百人一首ミステリー(PART 1)
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デンマンさん。。。 百人一首にどのようなミステリーがあるのでござ~ますかァ?
卑弥子さんは これまでに百人一首のミステリーについて質問を受けたことがないのですかァ~。。。
あたくしは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義しておりますので、質問といえば当然、源氏物語に集中しておりますわァ~。。。
あれっ。。。 「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授とは思えないような軽率なことを言うのですねぇ~。。。
あらっ。。。 あたくしが、何か可笑しなことでも のたまいましたかしらァ~。。。 おほほほほ。。。
卑弥子さん。。。 うっかりだとしても、忘れてもらっては困りますよう。。。 「百人一首」に『源氏物語』の作者の紫式部の次の歌が57番の歌として入っているではありませんかァ!
57. 紫式部
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めぐり逢(あ)ひて
見(み)しやそれとも
わかぬ間(ま)に
雲(くも)がくれにし
夜半(よは)の月かな
あらっ。。。 うっかりしていましたわァ~。。。 平成の紫式部と言われる あたくしとしたことが、マジでぇど忘れしていましたわァ。。。 そうです。。。 そうですとも、平安時代の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎えるのでござ~ますわァ~。。。 文学の世界では、女性の活躍が目ざましく清少納言が『枕草子』、紫式部が『源氏物語』を書いたのでしたァ。。。 それゆえに『百人一首』にも、和泉式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔といった宮廷の才女の歌が載っているのですわァ~。。。
そうですよ。。。 だからこそ、わざわざ百人一首ミステリーというタイトルを掲げて卑弥子さんに登場してもらったのですよゥ。。。 卑弥子さんも、これまでに百人一首ミステリーという言葉を聞いたことがあるでしょう!?
いいえ。。。 初耳ですわァ~。。。
マジで。。。?
だってぇ~、あたくしが教えている腐女子たちは『源氏物語』はもとより、『百人一首』についても、まず質問するということがないのですわよう。。。
まさかァ~。。。?
本当でござ~♪~ますわァ~。。。
それは、きっと卑弥子さんの講義が面白くないからですよ!。。。 だから、質問する腐女子学生がいないのですよう! 講義ノートに書いてあることを、卑弥子さんは毎年、毎年、読み上げているだけなんでしょう!? 僕が学生時代にも、そういう無気力な教授がいたものですよ。。。
デンマンさん! んもおおおォ~。。。! 失礼な事を言わないでくださいましなァ~。。。! あたくしの『源氏物語』の講義は“平成の紫式部が送る白熱のラブラブ源氏物語”として学内でもチョー人気がある講義になっておりますわァ~。。。
だったら、質問の一つや二つは出てくるでしょう!?
もちろん、出てきますわよう。。。 でも、その質問は“百人一首”とは全く関係ない質問なのですわァ。。。
例えば、どういう質問がでるのですかァ?
そうですわねぇ~。。。 あたくしの印象に残っているのは、「紫式部が生きていた頃はディ~プキスがあったのか?」とか、「避妊は、どのようにしていたのか?」とか、「もし、避妊がうまくゆかなくて、おろす場合には、産婆さんがおろしてくれたのか?」とか。。。 たいてい、そういう質問でござ~ますわァ~。。。
それは、ちっとも文学とは関係ない質問じゃありませんかァ~!
だから、『百人一首』のことで質問する腐女子など、これまでに一人もいませんでしたわァ。。。
そういうわけで、卑弥子さんも『百人一首』に紫式部の歌が出てくるのを忘れていたのですかァ~?
そうでござ~ますわァ。。。 おほほほほほほ。。。
あのねぇ~、それでは、未来のお母さんになる腐女子から生まれる子供のことが心配ですよう! 卑弥子さんは、日本の未来のことを考えて、もう少し腐女子たちを教養のある、品のある女性に育て上げてくださいよう!
分かりましたわ。。。 現代の腐女子のことで議論していると日が暮れてしまいますので、本題に入ってくださいなァ~。。。 そもそも、百人一首ミステリーってぇ、どういうことでござ~ますかァ?
ちょっと次の画像を見てください。。。
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あらっ。。。 これは、もしかして平安時代の田園風景を描いたものでござ~ますかァ?
さすがですねぇ~。。。 さすが京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義しているだけのことはありますよう! あのねぇ~、実は 上の絵は「百人一首」そのものなのですよ。。。
上の絵は「百人一首」そのものォ~。。。?
