忘れられた歴史ロマン (PART 1)
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デンマンさん。。。 “忘れられた歴史ロマン”というのは、マジで忘れられてはならないような素晴らしい歴史ロマンなのでござ~ますかァ~。。。?
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そうです。。。 僕は、そう信じてます。
デンマンさん以外にも、そう信じているネット市民がいるのですかァ~?
居るのですよ。。。 仙台に住んでいる宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんという女性です。。。
あらっ。。。 デンマンさんが学生時代にナンパした女性でござ~ますかァ?
卑弥子さんは すぐにそういう淫らな発想をするのですねぇ~。。。
あらっ。。。 いけませんでしたかしらァ~。。。 おほほほほほほ。。。
あのねぇ~、僕が青春時代を過ごした仙台では、当時 ナンパは流行(はや)らなかったのですよ。。。 そういうわけで、僕は極めて真面目で品行方正な青年だったのです。。。
ちょっと信じられませんわァ~。。。
昔の人は“信じる者は救われる!”と言ったのですよ。。。 だから、卑弥子さんも僕の言う事を信じて救われてくださいねぇ~。。。
分かりましたわァ~。。。 これ以上、このお話を続けると、せっかくデンマンさんの記事を読もうとなされたネット市民の皆様が他のブログへ飛んでしまいそうですから、本題に入ってくださいませぇ~。。。
じゃあ、さっそくIPアドレスを調べた結果を見てください。
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■『拡大する』
あらっ。。。 宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんという女性は、夢見心地を絵に描いたような おきれいな方ですわねぇ~。。。
宮城学院女子大学に通っている日本文学科の4年生なのです。
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デンマンさんのブログを訪れる女性は、どうしていつも決まって おきれいな方なのでござ~ますかァ~?
あのねぇ~、そういう事を詮索すると、長い記事が、さらに長くなるので、素直に見たままを信じてくださいねぇ~。。。
分かりましたわ。。。 デンマンさんが そのようにおっしゃるのであれば、しつこいツッコミは入れないようにいたしますわァ~。。。 で、宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんは、どのような歴史ロマンを見つけたのでござ~ますか?
ちょっと次のリストを見てください。
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■『拡大する』
■『枕詞とロマン』(PART 1)
これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の6月25日の午後10時29分から翌日の午前3時20分までの約5時間の「生ログ」の一部です。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しいのですよ。
あらっ。。。 6月25日の午後10時40分にGOOGLEで検索して『枕詞とロマン』をお読みになったのですわねぇ~。。。
そういうことです。。。
。。。で、宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんは どのようなキーワードを入れて検索したのでござ~ますかァ?
次のように「枕詞 ロマン」を入れて検索したのです。。。
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■『拡大する』
■『枕詞とロマン』(PART 1)
■『現時点での検索結果』
82,800件ヒットするのですわねぇ~。。。 宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんは 赤枠で囲んだタイトルをクリックしたのですかァ?
そうです。。。
でも。。。、でも。。。、歴史ロマンと言うよりも なんだか“万葉ロマン”のようですわねぇ~。。。
卑弥子さんは、どうして歴史ロマンと言うよりも“万葉ロマン”だと思うのですか?
だってぇ~、宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんは“枕詞”をいれて検索しているではござ~ませんかァ!
枕詞 (まくらことば)
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おもに和歌でその言葉の前に添えて・修飾する(語調を整える)一定の言葉。
五音節のものが多い。
【例】 「あまざかる」が「ひな」にかかるなど。
三省堂 『新明解国語辞典 (第二版)』より
あのねぇ~、枕詞の中には“歴史ロマン”とマジで関係のあるものがあるのですよ。。。
例えば。。。?
「つぼのいしぶみ(壷の碑)」という耳慣れない枕詞があるのですよ。。。 次の記事で取り上げたことがある。。。
■ 『日本の真ん中の町』
(2009年5月13日)
“壷のいしぶみ”というのは枕詞なのでござ~♪~ますか?
やだなあああぁ~。。。卑弥子さんは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授なのですよう。 古典文学の研究者として“壷のいしぶみ”が枕詞の一つだと言う事ぐらい知っていて欲しいなあああぁ~。。。
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サルも木から落ちる
弘法も筆の誤り
上手の手からも水が漏る
デンマンさんがいつもおっしゃっているように完璧な人など居ないのでござ~♪~ますわよう。 あたくしは、うっかり忘れていたのですわア。
つまり、ど忘れしていたのですか?
