由梨さん@コルシカ(PART 1)
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デンマンさん。。。 コルシカ島で由梨さんをナンパしたのですかァ~?
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どうして僕がコルシカ島で由梨さんをナンパしなければならないのですかァ~。。。
だってぇ~、上の写真とYouTubeのクリップを見たら、そうとしか考えられないじゃありませんかァ!
僕はコルシカ島まで行って、そういう下品な行動にはでられないのですよ。。。
分かりましたわァ。。。 それで、どういうわけで誤解を招くようなタイトルをつけたのですかァ~?
ちょっと次のリストを見てください。。。
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■『拡大する』
■『チョコとトリエステとロマンポルノ』
これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の日本時間で5月26日の午後9時11分から27日の午前2時50分までの約5時間半の「生ログ」の一部ですよ。。。 赤枠で囲んだ箇所を見て欲しい。。。
あらっ。。。 5月26日の午後9時26分にフランスのGOOGLEで検索して『チョコとトリエステとロマンポルノ』を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。 この人がコルシカ島に滞在している由梨さんなのですか?
そうです。。。
どのようにして、上の記事を読んだネット市民が由梨さんだと突き止めたのですか?
IPアドレスを調べたのですよ。。。
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鳥飼 由梨(とりがい ゆり)さんは どうしてコルシカ島に滞在しているのですか?
あのねぇ~、由梨さんはパリ大学でフランス語を勉強したのですよ。。。 でもねぇ~、夏休みにコルシカ島を訪れた時に、フランス語と違った言葉が話されていることに気づいたのです。。。
コルシカ島はフランス領なのだから、フランス語が話されているのでしょう?
そうです。。。 一応公用語はフランス語なのですよ。。。 でもねぇ~、コルシカ島は 初めからフランス領ではなかった。。。 コルシカ島には独自の文化があって、もともとコルシカ語を島の人たちは話していたのですよ。。。
アジャクシオ
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フランス語: Ajaccio
コルシカ語: Aiacciu [アヤッチュ]
イタリア語: Ajaccio [アヤッチョ]
アジャクシオは、 フランスのコルス地方公共団体、コルシカ島(コルス島)のコミューン。
コルス地方公共団体の首府であり、コルス=デュ=シュド県の県庁所在地である。
第二次世界大戦中の1943年10月8日、フランス領内で最初にドイツから解放された街である。
地理
コルス南部、島西岸に位置する。
アジャクシオの町は、サンギネール諸島を含むパラタ岬とグラヴォナ川河口に挟まれた湾の北側にある。
多くの海水浴場や入り江が、特に頑丈な西側に沿って広がる。
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由来
いくつかの仮説があるが、伝説的なギリシャ神話の英雄アイアースによってまちが創建されたという説が強い。
現実的な仮説としては、トスカーナ語のagghiacciu(ヒツジ小屋)からアジャクシオ(アヤッチュ)となったというものがある。
他に、近年の東ローマ帝国文献によって支持されている、ギリシャ語の単語に起源を発するAgiationである。
agathèとは『幸運』や『良い係留地』を意味する。
南仏の町アグドと語源を同じくする。
古代
アジャクシオの名は、紀元2世紀のギリシャ人地理学者プトレマイオスの記述に残っていない。
近くのCinarcaにあるOurkinionの地名が記されているにもかかわらずである。
近年より多くの発掘調査がなされ、アジャクシオの都市としての規模を上方修正させる可能性が高い、古代半ばから中世初期にかけての、初期キリスト教時代の重要な遺跡が発見されている。
ローマ帝国時代の名はAdiaciumであった。
アジャクシオは教区が置かれるのにふさわしい状態にあったと、591年にローマ教皇グレゴリウス1世が言及している。
この時代のアジャクシオは、後にジェノヴァ人たちが選んだ場所よりもさらに北に位置していた。
ローマが衰退すると、最初ヴァンダル族が、次いでロンゴバルド族が島を征服した。
中世・ジェノヴァ支配
8世紀からまちは、コルスの他沿岸地域のほとんどから、急激に姿を消してしまった。