そうですよ。。。
でも。。。、でも。。。、どこにも歌が書いてありませんわァ~。。。
だから、それが百人一首ミステリーなのですよう!
どういうことですか? デンマンさんが言おうとしていることが全く理解できませんわァ~。。。
あのねぇ~、上の絵は次のように『百人一首』の歌を縦10枚、横10枚にきれいに並べると浮き上がってくる絵なのです。。。
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■『拡大する』
マジで。。。? 『百人一首』の歌を 上のように縦10枚、横10枚 きれいに並べると浮き上がってくる絵があるのでござ~ますかァ?
あるのです。。。 京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義してい橘卑弥子・准教授を わざわざ呼び出してまで僕がウソをつくと思いますかァ~?
でも。。。、でも。。。、そのようなお話を あたくしはこれまでに聞いたことがござ~ませんわァ~。
それは、“平成の紫式部”と言われている卑弥子さんの勉強不足ですよ。。。 『ウィキペディア』にも ちゃんと書かれている。。。
歌織物説
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歌織物説とは、百人一首の歌が 隣りに来る歌どうしが上下左右に何らかの共通語をふくみ合う形で結び合わされ、タテ10首、ヨコ10首の枠内に並べることが出来るという、百人一首研究家・林直道の説。
並べられた100首の歌と歌をつなぐ合せ言葉を絵におきかえると、美しい景色が浮きあがることから「歌織物」説という。
■百人一首には歌の名人・定家が何万何千という歌の中からよりすぐった百の歌だというわりには平凡な歌が多いことや、同じような言葉を用いたの歌が多いことなどから、ある意図された並びが存在するのではないかと言われていた。
■「歌織物説」とは、和歌の世界でさかんに行なわれていた言葉遊びを、百人一首の中に技術的なシステムとして組み込もうという考えのもとに歌を撰び出し、隣りに来る歌どうしが上下左右に何らかの共通語をふくみ合う形で結び合わされ、タテ10首、ヨコ10首の枠内に並べることが出来るというものである。
■そして、並べられた100首の歌と歌をつなぐ合せ言葉(山、川、紅葉、雲、花、桜、菊、鳥、鹿、瀬、滝、松、等々)を絵におきかえていくと、掛軸のような山紫水明の美しい景色が浮きあがることから「歌織物」と名付けられた。
歌織物の構図
■上記のようにタテ10首、ヨコ10首に並べたところ、四隅の角に位置する4つの歌が、右下に定家の歌、左下には後鳥羽院、右上には順徳院、左上には式子内親王となっており、その配置は「曼荼羅の四天王」を連想させる。
■この、謎をはらんだ歌集の意味をときほぐす重要な鍵は、定家の自撰歌にあると筆者は考えており、それは「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」である。
■ここで「松」は待つの掛け詞であり、「凪」は泣きに通ずる。この歌は、誰か帰り来ぬ人に向って、定家が悶々たる思慕の情を述べるのが百人一首の基本点だったという推測を成り立たせる。
■つまり、鎌倉幕府と戦って敗れ、隠岐と佐渡に幽閉され、帰り来ることを許されぬ二人の帝と、薨去してこの世には二度と帰り来ぬ薄幸の美女・式子内親王という、三人の「来ぬ人」に向って「あなたをお待ちして泣きながら身もこがれる思いだ」と訴える構図なのではないかと考える。
出典: 「歌織物説」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あらっ。。。 このような事をマジで言い出した人が居るのでござ~ますかァ?
そうなのです。。。 実は、僕はバンクーバー図書館で本棚の前で どれを読もうかと探していたら、たまたま百人一首研究家・林直道さんの本を見つけたのですよ。。。
あらっ。。。 偶然ですわねぇ~。。。 それで、デンマンさんは、「そのようなことはないだろう!? ウソだろう?」と思いながら読んでみたのですかァ?