そうでござ~♪~ますわ。おほほほほ。。。
なんだか、卑弥子さんは全く知らなかったように見えますよう。
そのような事は詮索しないでくださいなァ~。。。 でも、「つぼのいしぶみ(壷の碑)」は5音節ではござ~♪~ませんわ。 7音節ですわよう。 それで、あたくしのオツムから抜け落ちていたのですわ。 ォほほほほ。。。
うん、うん、うん。。。確かに言われてみれば、7音節で例外的ですよね。僕が高校の古典で勉強した次の歌などはあまりにも有名だけれど、5音節です。
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あおによし奈良の都の八重桜
けふ九重ににほひぬるかも
あおによし奈良の都は咲く花の
にほふがごとく今盛りなり
両歌とも 小野老 (おののおゆ) による
出生不詳
737年没
奈良時代の歌人。
姓(かばね)は朝臣(あそみ)。
719年(養老3)正月従(じゅ)五位下、720年10月右少弁となり、729年(天平1)3月従五位上(『続日本紀』)。
このころ大宰少弐(だざいのしょうに)となって九州に赴任(『万葉集』)。
以後731年正月正五位下、733年3月正五位上、734年正月従四位下に昇進、737年6月大宰大弐在任中に没した。
777年(宝亀8)の遣唐副使小野朝臣石根(いわね)の父(『続日本紀』)。
天平(てんぴょう)初年大宰少弐時代の短歌3首が『万葉集』にみえる。
あおに‐よし 【青丹よし】 (あをにーよし)
〔枕〕(ヨもシもともに間投助詞)「奈良」「国内(くぬち)」にかかる。
奈良に顔料の青丹を産出したことが秘府本万葉集抄にみえるが、事実か伝説の記録か不明。
一説に、「なら」に続けたのは顔料にするために青丹を馴熟(なら)すによるという。
『広辞苑』より
デンマンさんの思い違いではござ~♪~ませんか?
間違いではありませんよう。 ウィキペディアにも次のように書いてあるのですよう。
つぼのいしぶみ (壷の碑)
「つぼのいしぶみ」とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもある。
比叡山で修学した僧・顕昭(けんしょう)が鎌倉時代の初期に書いた歌学書・『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』の19巻では「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とある。
つぼの碑のことは多くの歌人が和歌に詠った。
藤原清輔,寂蓮法師,西行法師,慈円,源頼朝,藤原仲実,和泉式部,南部重信,高山彦九郎,岩倉具視,大町桂月らがこの碑のことを詠っている。
内容はいずれも「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということをテーマにしている。
数多くの人がこの碑のことを詠ったため、有名な石であったが、どこにあるか不明であった。
多賀城碑壺碑説
江戸時代の初め頃、多賀城跡付近のある市川村で石碑(多賀城碑)が発見された。
この碑は発見当初から壺の碑であるとされ、当時の記録に残っており(『国史舘日録』など)多くの拓本もとられた。
松尾芭蕉はこの碑を「壺の碑」とし、奥の細道の旅中にここを訪れている。
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「多賀城碑」の傍らに建つ芭蕉句碑
一方、菅江真澄らは文面や距離的な問題から壺の碑ではないと主張し、明治時代にも論争を呼んだ(多賀城碑偽作説)。
田村麻呂が到達している地点であることは事実と一致するが、袖中抄にあるような、日本の中央のよしを書いたということ、「つぼ」という地名や四、五丈(12~15メートル)の石に書いたという記述と一致しない。
多賀城碑が壺の碑と結びつけられたのは江戸時代のことであり、当時は古来からの歌枕を自領に置こうという動きがあった。
多賀城碑が壺の碑となったのも仙台藩の強い意図があったと言われている。
南部壺碑説
青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に千人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
このため、明治天皇が東北地方を巡幸する際に(1876年)、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。
神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。
1949年6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。
この地区には田村麻呂は到着していないし、実際に都母(つも)に行ったとされる武将は文屋綿麻呂である。
しかし、多くの古い事柄を有名な英雄である坂上田村麻呂に関係づける傾向がこの地方に多い。
実際に綿麻呂が書いたとすれば811年頃の出来事になる。
日本中央の碑発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物のつぼのいしぶみであるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。
これは、袖中抄の記述とは一致するが常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、田村麻呂が現地に到達していないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
でも、ウィキペディアは素人が書いているものでござ~♪~ますわ。
素人が書いているから間違いだとは言えませんよう。僕は他でも「壷のいしぶみ」を歌枕として詠んだ歌を見たことがある。
たとえば。。。?