しかし我々は、城と大聖堂が1492年にすでにあったこと、大聖堂が1748年に解体されたことがわかっている。
1000年頃、ピサが島を征服した。
15世紀後半から、サン・ジョルジョ銀行の権威の下にあったジェノヴァ共和国が島南部の支配権を主張しようと、アジャクシオ(アヤッチュ)の再建を決めた。
1492年に工事が始まり、彼らは要塞の町を建設した。
発展したアジャクシオは地域の行政首府となった。
一方でバスティアは島全体の中心であった。
初期の植民地は排他的にジェノヴァ人のみを受け入れた。
ルニジャーナ地方(リグーリアのマグラ川流域)から100家族が入植し、1510年にはブオナパルテ家(ボナパルト家)の姿があった。
実質的にフランスが征服するまでの間、徐々にコルス人を受け入れていった。
アジャクシオ(アヤッチュ)住民はジェノヴァ共和国の法的市民であった。
フランスの時代
1553年から1559年にフランスに占領された後、カトー・カンブレジ条約でコルスはジェノヴァが取り戻した。
1768年、ヴェルサイユ条約が締結され、ジェノヴァがコルスをフランスに債務の担保として譲渡し、コルスはフランスに帰属することとなった。
1768年にボルゴにてコルス愛国者がフランス軍を破り、1769年にはパスカル・パオリが降伏してからのことであった。
1793年から1796年の間、イギリスの支援を受けたパオリがコルスを実質統治していた。
アジャクシオ(アヤッチュ)出身のナポレオン・ボナパルトが帝政を敷くと、彼はバスティアではなくアジャクシオを県唯一の首府とした。
19世紀から20世紀のアジャクシオの成長はバスティアに追いつき、島で最も人口の多い都市となった。
19世紀のアジャクシオは、モナコ、カンヌ、ニースのように、上流社会、特にイギリス人たちに人気のある冬のリゾート地となった。
聖公会の教会でさえ建設された。
フランス初の少年刑務所は、1855年にアジャクシオに設置された。
そこは8才から20才までの非行少年を矯正させるコロニーであった。
1866年に閉鎖されるまで、フランス全土から1200人の少年たちがここに集められた。
そのうちの160人が嘆かわしい衛生状態や、彼らが浄化作業を行うこととなっていた不健康地帯でマラリアの犠牲となって死んだ。
現代
1943年9月9日、アジャクシオはナチス支配を脱した。
同年10月8日、ド・ゴール将軍はアジャクシオに到着した。
占領時期、住民と行政に保護されたためユダヤ人のコルス移送は遂行されなかった。
これは、諸国民の中の正義の人の称号をコルスが名乗る資格があることを意味する。
フランス本土でこの称号を名乗ることができるのはオート=ロワール県のシャンボン=シュル=リュニョンだけである。
この件は2010年現在調査中である。
20世紀半ば以降のアジャクシオは重要な成長をとげ、人口が増加し、スプロール現象が起きた。
現在コルスの中心地、島第一の都市圏として、真の地域圏中心地になろうとしている。
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出典: 「アジャクシオ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、由梨さんはコルシカの文化に惹かれたのですか?
そうです。。。 それで、現在 由梨さんはコルシカ語を勉強しているのですよ。。。
あらっ。。。 フランス語を勉強して、更にコルシカ語まで勉強するのですか? 由梨さんは語学に関心があるのですわねぇ~。。。 それで、どういうわけで『チョコとトリエステとロマンポルノ』という、ちょっとエッチな記事を読んだのですかァ~?
あのねぇ~、『チョコとトリエステとロマンポルノ』というのはエッチな事が書いてある記事ではないのですよ。。。 実は、由梨さんは次のようにして検索したのです。。。
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■『拡大する』
■『チョコとトリエステとロマンポルノ』
■『現時点での検索結果』
あらっ。。。 「トリエステ キャドバリー ミルクチョコレート」と入れて検索したのですわねァ~。。。
そうです。。。 それで赤枠で囲んだ僕の記事を読んだのですよ。。。
でも。。。、でも。。。、どういうわけで 「トリエステ キャドバリー ミルクチョコレート」と入れて検索したのですか?
あのねぇ~、由梨さんはコルシカ島にやって来る前に 遠回りしてイタリアの北東部にあるトリエステに寄ったのですよ。。。 そこでキャドバリーのミルクチョコレートを買って食べたのです。。。 それで、なんとなく懐かしくなって、同じようにトリエステで キャドバリーのミルクチョコレートを買って食べた人が居るかな?。。。 そう思って検索してみたわけです。。。
それで、デンマンさんの記事に出くわしたのですわ?