その通りですよ。。。 すると、次のようなことが書いてあった。
定家の懊悩とその解決
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百人一首が後鳥羽院・順徳院・式子内親王らにたいする焦がれる思いを表わしたものだ、という主張にたいしては、式子・順徳についてはともかく後鳥羽院にかんするかぎり、とても賛成できないという意見が寄せられている。
その反対意見によれば、定家と後鳥羽院とはたがいに反目しあい憎みあっていた仲であって、その定家が後鳥羽院追慕、後鳥羽院讃歌の歌集をつくったなどというのは、あまりにも無理な解釈だというのである。
たしかに、表面的には後鳥羽院と定家とは仲たがいしたまま生を終えた形となっている。
後鳥羽院が承久の乱に敗れ隠岐に島流しになったあと、定家のとった態度は、じつに冷淡そのものであった。
家隆をはじめ多くの公卿たちが、隠岐へ見舞いの手紙を出し、慰めの品物を贈ったのに、定家は一通の手紙も一片の品物も贈らなかった。
後鳥羽院のほうでも定家の冷酷さに我慢ならず、隠岐で書いた歌論書『後鳥羽院御口伝』のなかで、定家の歌には「心がない」とこきおろしている。
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定家がこうした冷酷な態度をとったのには公私両面での理由がある。
第一に、定家は、承久の乱のおこる直前に歌会で発表した歌が後鳥羽院の怒りにふれ、「勅勘(ちょくかん)」をうけ、以後、自宅で謹慎せよ、公の席へ出ること罷(まか)りならぬという処罰をうけた。
ところがその処罰令を出した後鳥羽院自身が鎌倉幕府によって島流しにされ、隠岐に幽閉されてしまったから、定家は後鳥羽院から勅勘を解除されることなく、形の上ではずっと処分をいけつづけているという関係にあった。
第二に、クソ真面目な定家は、自由奔放な後鳥羽院と性格が合わなかったうえに、わが子の為家が後鳥羽院によって蹴まりの遊び相手として独占され、家業である歌の勉強を妨げられたこと、また後鳥羽院が定家の才能と律儀な仕事ぶりに目をつけ、新古今集の編纂などで存分に利用しておきながら、身分の昇進については配慮せず、いつまでも少将という低い身分に据(す)えおいたこと、などの点で恨みを抱いていた。
こうしたことから、承久の乱ののち、定家が公私両面で後鳥羽院とのつながりを断ち、別世界の人間として疎遠な関係に立とうとしたのは、ある意味で当然の成りゆきであった。
(中略)
じつのところ、定家としては、後鳥羽院が勢力をもり返して幕府をたおし、ふたたび権力の座につくことをもっとも強く恐れていたのかもしれない。
そのときは彼自身、後鳥羽院がたから、手ひどい報復処罰をうけることが予想されたからである。
このようにみてゆくと、定家が(百人一首を作ることによって)後鳥羽院讃歌の歌織物をつくったなどという主張は、ますますもって不可解なものに思われるであろう。
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だが、じつは、晩年にいたって定家はある事件にまきこまれ、そのことによって大きな心理的軌道修正をよぎなくされたのである。
寛喜2年(1230年)、定家は、後堀河天皇から、新しい勅撰集を編纂せよという内意を受けた。
(中略)
後鳥羽院・順徳院の歌をどう扱えばよいのか。
もしも入れるとすれば、(略) 鎌倉幕府から (略) とがめをうけるだろう。 (略)
「たとえ鎌倉に忌み嫌われている人物」だとはいえ、あえてその歌を勅撰集に撰入したというところに、定家の歌人としての誇りと自負と意地があったわけである。
ところが、定家苦心のこの草稿は、案の定、責任者である政治的実力者、関白・藤原道家からクレームをつけられた。
鎌倉幕府の怒りにふれることをおそれた道家は、草稿中の後鳥羽院・順徳院の歌 (略) をのこらず削除せよと指示したのである。
(中略)
そこで定家は、鎌倉幕府にたいする反逆の意味を持った作品をつくらねば、気がおさまらなくなり、(百人一首をつくり) こういう報復をすることで、歌人としての失われた誇りをとりもどそうとしたのではなかろうか。 (略)
それよりももっと強烈にかれの心臓を握りつぶしたのは、後鳥羽院の祟(たた)りをうけるのではないかという恐怖感であった。
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承久の乱以後、かれのとりつづけた冷酷な態度が、院の恨みを買ってきたことは自分にも痛いほどわかっている。
そこへさらに、今回、たとえ上層部から命じられたとはいえ、後鳥羽院・順徳院の歌 を勅撰集から切り削る直接の下手人(げしゅにん)となった。
隠岐の怨霊(おんりょう)の祟りをこうむるのはもはや必定(ひつじょう)ではないか。
このままでは自分は未来永劫、地獄に堕(お)ちてしまう。
そこで定家は、院の祟りを免れるために唯一の手段として、院を讃美し、院の生霊(いきりょう)を慰める内容を盛り込んだ、何か奇想天外な巨大作品をつくり上げようと異常なまでの熱意に燃えたのではなかろうか。
このようにして、歌人定家は、勅撰集の独力撰進という、歌人として上りつめた栄光の頂点において、(略)挫折からの活路を求めて、百人一首歌織物という空前の大傑作をつくり上げるにいたったのである。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
165-172 ページ
『百人一首の世界』 新装版
著者: 林 直道
2003年12月17日 第1刷発行
発行所: 株式会社 青木書店
つまり、デンマンさんは上の御本を読んで 説得されてしまわれたのでござ~ますかァ?