上の説明にも出てくる顕昭というお坊さんが詠んだ歌には次のよなものがありますよう。
おもいこそ千嶋のおくを隔てねど
えぞかよわさぬ壷のいしぶみ
これだけでござ~♪~ますか?
もっとありますよう。 誰でも知っている鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝が詠んだ歌には、次のようなものがありますよう。
みちのくのいはで忍ぶはえぞ知らぬ
かき尽してよ壷のいしぶみ
分かりましたわ。 「壷のいしぶみ」が枕詞だという事を認めますわァ。。。 んで、その事が“歴史ロマン”と関係があるのでござ~♪~ますか?
そうですよ。。。 枕詞である「壷のいしぶみ」に隠された壮大な歴史ロマンがあるのです。
そのような事がどこかに書かれているのでござ~♪~ますか?
いや。。。 どこにも書かれていませんよう。 これから僕が言うことは僕の歴史ロマンです。
つまり、夢のようなお話でござ~♪~ますわねぇ~。。。
いや。。。 決して夢のような話ではありません。 ある程度、根拠に基づいているのです。
分かりましたわァ。 では、その“歴史ロマン”とやらをお話くださいなァ~。。。
あのねぇ~、「壷のいしぶみ」とは、どちらの石碑なのか? まだ、論争の余地があるようなのですよう。 でもねぇ~、その論争の結果がどうであれ、多賀城で見つかった石碑に僕は壮大な歴史ロマンを見るのですよう。
その石碑には、一体どのような事が書かれているのでござ~♪~ますか?
現代語に訳すと次のように書かれているのです。
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多賀城から京(奈良の平城京)に至るには、武蔵までは南西方向に歩いてゆき、さらに西に向かって歩いてゆく。その距離は1500里。
蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の西の国界(くにざかい)までは、南西方向に120里。
常陸国(ひたちのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南に向かって歩き、さらに西に向かって歩き、その距離は412里。合計で532里である。
下野国(しもつけのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南西方向に274里。合計して394里である。
靺鞨国(まっかつのくに)の西の国界までは、西に歩いてゆき日本海に至る。海を渡り、さらに西へ歩いてゆく。その距離は3000里である。
多賀城は神亀元年(724年)に築城された。按察使(あぜち)兼鎮守将軍の大野東人(おおのあずまひと)が管理した。
そして現在に至る。
東海東山節度使であり、仁部省卿(じんぶしょうきょう)兼按察使・鎮守将軍である藤原朝狩(あさかり)が大改修工事を施した。
天平宝字6年(764年)12月1日
。。。んで、この石碑は何のための石碑なのでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、藤原朝狩が多賀城を大改修した記念碑なのですよう。
つまり、藤原朝狩が自分で記念碑を建てたのでござ~♪~ますか?
そうなのです。
。。。んで、デンマンさんがおっしゃる歴史ロマンと言うのも、この人物が関係しているのでござ~♪~ますか?
その通りですよう。
藤原朝狩という人は、それ程有名な人なのでござ~♪~ますか?
いや、この人は中学や高校の歴史の教科書には、まず書かれない事が多いのだけれど、この人の父親は必ず歴史の教科書に書かれます。
誰ですの?