そういうわけです。。。 由梨さんは次の部分を読んだわけです。。。
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[501] Re:小百合さんにも、こういう人間的に、ほほえましいところがあるのかと思って、僕もほほえんでいますよう!うしししし。。。
Name: さゆり E-MAIL
Date: 2009/01/23 09:57
(バンクーバー時間: 1月22日 木曜日 午後4時57分)
デンマンさんは、日本のインスタントラーメンが
一袋300グラムと思ってしまったようですけれど、
日本のインスタントラーメンも100gか90gですよ。
水を入れ野菜を入れて作ると どんぶり一杯 300g と言う訳です。
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明日から山小屋に行きます。
山小屋の冷蔵庫に トウガラシの付いた おせんべいがありました。
キャドバリーのデイリーミルクチョコも何枚も しまってあって
食べすぎないよう 気をつけて 食べます。
今 CHIPS とおせんべいは禁止なんですが・・・
『Re:僕もほほえんでいますよう!(2009年1月23日)』より
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キャドバリーデイリーミルクチョコレートが登場したのは1890年代の初頭だってぇ~。
明治20年代と言うことだよね。
チョコレートはもっと昔からあったのだろうけれど。。。
発売して間もなく、イギリスのチョコレート市場を押さえてしまったんだってよう。
まるでマイクロソフトのウィンドーズがパソコンのOS市場を押さえてしまったようだねぇ~。
うしししし。。。
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今では、キャドバリーデイリーミルクチョコレートはイギリス国内だけでなく、国際的なブランドとして30ヶ国以上で愛されているんだってぇ~
知らなかったなぁ~。
なぜ?
その理由はおいしさだけでなく、どの国でも同じイメージで親しまれているということ。
それは世界のどこでもキャドバリーチョコレートミルクのパッケージデザインが同じで、違うのは書かれてある言語だけだってぇ。
パッケージのチョコレートにミルクが注がれているデザインには、「チョコレート0.5ポンドにつきグラス1.5杯の生乳」というリードテキストが各国の言語で添えられているんだってよゥ。
たまげるねぇ~。。。
これはイギリスの広告史上に残る名作といわれているんだってぇ~。
知らなかったなあああぁ~
小百合さんはネットで調べたの?
いつ頃からキャドバリーデイリーミルクチョコのファンになったのォ~?
うん、うん、うん。。。
小百合さんは“舶来グルメ”にあこがれているのかな?
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僕は、子供の頃アーモンドの入ったチョコが好きでした。
その事をお袋が覚えていて、アーモンドチョコを買っておいたのでした。
小百合さんが三男の順一郎君を連れて僕の実家に初めてやって来た時に、
お袋が出したのが、そのアーモンドチョコでした。
順ちゃんは、アーモンドにアレルギーだとか言ってたねぇ~。。。?
ところで、デイリーミルクのシリーズは数を増やして、現在10種類あるんだってよゥ。
人気があるのは。。。?
フルーツ&ナッツだってぇ~
小百合さんは、もう食べたぁ~?
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トウガラシの付いた おせんべいは僕も好きですよう。
小百合さんと一緒に食べたいねぇ~。
でも、僕はトウガラシもいいけれど、海苔で巻いたせんべいの方がもっと好きだよう。
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トウガラシせんべいを海苔で巻いたものがあれば、これ以上結構なモノはないよね。
ぜひ、見つけておいてね。
たぶん、バンクーバーでは見つけることができないと思うよう。
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小百合さんはサワークリーム & オニオン チップが好きだったよね。
僕もこれを食べ始めると止まらなくなるんだよう!
でも、太った事はないよう。
小百合さんもあと10キロ太ってもいいけれど、
腰のクビレが無くなるほど食べちゃダメだよう!
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とにかく、風邪を引かないようにね。
山の家のコケはきれいな絨毯になった?
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じゃあね。
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日本時間: 2009年1月23日 午後4時50分
バンクーバー時間: 2009年1月22日(木曜日)午後11時50分
『Cadburyのチョコの勉強 (2009年1月23日)』より
確かに、キャドバリーのミルクチョコは出てきますけれど、トリエステの町は出てこないじゃありませんか!