そうです。。。 いけませんかァ~?
デンマンさんが素直に説得されるなんてぇ、珍しいことですわねぇ~。。。
あのねぇ~、もう一度 紫式部の歌を読んでみてください。。。
57. 紫式部
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めぐり逢(あ)ひて
見(み)しやそれとも
わかぬ間(ま)に
雲(くも)がくれにし
夜半(よは)の月かな
この上の歌を読んで、卑弥子さんは何か感動するものがありましたかァ~?
特に感動しませんでしたけれど、『百人一首』の中に選ばれたほどの歌なのですから、良い歌にきまってますわァ~。。。
だから、そういう考え方が間違ってるのですよ。。。 僕は、上の歌を読んで、特に素晴らしい歌だとは思えなかった。。。 紫式部には、もっと感動を呼ぶような歌があるはずですよ。。。
でも。。。、でも。。。、とにかく、『百人一首』の中に選ばれたほどの歌なのですから、良い歌なのでござ~ますわァ。
藤原定家は素晴らしい歌だから上の歌を選んだわけじゃないのですよ。。。 歌織物を作るために藤原定家の都合のよい歌を選んだだけなのです。。。 そうしない限り歌織物を作ることができない!
でも。。。、でも。。。、“歌織物説”というのは、百人一首研究家・林直道さんの言い出した仮説ですわァ~。。。
僕は、それは真実だと信じることができる。。。
その根拠は。。。?
藤原定家は どうしても歌織物を作らねばなかなかった! なぜなら、定家は、院の祟りを免れるために唯一の手段として、院を讃美し、院の生霊(いきりょう)を慰める内容を盛り込んだ、何か奇想天外な巨大作品をつくり上げねばならなかったのですよ。。。
そのような事が、その時代、あるいは、それ以前にもあったのでござ~ますかァ?
あったのです。。。 『百人一首』の2番の歌として入っている 持統天皇が詠んだ次の有名な歌を読んでみてください。
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春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の
衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山
この歌は、たぶん 『百人一首に』入っているから有名になったのだと思うのだけれど、決して感動を誘うような歌ではないですよ。。。 歌そのものの言葉を解釈すれば、「春が過ぎて夏がやってきた。 香具山に白い衣が干してある」。。。 ただ、これだけのことを言っているに過ぎない! 小学生でも詠めるような他愛無い歌ですよ。。。
そうでしょうか?
卑弥子さんは、マジで素晴らしい歌だと思いますかァ~?
だってぇ~、『百人一首』に選ばれたのだから、素晴らしい歌に違いないと思いますわ。。。
だから、それが先入観なのですよ。。。 藤原定家は確かに歴史的に有名な歌人だけれど、持統天皇の上の歌が素晴らしいから選んだわけじゃない! 歌織物を作るのに都合がいいか定家が選んだだけなのですよ。。。
だから、それは百人一首研究家・林直道さんの言い出した仮説にすぎないのですわァ~。。。
地動説も初めは仮説だったのですよ。。。 ガリレオが生きて居た時代には、99%の人々が天動説を信じていた。。。 でも、現代人の99.9%の人々が地動説を信じている!
つまり、デンマンさんにとっても『歌織物説』は真実だと信じることができるのですか?
そうです。。。
その根拠は。。。?
