文学と歴史とウソ (PART 1)

(question.gif)

(histouso.jpg)

(yang103.jpg)

(himiko12.jpg)

白拍子というのは、平安時代後期に活躍した、
一口で分かりやすく申し上げるならば、
芸者のような者でござ~♪~ますわ。

(shira15.jpg)
このように白の水干(すいかん)に
立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)という男装で
「今様」と呼ばれる歌を謡(うた)いながら、
男舞と呼ばれる舞を舞うのでござ~♪~ます。
白拍子であった祗王(ぎおう)は、
時の権力者・平清盛の寵愛を受け、
彼の館で幸せに暮らしておりました。
あるとき、清盛に歌舞を披露したいという
別の白拍子が現れたのです。
その者が仏御前だったのですわ。
ただの白拍子に過ぎない仏御前を清盛は追い返そうとしました。
でも、遠路はるばるやってきた彼女を見かねて、
心の優しい祗王がとりなしたのでござ~♪~ますわ。
それで、仏御前は清盛に舞を見せることになりました。
しかし、これを見た清盛は心を奪われ、
仏御前を寵愛するようになってしまったのでござ~♪~ます。
皮肉なものでござ~♪~ますわねぇ~。
男と言うのは本当に浮気なものでござ~♪~ますわ。
祗王の座を奪う気持ちのない仏御前は辞退しようとしました。
しかし、それに気づいた清盛は、
邪魔な祗王を追放してしまったのですわ。
本当に悲しい事でござ~♪~ますゥ。

(seisho05.gif)
萌え出づるも
枯るるも同じ
野辺の花
いづれか秋に
あわではづべき
館を出る祗王がせめてもの忘れ形見にと
詠んだ句でござ~♪~ます。
さらに翌春、清盛は退屈している仏御前を慰めるためといって、
祗王に仏御前の前で舞を披露することを強要したのです。
祗王は、あまりの屈辱に死を決意するのでござ~♪~ました。
しかし、五逆罪になることを母親が説き、
やむなく祗王は清盛の館へ向かうのです。

(shira15.jpg)
仏もむかしは凡夫なり
われらも遂には仏なり
いずれも仏性具せる身を
隔つるのみこそ悲しけれ
このように謡(うた)いながら舞い踊り、
諸臣の涙を誘ったのでござ~♪~ます。
祗王は都に居れば、
また同じような思いをしなければならないと、
母、妹と共に尼となり、嵯峨の山里で仏門に入るのでした。
当時、祗王21歳、妹の祇女は19歳、
母の刀自(とじ)は45歳でござ~♪~ました。
ところが、ある秋の夕べ、仏御前は祗王の元を訪れたのです。
なぜ。。。? どうした事でござ~♪~ましょうか?

(hotoke06.jpg)
実は、祗王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、
仏御前は、清盛の館を抜け出して
尼となっていたのでござ~♪~ます。
それからのち、祗王一家と仏御前は、余念無く仏道に励み、
みな往生の本懐を遂げたのでござ~♪~ます。
小百合さん、いかがでござ~♪~ますか?
女の身として涙なくしては読めないですよね。
おほほほほ。。。

(giou-ji.jpg)
それにしても、祗王寺のお庭は
苔がとっても美しいですことォ~。。。
見とれてしまいますわぁ~。
あああぁ~。。。デンマンさんとご一緒に見たいわぁ。。。
うしししし。。。

(himiko22.gif)
『愛憎と苔寺』より
(2008年10月7日)

デンマンさん。。。 どういうわけで、白拍子の祗王と平清盛のお話を持ち出してきたのでござ~ますかァ?

“文学と歴史とウソ”について卑弥子さんと語り合うためですよ。。。
つまり、上のお話の中にウソがある、とデンマンさんは主張するのですか?
ウソだと断定できないかもしれないけれど、『平家物語』をじっくり読むと、どうやら仏御前の話は清盛さんを貶(おとし)めるための創作だという気がしてきたのですよ。
清盛さんを貶(おとし)めるための創作。。。?
そうですよ。
でも。。。 でも。。。 どうして清盛さんを貶(おとし)める必要があるのでござ~ますか?
あのねぇ~。。。、平清盛は日本史上「悪者」として評価され続けてきたのですよ。 たとえば、あの有名な道鏡もそうですよ。 だから道鏡などは未だにエロい冗談が巷の間で次のように囁(ささや)かれている。

(doukyoux.gif)

つまり、清盛さんも日本史の時間に悪者として教えられたのでエロい話がたくさんあるとデンマンさんは言うのですか?

