沖地震が起こるまではインド洋における最大の津波災害であった。
地質学史上、第5番目の爆発規模と考えられている。
この噴火は海底ケーブルによって全世界に報道された、史上初の大規模災害である。
噴火の影響
噴煙の高さは38,000m(48,800m説有り)。
爆発音は4,776km先(インド洋のロドリゲス島)まで届き、人間が遠く離れた場所で発生した音を直接耳で聞いた最長距離記録となる。
衝撃波は15日かけて地球を7周した。
5,863km離れた東京で1.45hPaの気圧上昇が記録されている。
津波は、日本では鹿児島市の甲突川にも押し寄せ、17,000km離れたフランスのビスケー湾の検潮儀にも記録された。
成層圏にまで達した噴煙の影響で、北半球全体の平均気温が0.5~0.8℃降下し、その後数年にわたって異様な色の夕焼けが観測された。
イギリスの画家 William Ashcroft はこの異様な夕焼けを記録に残した。
出典: 「クラカタウ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
津波は、「17,000km離れたフランスのビスケー湾の検潮儀にも記録された」と書いてあるように、このときの火山爆発はフランスにも影響を残したのですよ。
それは分かるわよう。。。 でも、浅間山の噴火がフランス革命と関係あるとは思えないわ。
あのねぇ~、とにかく、僕はバンクーバー市立図書館で DVD を借りて「クラカタウ火山大爆発」のドキュメンタリーを見たのですよ。
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■『実際のカタログページ』
ネットで探してみたら、そのドキュメンタリーがYouTube のクリップにあったから、シルヴィーのために貼り付けますよ。。。 じっくりと観てください。
あとで上のビデオを ゆっくりと観てみるわよ。。。で、浅間山の噴火も「クラカタウ火山大爆発」ぐらいにすごかったとケイトーは言うのォ~?
いや。。。 僕が言い出したわけじゃなくてぇ、実際にすごかったらしい。。。 たまたま夕べ本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。
浅間焼け
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いま一つの巨大噴火災害に天明3年(1783)の浅間山噴火がある。
「浅間焼け」として知られる巨大災害である。
この時期は、10代将軍徳川家治(いえはる)の治世で、田沼意次の全盛時代であった。
しかし、翌天明4年に意次(おきつぐ)の子、若年寄田沼意知(おきとも)が佐野政言(まさこと)に江戸城中で刺殺されたころから、意次の力は急速に衰え、同6年に失脚。
ついで老中首座となった松平定信の寛政の改革が始まる。
浅間山の噴火活動は、天明3年4月に始まり、6月28日から一段と激しさを増し、7月6日から8日にかけて最大の爆発が起こった。
7月6日の夜から7日にかけて吾妻(あがつま)火砕流が山体の北東方向に流出、次いで8日、幅約54メートル、高さ1500~2000メートルにおよぶ火煙を噴き上げ、鎌原(かんばら)火砕流が時速100キロを超える速さで北側斜面を流下して15キロ離れた山麓の鎌原村(嬬恋[つまごい]村)を襲い、4ヵ村を埋めて吾妻川へ流れ込んで流れを堰き止めた。
鎌原火砕流に続いて鬼押出(おにおしだし)溶岩流が北へ流れ出し、現在見る観光名所「鬼押出」を形成した。
天明4年の無量院住職の手記『浅間大変覚書(あさまたいへんおぼえがき)』によれば、
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7日、鳴動が前日よりはるかに激しく、老若男女みな寝食を忘れて浅間山の方ばかり眺めていた。
山から熱湯が噴き出して、南目の林を見る間に燃え尽くし、獣の類もみな焼死した。
原も一面の火の海となり目もあてられぬ有様であった。
天に吹き上げること、100里もあろうかという。
また石が降り落ちること雨のようであった。
8日昼四ツ半時時分(じぶん)は鳴動も少々納まったが、すぐに熱湯が一度に100丈余りも高く噴き出し、原一面に押し出して谷や川を押し下り、神社仏閣民家草木すべてを押し流し、そのあとは真っ黒になり、川筋の村々75ヵ村、人馬残らず流出した。
この流れの速いこと、いっときに100里余りも押し流し、その晩方には銚子まで流れ出したという
とみえる。
また、『浅間大変記』は、
(火砕流が)押し出して上州(上野国・群馬)吾妻川を通って鎌原村をはじめとして大前より川付近の村々を押し流した。