あのねぇ~、持統天皇の上の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではないんですよ。。。 これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えるとき、愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、僕は次のようにしか解釈できません。
春が過ぎて夏が来たようだ。
天の香具山に美しく真っ白な衣が
干してあるなあぁ~
でも、私の心はあの山の裏にある
磐余(いわれ)の池を見ているのです。
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大津皇子が自害する前に池の端で
辞世の歌を読んだという。
自害の後で、皇子の妻であり、
私の腹違いの妹でもある山辺皇女が
髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、
共に殉死したという。
痛ましいには違いない。
しかし私は、ああせねばならなかったのです。
怨霊になって私を憎んで
いるのかもしれないけれど、
私には他にとるべき道はなかったのです。
どうか、心安らかに眠っていて欲しい。
上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。
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この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。 この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。 現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。 僕もそう考えています。
つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけでござ~ますかァ?
そうです。。。 この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。。。 “怨霊の崇り”ということが現在でいえば“北朝鮮からミサイルの攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。
それで、持統天皇は天からミサイルを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだのでござ~ますかァ?
そうですよ。。。 それが僕の解釈です。 うへへへへ。。。。
でも。。。、でも。。。、そのような事を言っている人は デンマンさん以外におりませんわァ~。。。
あのねぇ~、地動説も初めは一人が勇気を持って世間に広めようとしたのですよ。。。 そのつもりで、僕も記事を書いたので、卑弥子さんも読んでみてくださいねぇ~。。。
では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?
天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。
この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。
なぜか?
草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。
それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。
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■『性と愛の影に隠れて -
万葉集の中の政治批判』
つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。
ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。
つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。
この事は持統天皇として即位してから、自分の血に固執したこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えれば、容易に察しがつきます。
上の系図を見れば、そのことが良く分かります。
この独占欲と権勢欲は讃良皇女の生い立ちを考えない限り理解できません。
しかも、この女性はその先例を父親の天智天皇と自分の夫である天武天皇との間に見ているのです。
つまり、この場合なら、草壁皇子が天智天皇にあたり、大津皇子が天武天皇にあたります。
天智天皇の皇太子になったのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。
このような状況を許せば、大海人皇子が天智天皇を暗殺して、その子の大友皇子を亡き者にしたように
大津皇子が草壁皇子を暗殺して皇位につくかもしれない。
その“禍の芽”を摘み、取り除くために大津皇子を亡き者にしなければならなかったのです。
なぜ大津皇子の怨霊を恐れたのか?
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現身(うつそみ)の
人なる吾(われ)や
明日よりは
二上山を
弟背(いろせ)とわが見む
(巻2-165)
この世に生き残った私は、明日からは、
弟が葬られている二上山を弟と思い見て、
慕い偲ぶことにしよう。
上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、
葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、
大津皇子の実の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。
死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。
つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、
この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。
大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、
大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って
伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、
伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、
弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。
平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。
大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、
大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が皇子の霊を祈祷によって鎮めた。
つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、
皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。
持統天皇の心にも“後ろめたさ”があったのでしょうね。
だからこそ大津皇子の霊に恐れを感じた。
しかも、“大津皇子の霊が龍となって崇りを起こし”ていると言うもっぱらのうわさが流れている。
持統天皇が大津皇子の死体を掘り起こし
二上山にその怨霊と共に閉じ込める気持ちが分かるような気がします。
怨霊信仰
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非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。
原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。
『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。
しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。
その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」
SOURCE: 国史大辞典
持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、
後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。
つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、
この事実を我々に伝えようとしたわけです。
僕はそう信じているんですよ。
では、恒例になりましたが、司馬遼太郎さんの言葉を書きますね。
生前、司馬遼太郎さんは、このようなことを言っていましたよ。
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“作品は作者だけのものと
違うんやでぇ~。。。
作者が50%で読者が50%。。。
そうして出来上がるモンが
作品なんやでぇ~”
名言だと思いますねぇ~~。
あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!
大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。
あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。
大伯皇女は、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。 へへへへ。。。。
大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。
では。。。
『愛と怨霊』より
(2006年7月5日)
でも。。。、でも。。。、このお話が“地動説”のように、世間に広まるでしょうかァ?
“歌織物説”と一緒に世の中に広まりますよ。。。 考えても見てください。。。 『百人一首』の中に取り上げられた持統天皇の歌は 表面的にはつまらない歌ですよ。。。
でも、やがて 深く理解する人が現れるとデンマンさんは信じているのござ~ますかァ?
そうです。。。 それが百人一首のミステリーです。。。
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(すぐ下のページへ続く)