そうですよ。
でも、誰がそのように清盛さんを貶めたのですか?
もちろん、平家を滅ぼした源氏ですよ。 源氏は正義の味方として悪者の平清盛とその一族を滅ぼしたということを宣伝したのですよ。 歴史では何度も繰り返されてきたことです。 つまり、勝てば官軍なのですよ。
でも、清盛さんを貶めるために仏御前が利用されたのでござ~ますか?
僕は『平家物語』の「祗王」を何度も繰り返して読んでみて、その思いを強くしたのです。
それは、いったいどこでござ~ますか?
次の箇所を読んでみて下さい。

(hotoke05.jpg)
また京都に白拍子の名手がひとり現れた。
加賀の国(石川県南部)の生まれ、名を仏という。
歳は16とのことである。
京都の人は、上も下も、昔から多くの白拍子は見たが、これほど上手な舞は見たことがないと、しきりにもてはやす。
ある時、仏御前は、
「わたしは、世にもてはやされてはいるが、当世栄(は)えめでたき平家太政(だいじょう)の入道清盛公に召されぬことばかりが心のこり。
遊び女のならいなれば、かまわぬはず。
こちらより、おしかけてみようか」
とある時自分から、西八条の清盛の邸へ伺った。
取り次ぎの者が、「いまは都に名の聞こえた仏御前が参りました」と言上すると、清盛は気色をそこねて、
「なんと、そのような遊び女は、人に召されてくるものだ。
かってに推参(すいざん)する法があるか。
神であろうと、仏であろうと、祗王のおるところへは参ってはならぬ。
早々に追い払え」
と言う。
仏御前はすげないその言葉に、やむなく帰りかけたが、その時、祗王が清盛公に、
「遊び女が自分から参りましたのは、世の常のならわし、それもまだ年端(としは)のゆかぬ者、たまたま思い立って参りましたものを、すげなく申されて帰すのはふびんでございます。
いかばかりはずかしいことか、はた目にも気の毒です」
(デンマン注:読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)
31-32ページ 『平家物語(上)』
2004年10月20日 初版発行
現代語訳: 中山義秀
発行所: 河出書房新社

今で言えば仏御前はこの時、満15歳ですよ。

そうですわねぇ~、 昔は歳は数(かぞ)えでしたから。。。
仏御前が清盛の屋敷に行ったのは、ちょうどアイドル歌手の熱狂的なファンがアイドルの家に押しかけて行ったようなものですよ。
そうかしら。。。?
だから、清盛も初めは「招きもしないのに来きやがってぇ~。。。んもおォ~。。。 非常識だ!」と気分を損ねたのですよ。。。 『平家物語』にも、そう書いてある。。。
。。。で、それがどうしたのでござ~ますか?
それで仏御前は祗王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、清盛の館を抜け出して尼となって、祗王が住んでいた庵(いおり)を尋ねたのですよ。 この時、仏御前は次のように言った。
あなたが襖障子(ふすましょうじ)に、「いづれか秋にあはで果(は)つべき」と書きおかれたお言葉、まことにその通りだと心にひしと感じておりました。
いつぞやあなたが屋敷に召されて、今様をおうたいなされたときも、つくづくと浮かれ女の身のつらさを、思い知らされました。
そののちは、いずこへお住まいかぞんじませんでしたが、このほど噂によれば、母子三人様姿を変え、ごいっしょに念仏されている由(よし)、聞くにつけてもうらやましゅうぞんじて、いつもおいとまを願い申しましたが、入道殿はいっこうにおゆるしになりませぬ。
ひとり思いあわせてみますと、この世の栄華は夢の中の夢、楽しみ栄えたとてなんになりましょう。
人の身に生まれ出ることはむずかしく、仏の御教(みおし)えにあう機会もめったにございません。
このたび地獄におちましたなら、いかに生まれ変わり死に変わりましても、ふたたび人間界に浮かび上がることはむずかしゅうございます。
老少不定(ろうしょうふじょう: 老人と若者のどちらが先に死ぬかわからない)の世の中ですから、年が若くともたのみになりませぬ。
出る息のはいる間も待つ暇とてもなく、かげろうや稲妻よりも、なおはかない命---いちじの栄華を誇って、後生知らずと言われんも悲しく、今朝ひそかに館を抜け出して、このような姿になって参りました。