上のメールの中には出てこないけれど、読んでゆくと やがて次のように出てくるのですよ。。。
カッフェ・トリネーゼ・ディ・ヴェルムット
(ヴェルムットのトリノふうカフェ)
とてつもなく愛国的で、とてつもなく長ったらしい屋号のコーヒー店の看板に、一日中歩きとおした自分をねぎらう気持ちと、イタリア統一運動の中心地だったトリノへの夢と郷愁をこめたその名に惹かれ、入り口のドアを押して入って、私は目を瞠(みは)った。
未知の都市とはいっても、たかがコーヒー店であれほどのとまどいを覚えたことはなかった。
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間口の狭さに比して、中はひろびろとしていた。
奥の一段高くなったところには、壁面のすべてが鏡で囲まれた広間があり、そこにいたる通路の部分には、帝政時代様式というのか、絹を張った座席の固い長椅子をかこむようにして、マホガニー色の光沢のある椅子と、白地にイチゴをあしらった模様のクロスを掛けた小さな丸テーブルがならんでいる。
ヴェネツィアのガラスではなくバッカラ系のクリスタルのシャンデリアの下を、いずれも髪の銀色がめだつ、白い手袋をはめた給仕たちが、テーブルのあいだを優雅な身のこなしで縫って歩く。
だが、なによりも私をうならせたのは店にあふれる顧客たちの容姿だった。
そのすべてが、裕福、と定義してよい階層の人たちで、そのうえ、おおむねが老人だった。
七十代と思えるカップル、あるいは何人かの老婦人が、ひとり、あるいはふたりの老紳士をかこんで、声をひそめて話し合っている。
男たちの着ている背広の仕立てにも、女たちが身につけている毛皮も宝石も、彼らがみずからの手をよごして得たのではない、ひそやかな美しさが光を放っていた。
若者たちがこぞって参加したイタリア統一にちなむ少々大仰な屋号には似合わない黄金とピンクの光景をまえにして、私は、自分が幾時代かまえのウィーンにいるのではないかと錯覚しそうになりながら、父がこれを見たら、どんなによろこぶだろうと思った。
老人たちの多くは、じじつ、父が生きていたらそんな年頃だろうと思われる人たちだった。
トリエステに行ってみたいと、父が晩年よく口にしたのは、彼が若いころ、ウィーンからヴェネツィアに向けてオリエント急行で通過したこの港町で、かたちが美しいから、と愛していたロイド・トリエスティーノの大西洋航路の大型船を、自分の目で見たいからだった。
ここにいる老人たちの財産も、彼らの親、あるいは祖父の時代に、オーストリア宮廷と、その国の政府に支えられた金融資本と海運業によって築かれたものだろう。
過ぎ去った時代の、いまはわるさをしないくなった亡霊たちにかこまれて飲んだ、あたたかいミルク・ティーのカップには、ハプスブルク家の紋章であるピンクの薔薇が、小さな宝石のようにかがやいていた。
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pp.27-29 『トリエステの坂道』 著者・須賀敦子
なぜ、トリエステ?
デンマンさんは、どんな気持ちでその老人たちの中でコーヒーを飲んだのでござ~♪~ますか?
僕は全く場違いな所にやって来てしまったと、初め、ひどく後悔して、すぐにでも立ち去ろうと思ったほどですよう。
でも、立ち去らなかったのでござ~♪~ますか?
せっかく物珍しい場所にやってきたのですよう。こういう機会は二度とないと思ったから、もう僕はピエロに徹して、誰が僕に注目しようが、うす馬鹿笑いを浮かべようと心に決めましたよう。うしししし。。。
。。。んで実際に、うすばか笑いを浮かべたのでござ~♪~ますか?
やっぱりねぇ~、上流社会の人って、ちゃんとお行儀がいいのですよう。僕は明らかに観光客で、その場の雰囲気にそぐわない。誰が見たって僕は“異物”なんですよう。でもねぇ、おそらく、これまでにも僕のような場違いな男が間違って迷い込んできた事があって、その人たちは慣れていたのかもしれません。
デンマンさんをジロジロと眺めなかったのでござ~♪~ますか?
じろじろとは見なかった。でも、“どこからかハエが飛んできたようだなぁ~。。。”という感じで、一度だけ僕の方に視線を走らせると、もうそれ以上は無視していましたよう。ウへへへへ。。。
。。。んで、デンマンさんは、どうなさったのでござ~♪~ますか?