藤原仲麻呂ですよう。 別名、恵美押勝(えみのおしかつ)。
藤原仲麻呂 (ふじわら の なかまろ)
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慶雲3年(706年)に生まれる。
天平宝字8年9月18日(764年10月21日))に殺される。
奈良時代の公卿。
父は藤原武智麻呂。恵美押勝(えみのおしかつ、藤原恵美朝臣押勝)とも呼ばれる。
「続日本紀」は仲麻呂を「率性聡敏にして、略書記にわたる」と評している。
年少にして大納言・安倍宿奈麻呂に算術を学び、すぐれた学才を示した。
大学少允に最初に任官し、天平6年(734年)、従五位下に進む。
天平9年(737年)、天然痘の流行により父の武智麻呂を含む藤原四兄弟が相次いで死去し、藤原氏の勢力は大きく後退した。
代わって橘諸兄が台頭して国政を担うようになった。
天平13年(741年)、民部卿。天平15年(743年)、参議となる。
天平18年(746年)、式部卿に転じる。仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子阿倍内親王ともこの時は良好な関係にあったとされる。
天平16年閏1月13日(744年3月1日)の安積親王の恭仁京での急死は、仲麻呂による毒殺説があるが疑問も出されている。
孝謙天皇の時代
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天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、仲麻呂は大納言に昇進。
次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)を兼ねた。
仲麻呂は更に中務卿と中衛大将も兼ねた。
光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣橘諸兄と権勢を競うようになった。
天平勝宝7歳(755年)、諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、諸兄は恥じて官を辞職し、2年後に失意のうちに死去した。
天平勝宝8歳(756年)、聖武太上天皇が崩御し、遺言により道祖王が立太子された。
だが天平宝字元年(757年)3月、道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて廃太子された。
代わって、仲麻呂の早世した長男真従の未亡人(粟田諸姉)を妃とする大炊王が立太子される。
5月、祖父の不比等が着手した養老律令を施行。
同月、仲麻呂は紫微内相(大臣に准じる)に進む。
仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂であった。
奈良麻呂は、大伴古麻呂らとともに仲麻呂を殺害し、黄文王らを擁立するなどの反乱を企てるが、同年6月、上道斐太都らの密告により露見。
奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。
奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂らは拷問で獄死、
事件に関与したとして仲麻呂の兄の右大臣豊成も左遷された。
淳仁天皇の時代
天平宝字2年(758年)、孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)した。
淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、中男・正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、問民苦使・平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させるなど唐風政策を推進した(太政官→乾政官、太政大臣→大師など。官職の唐風改称を参照)。
仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、同年8月25日(10月5日)、恵美押勝の名を与えられる。
同年、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。
天平宝字3年(759年)、新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。
軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられた。
この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。
天平宝字4年(760年)、仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられる。
同年、光明皇太后が逝去した。
皇太后の信任厚かった仲麻呂にとっては大きな打撃となる。
天平宝字5年(761年)、淳仁天皇と孝謙上皇を近江国の保良宮に行幸させる。唐の制度にならって保良宮を「北宮」、難波宮を「西宮」とする。
天平宝字6年(762年)、仲麻呂は3人の息子の真先、訓儒麻呂、朝狩を参議につけた。
この頃、病になった孝謙上皇を看病した弓削道鏡が上皇に寵愛されはじめた。
仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。
これが孝謙上皇を激怒させ、上皇は出家して尼になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言するが、この実現については研究者のあいだでも理解が分かれる。
孝謙上皇の道鏡への寵愛は更に深まり、天平宝字7年(763年)、少僧都とした。
藤原仲麻呂の乱
孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字8年(764年)、都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てるが、謀反との密告もあり、淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれて、仲麻呂は平城京を脱出する。
子の辛加知が国司の越前国に入り再起を図るが官軍に阻まれて失敗。
仲麻呂は近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。
敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだして逃れようとするが官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。
仲麻呂の一族はことごとく殺されたが、六男・刷雄は死刑を免れて隠岐国に流されて、桓武天皇の時代に大学頭・陰陽頭を歴任している。
また、十一男と伝わる徳一も処刑されず東大寺に預けられて出家し、筑波山知足院中禅寺の開山者となる。
また、仲麻呂の推進してきた政策のうち官名の唐風改称こそは廃されて元に戻されたものの、養老律令をはじめ多くの政策が一部修正を加えられながらも、その後の政権によって継続されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仲麻呂は、あの有名な藤原不比等の孫なのですよう。
その事が歴史ロマンと関係するのでござ~♪~ますか?
大いに関係するのですよう。 実は、藤原氏には藤原家を起こした中臣鎌足から伝わっている家宝の“バイプル”があるのですよう。
どのようなものでござ~♪~ますか?まさか、藤原氏がキリスト教徒だと言うのではないでしょうね?