(hotoke06.jpg)
(デンマン注:読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)
45-46ページ 『平家物語(上)』
2004年10月20日 初版発行
現代語訳: 中山義秀
発行所: 河出書房新社

仏御前が祗王に向かって申し述べた上のお言葉がどうだとデンマンさんは言うのでござ~ますか?

いくらなんでも、この話はできすぎているでしょう! 満15歳のミーハーが、まるで60歳の老婆のような悟りを開いている。 「老少不定の世の中、年が若くともたのみになりませぬ。出る息のはいる間も待つ暇とてもなく、かげろうや稲妻よりも、なおはかない命---いちじの栄華を誇って、後生知らずと言われんも悲し」い、と15歳や16歳の女の子が言えるわけがない。 この言葉はこのエピソードを創作した作者の言葉です。 仏御前に成り代わって書いているのですよ。
そうでしょうか? あたくしは『平家物語』に書いてある通りに素直に受け取れましたわ。
『平家物語』というのは初めから清盛を悪者に仕立てて書き始めているのですよ。
マジで。。。?
だってそうでしょう! 「祗園精舎の鐘の声。。。」のあとで秦(しん)の趙高(ちょうこう)、漢の王莽(おうもう)、梁(りょう)の周伊(しゅうい)、唐の禄山(ろくざん)のような中国の悪者の名を挙(あ)げて、清盛もこの男たちと同じように「旧主先皇の政治に学ばず、快楽に走り、諫言(かんげん)を受け入れず、天下の乱れや民の愁いも知ることがなかったために滅んだ」と書いてあるのですよ。
つまり、デンマンさんは掌(てのひら)を返したように今では清盛さんのお味方をしたいのですか?
いや。。。もちろん違いますよ。 僕が言いたいのは必要以上に他人を貶(おとし)めるためのエピソードをでっち上げるのは悪いことだと言ってるのですよ。。。 真実を曲げることです。。。 偽ることです。。。 それはウソですよ!
つまり、『平家物語』の「祗王」のエピソードはでっち上げだとデンマンさんは断定なさるのですか?
もちろん、すべてがすべて、でっちあげだと言うつもりはありません。 「火のない所に煙は立たず」ですからね。 でもねぇ、少なくとも仏御前は一人じゃない。 二人の白拍子の話を組み合わせて話をでっち上げたのですよ。 だから、仏御前の話を読むと、60年生きてきた白拍子が人生の悟りを開いたようなことを言っている。 それは『平家物語』の作者の声ですよ。
でも。。。でも。。。、それはデンマンさんの個人的な意見でしょう?
あのねぇ~、僕は、最近 バンクーバー図書館で再び『平家物語』を手にとって読んでみたら、解説に次のように書いてあった。
『平家物語』 解説