最初の流れは黒く、家の囲いや森そのほか老木までみな押し流し、砂津波が煙を立てて、振動を伝えた。
次の泥火石は100丈余りも高く打ち上がり、闇夜に火石が光り、100万の雷が轟くように、火焔が空を貫くかと思われた。
暖波他は一面泥の海となり、老若男女が流死した
と述べている。
(中略)
なお、天明3年は噴火の影響による冷夏のせいもあって穀物不足に物価上昇が重なり、被災によって困窮した人たちの一部は一揆勢力となって中仙道を西に向かい、米穀商を打ちこわす「天明騒動」となった。
天明の浅間山大噴火は、二次災害も含めての直接被災地だけでなく、放出された膨大な量の火山灰が成層圏に数年間滞留して日光の照射を妨げ、全国的に冷害を引き起こして天明の大飢饉を悲惨なものにした一因ともいわれる。
また、偏西風に乗った火山灰は北半球全体の気候にも大きな影響を与え、同年に噴火したアイスランドのラーホ火山とともに、西ヨーロッパの冷温を引き起こして連年の凶作となり、それが政治的動揺と社会不安を増幅させ、フランス革命の遠因にもなったという考えもある。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
116-118、121ページ
『災害復興の日本史』
著者: 安田政彦
2013(平成25)年2月1日 第1刷発行
発行所: 吉川弘文館
なるほどォ~。。。 確かに、天明3年(1783)の浅間山の噴火もすごかったのねぇ~。。。 でも、この時の噴火がフランス革命と関係しているとは思えないわ。
あのねぇ~、もちろん、浅間山の噴火だけじゃない。。。 上の説明にも書いてあるとおり、「同年に噴火したアイスランドのラーホ火山とともに、西ヨーロッパの冷温を引き起こして連年の凶作となり、それが政治的動揺と社会不安を増幅させ」たのですよ。
でも、それはこじつけのように聞こえるわ。
だけどねぇ~、実際に、浅間山の噴火で「噴火の影響による冷夏のせいもあって穀物不足に物価上昇が重なり、被災によって困窮した人たちの一部は一揆勢力となって中仙道を西に向かい、米穀商を打ちこわす「天明騒動」となった」のですよ。。。 だから、アイスランドのラーホ火山爆発と浅間山の噴火がフランス革命の一因になったとしても決して不思議じゃないのですよ。
そうかしら。。。?
たとえばねぇ~、現在の日本は決して住みよい社会じゃないのですよ。
あらっ。。。 そうなのォ~?
僕だけが、そう思っているわけじゃないのですよ。。。 他にも、そう思っている人は多い!
狂い始めた日本?
かつてなかったようなさまざまな陰惨な事件やテレビ番組の低俗化をまのあたりにしながら、日本がどこか狂い始めているのではないかと思っている人たちは少なくないと思う。
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そう、明らかに日本はあちこちのねじが弛み、歯車が逆転し出し、狂い始めたのではないか。
教育の現場にいて、それを中国、韓国、インド等と比べるとますますその感を深くする。
スポーツ選手や芸能人にあこがれ、地味な努力を厭うようになった多くの若者たち。
中国やインドで目を輝かせて勉学にいそしんでいる若者たちと比べるとそのあまりにも大きな差に愕然とせざるを得ない。
しかし、子どもたちや若者は大人たちの鏡である。
近頃の若者はとなげくほど無責任なことはない。
一体、どこで歯車が狂ってきたのか。
原因はどこに潜んでいるのかを幅広い視点から探ってみよう (略)。
世のなかは規制の緩和、民営化さえすれば「改革」だとレッテルを張り、ここ十数年、「改革」という名のシステム破壊、権威の攻撃を続けてきた。
しかし、新しいシステムの設計図も、新たな社会の担い手のイメージもなく行ってきた破壊は、いま日本社会を惨憺たる状況に陥れ始めてきている。
家族は崩れ始め、教育は荒廃し、企業はパブリック・マインドを失い、地方と一次産業は衰退の一途をたどっている。
確かに、マクロの景気は悪くないし、国民の多くはまだそこそこの繁栄をエンジョイしている。
しかし、崩壊の予兆はあらゆるところに現出し始めた。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
2-3ページ 『幼児化する日本社会』
著者: 榊原英資 2007年7月19日発行
東洋経済新報社
だから、どうだと言うのォ~?
でもねぇ~、たとえ日本人の多くが「日本がどこか狂い始めている!」と不満を感じていても、現在の悪い政治を覆(くつがえ)して より良い日本にしようというような革命は起きないのですよ。
どうして。。。?
それはねぇ~、日本人の多くが次のように感じてもいるからです。
(すぐ下のページへ続く)