うす馬鹿笑いを浮かべる必要はなかったのですよう。とにかく、オーストリア・ハンガリー帝国時代がそこにあったのですよう。全く驚きましたよう。博物館の中でコーヒーを飲んでいる感じですよう。でも、僕の周りの人たちは、皆、生きているのですからねぇ。まるで3次元の立体映画を見ているような不思議な気分でしたよう。
ところで、デンマンさんは、どうしてウィーンへ行って、それからトリエステへ行く気になったのでござ~♪~ますか?
あのねぇ、僕は小学生の頃、外国にかぶれていたのですよう。主にアメリカだった。だから、テレビっ子の僕はアメリカのテレビドラマを飽きずに毎日毎日見ていたものですよう。
どういう番組でござ~♪~ますか?
「名犬ラッシー」、「名犬リンチンチン」、「ララミー牧場」、「ローハイド」、「ガンスモーク」。。。ほとんどがアメリカを舞台にしたシリーズ・モノでした。
アメリカの番組だけでござ~♪~ますか?
ところが、小学校5年生の頃だと思うのだけれど、『第三の男』をテレビで見たのですよう。
あのオーソン・ウェルズが出た映画でござ~♪~ますか?
そうですよう。卑弥子さんは良く知っていますねぇ~。
あたくしの父も、その映画にハマッタと言っておりましたわ。
ほおォ~。。。偶然ですねぇ~。
デンマンさんもハマッテしまったのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。でもねぇ~、どういうわけか僕には話の筋が分からなかった。高校生になるまでに4,5回見ていますよう。
話の筋が分からないのに、面白かったのでござ~♪~ますか?
あのテーマ音楽にハマッテてしまったのですよう。そのテーマを聴きながら見るスクリーンには、アメリカとは違った外国の雰囲気が漂っている。僕は、初めてウィーンの町をあの映画の中で見たのですよう。
それで、いつかウィーンに行ってみようと思ったのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。小百合さんが中学生の時に『エマニエル夫人』を観て、社会人になってからバンコクに行ったようなものですよう。
それで、デンマンさんは未だに『第三の男』のあらすじが分からないのでござ~♪~ますか?
社会人になってから、映画雑誌で“あらすじ”を読んで初めて話の筋が分かったのですよう。
。。。んで、『第三の男』のテーマって、それ程素晴しいものでござ~♪~ますか?
実にいいですよう。これまで聴いたことがない人は次のリンクをクリックして、ぜひ聴いてみてください。
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デンマンさんがウィーンに関心を持ったのは分かりましたわ。『第三の男』を見たからですわね。。。んで、トリエステはどう言う訳で関心をもったのでござ~♪~ますか?
世界的に有名な二人の作家がトリエステで、ある時期暮らしていたのですよう。
その作家って誰でござ~♪~ますか?
『ユリシーズ(Ulysses)』を書いたジェームズ・ジョイス(James Joyce)と、『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』を英訳したリチャード・バートン(Richard Burton)ですよう。
そうだったのでござ~♪~ますか?知りませんでしたわ。
それで、僕は、いつかトリエステにも行ってみたいと思っていたのですよう。
『チョコとトリエステとロマンポルノ』より
(2009年1月29日)
でも、トリエステでキャドバリーのミルクチョコレートを買って食べたという話は出てこないじゃありませんかァ!
あのねぇ~、実は、由梨さんも須賀敦子さんのファンなのですよ。。。
どうして、デンマンさんは そんな事までご存知なのですか?
僕の記事を読んで、僕が須賀敦子さんの本にかなりハマッているのを知って、メールを書いてくれたのです。。。
それで、何と書いてあったのですかァ~?
「久しぶりに『トリエステの坂道』に出くわしてとても懐かしかったです」というメッセージと共に、今度、トリエステに行く時には、何が何でも“カッフェ・トリネーゼ・ディ・ヴェルムット”に行きますと。。。
マジで。。。?
ここで、ウソやデマカセを並べたら、僕の信用が落ちるだけでしょう!?
つまり、この事が言いたかったのですか?
いや。。。 違います。。。 今度、秋にでも小百合さんがバンクーバーにやって来たら、10月にヨーロッパ周りで日本へ一緒に帰るときに、トリエステに寄って、小百合さんとぜひとも “カッフェ・トリネーゼ・ディ・ヴェルムット”で キャドバリーのミルクチョコを食べながら ブラックコーヒーを飲みたいと思ったのですよ。。。
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(すぐ下のページへ続く)