(heikebook1.jpg)
ところで『平家物語』の作者・成立時期・成立事情などが、いまなおはっきりしていないことは冒頭で述べたとおりであるが、実は、『平家物語』そのものが、もともとどのようなものであったのかも謎に包まれたままなのである。
今日、通常『平家物語』と呼ばれ、学校教育の場などで用いられているテキストは、南北朝時代、明石覚一(かくいち)という琵琶法師が、それまでの詞章を整理し、物語を再構成した、いわゆる覚一本の系統に属するが、こうした『平家物語』諸本(異本)は50種類以上も伝わっており、『平家物語』研究の難しさをこの点に求める場合も少なくない。
しかし多くのテキストが存在することは、『平家物語』の世界をより豊かにし、『平家物語』を読む楽しさを、一層、増してくれもするのである。
本書から屋島の合戦の一齣を描いた「巻十一 嗣信(つぎのぶ)最期」を例にとってみよう。
そこでは主君 源義経の矢楯となった嗣信が、死に臨んで次のように述べたと記されている。
弓矢取る身の敵矢(かたきや)に当たって
死ぬるは覚悟の前、ことにも
「源平の合戦に、奥州の
佐藤三郎兵衛嗣信と申す者が、
讃岐の国 屋島の磯べで、
主君の御命にかわって射たれた」と、
末代までの物語にされることは、
今生(こんじょう)の面目、
冥土(めいど)の思い出、
これに上越す誉(ほま)れはございませぬ。
この言葉は、主君に対する武士の献身の道徳を示す例として、しばしば取り上げられるが、別のテキストでは、「奥州に残してきた老母に今一度会えないことが心残りです」と母子の情愛を優先しており、さらに別のテキストでは、主君の身代わりとして死ぬことを名誉とする文言も、老母のことも見えないのである。
中世武士の主従倫理をどのように考えればよいのか。
相異なる『平家物語』のテキストは重要な課題を提起してくれていると言えよう。
本書で『平家物語』の面白さや魅力に出会われた読者には、よく言われるように、ぜひとも原文にも挑戦していただきたいが、その際、もう一度踏み込んで、いくつかのテキストの読みくらべもおすすめしたいと思う。
いま一点、付け加えておきたいのは、『平家物語』における史実と虚構に関してである。
たしかに『平家物語』は歴史資料としても十分に有益であるが、しかし、あくまで物語であって、そこには虚構・創作も含まれていることは当然であろう。
たとえば「巻一 殿下(てんが)の乗合(のりあ)い」を見てみよう。
この話は、父清盛と違って、温厚で知られる重盛の次男資盛(すけもり)が、鷹狩りの帰途、礼儀を欠くふるまいをしたとして、摂政 藤原基房(もとふさ)の一行から散々に痛めつけられたことに激怒した清盛が、報復のため、今度は武士たちに基房一行を襲わせ、『平家物語』作者をして「これぞ、平家悪行(あくぎょう)の初めである」と述べさせているものであるが、史実はまったく違うのである。
すなわち実際に基房一行への報復を命じたのは、清盛でなく『平家物語』では、わが子をたしなめ清盛をいさめている重盛なのである。
こうした逆転がなされたのはなぜか。
異なるテキストの読みくらべとともに、史実と虚構というテーマにも挑戦していただきたいものである。
専修大学非常勤講師・樋口州男(くにお)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
349-352 ページ 『平家物語』 (下)
現代語訳者: 中山義秀
2004年12月20日 初版発行
発行所: 河出書房新社

つまり、『平家物語』を読むと、長男の重盛は心優しい素晴らしい武士として語られているのに対して、父親の清盛は、子供の悪行までを引き受けさせられて、すっかり悪者にされているのですよ!

だから、それは『平家物語』があくまでも物語で、創作であるので、仕方がないのでござ~ますわァ~。。。
ところが、物語ではなく“史書”として、すでに2000年以上もの間 歴史書として信じられている『史記』にもウソが書いてある。
史記

(shiki001.jpg)
『史記』は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。
正史の第一に数えられる。
二十四史のひとつ。
計52万6千5百字。
著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。
「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。
このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。
二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。
『史記』のような歴史書を作成する構想は、司馬遷の父司馬談が既に持っていた。
だが、司馬談は自らの歴史書を完成させる前に憤死した。司馬遷は父の遺言を受けて『史記』の作成を継続する。
紀元前99年に司馬遷は、匈奴に投降した友人の李陵を弁護したゆえに武帝の怒りを買い、獄につながれ、翌年に宮刑に処せられる。
この際、獄中にて、古代の偉人の生きかたを省みて、自分もしっかりとした歴史書を作り上げようと決意した。
紀元前97年に出獄後は、執筆に専念する。
結果紀元前91年頃に『史記』が成立した。
『史記』は司馬遷の娘に託され、武帝の逆鱗に触れるような記述がある為に隠されることになり、宣帝の代になり司馬遷の孫の楊惲が広めたという。
出典: 「史記」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらっ。。。 おチンチンを切られてしまった司馬遷のおじ様が書いた『史記』にマジでウソが書いてあるのでござ~ますかァ~? あたくしは、そのように主張するデンマンさんのお言葉が信じられませんわァ。。。

あのねぇ~、僕が言い始めたわけじゃないのですよ。。。 ちょっと次の小文を読んでみてください。。。
熒惑(火星)

(mars10.jpg)
『史記』によれば(国内巡行)に出発する直前の始皇36(前211)年には不吉なことが続いた。
まず熒惑(けいわく:火星)が東方の心宿(しんしゅく:サソリ座)の位置に留まったという。
赤く輝く熒惑は災害や兵乱を招く星であった。
サソリ座の心臓にあたるアンタレスは赤色巨星の一等星であり、中国では青龍の心臓にあたる、不吉な星とされていた。
そこに赤い熒惑が近づいて留まった。
このときの火星は東に向かって順行し、しばらく停止してから西に逆行し、またしばらくして東に順行する。
中国古代では1年間の太陽の軌道である黄道(こうどう)に28宿(しゅく)の星座を配置した。
太陽、月、五星(惑星)の動きを測る座標軸のようなものである。
東方の空の7宿のうち6つを結ぶと青龍が夜空に浮かび上がる。
龍の角が角宿、首は亢宿(こうしゅく)、胸は氐宿(ていしゅく)、原は房宿、心臓は心宿、尾は尾宿(びしゅく)となる。
(中略)
中国古代の天文暦法の研究者によれば、火星がアンタレスに近づいて留まるのは前211年ではなく、翌年の前210年であるという。
しかも小沢賢二氏が近年明らかにしたことは、前210年の始皇帝の死去の8月丙寅(へいいん:21日)の日に、再順行した火星がアンタレスに最接近しているというのである。
実は、私は始皇帝の死は7月ではなく、8月丙寅であると考えている。
そうであれば46年周期のこの特異な現象は、始皇37年の始皇帝の無くなった年の亡くなった日に起こったことになる。
この偶然の事実をどのように考えたらよいのだろうか。
8月丙寅の夜空で起こった不吉な天文現象を見た人びとは大勢いただろう。
その日まさに始皇帝が亡くなったことは極秘にされていたとはいえ、当時始皇帝が病中にあることを知るならば、その死を連想したかもしれない。
少なくとも『秦記』という秦の本来の史書には、皇帝の死の日付は正確に記されていたはずである。
しかし『史記』の記述はそうなっていない。
皇帝の死を1ヶ月さかのぼらせて7月丙寅の日に死去したと書き改め、また熒惑守心(けいわくしゅしん)を1年も前の天文現象としたのは一体だれか。

(mars11.jpg)
おそらく同時代の人びとの改竄ではなく、始皇帝の死を前年の予兆からはじまるストーリーとして構築した者の作為であろう。
それが司馬遷であるのか、司馬遷が依拠した何らかの書籍であるのか、断定することはまだできない。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
157-161 ページ 『人間・始皇帝』
著者: 鶴間和幸 2015年 初版発行
発行所: 株式会社 岩波書店

当時、火星がアンタレスに近づいて留まる年には不吉なことが起こるということが信じられていたのですわねぇ~。。。

そうです。。。 それは、現在で言えば、地動説が正しいと思われているほど常識的な事だった。。。 それで、実際には、火星がアンタレスに近づいて留まったのは始皇帝が亡くなった紀元前210年なのだけれど、その当時の常識と食い違わないように、1年前の紀元前211年だと『史記』には書いてあるのですよ。。。
要するに、始皇帝の死を前年の予兆からはじまるストーリーとして構築した者の作為であろう、と『人間・始皇帝』の著者は言うのですわねぇ~。。。
そういうことです。。。
でも、それが「司馬遷であるのか、司馬遷が依拠した何らかの書籍であるのか、断定することはまだできない」と書いてありますわねぇ~。。。
僕は司馬遷が 当時の人々の常識に合うように そうしただろうと思うのですよ。。。
その根拠は。。。?
上の本にも書いてあるように『秦記』という秦の本来の史書には、皇帝の死の日付は正確に記されていたはずなのですよ。。。 そうであるならば、司馬遷も すべてを知っていたはずですからね。。。

(laugh16.gif)
(すぐ下のページへ続く)