かつて、僕は記事に書いたので詳しい事は、すぐ下のリンクをクリックして読んでみてください。
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■ 『マキアベリもビックリ!
藤原氏のバイブルとは?』
。。。んで、そのバイブルがどうしたのでござ~♪~ますか?
仲麻呂は非常に頭の良い人だったのですよう。当然のことだけれど、仲麻呂は藤原家に伝わる“バイブル”に従って権謀術策を使い正一位になり太政大臣になった。
でも、「藤原仲麻呂の乱」で殺されてしまいましたわ。
その通りですよう。
サルも木から落ちる
弘法も筆の誤り
上手の手からも水が漏る
まさに、完璧な人は居ないと言う事ですよう。仲麻呂は自分の術策に溺れてしまったのですよう。
それで、その事と歴史ロマンがどのように関係しているのでござ~♪~ますか?
実は、父親よりも四男の藤原朝狩の方が頭が良かったのではないか?僕は、そう思っているのですよう。
なぜ。。。?
ちょっと朝狩の略歴を読んでみてください。
藤原朝狩 (あさかり)
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別名: 恵美朝狩。
出生不詳。
天平宝字8年9月18日(764年10月21日))殺される。
藤原仲麻呂の四男。母は陽候女王(新田部親王の娘)。
天平宝字元年(757年)従五位下陸奥守となる。
天平宝字3年(759年)朝狩は正五位下へ進む。この頃陸奥鎮守将軍に任ぜられる。
天平宝字4年(760年)仲麻呂は太師(太政大臣)となり、陸奥守兼鎮守将軍であった朝狩も陸奥国での功績(荒蝦夷を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させた)が認められ、従四位下に叙される。
仁部卿、東海道節度使となる。
天平宝字6年(762年)、仲麻呂は正一位となり位人臣を極め、同年、朝狩は兄の真先、訓儒麻呂とともに参議に任じられ、親子4人が公卿に列する異例の事態になる。
しかし、孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛し、仲麻呂が淳仁天皇を通じてこれを諌めたところ、上皇が激怒して天皇から政権を奪い、孝謙上皇・道鏡派と淳仁天皇・仲麻呂派の対立が起きる。
天平宝字8年(764年)9月、仲麻呂は反乱を計画するが、密告により発覚。
孝謙上皇側に先手を打たれて仲麻呂一族は平城京を脱出。
朝狩もこれに従う。
仲麻呂が長年国司を務めた勢力地盤である近江国の国衙に入って再起を図ろうとするが、官軍に先回りされ阻まれた。
仲麻呂一族は八男の辛加知が国司の越前国を目指すが、官軍が越前国衙へ急行して、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、国境の関を固めてしまう。
仲麻呂一族は近江国高島郡に退き、三尾の古城に拠って官軍に抵抗するが敗れ、朝狩を含む仲麻呂一族はことごとく殺された。(藤原仲麻呂の乱)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陸奥国での功績に注目してください。
藤原朝狩は荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたのですわねぇ~。
そうなのです。 つまり、僕が言おうとしているのは、朝狩の方が父親の仲麻呂よりも“バイブル”に忠実に術策を使い、戦わずにして荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたのですよう。その手腕はすごいと思いますよう。
それ程、荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)と仲良くする事は大変な事だったのでござ~♪~ますか?
実は、蝦夷(えみし)は、もともと平和を愛する人たちだったのですよう。この人たちの平和愛好精神について、僕は記事を書きました。 読んでみてください。
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■『なぜ、蝦夷という名前なの?』
■『平和を愛したアイヌ人』
でも、どうして征伐しなければならなかったのでござ~♪~ますか?
一部の渡来人の身勝手から、そうしたのです。
その渡来人って。。。?
その渡来人の血筋を引き継いでいるのが藤原鎌足や藤原不比等ですよう。
でも、藤原朝狩は荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)と仲良く出来たのですわね。 どうしてでござ~♪~ますか?
もともと、争いが嫌いな性格だったのでしょうね。 父親と違い、威圧的、攻撃的な性格ではなかったのですよう。 とにかく、その功績によって正五位下の藤原朝狩は従四位下に叙せられたのですよう。 つまり、2階級特進したのですよう。
でも、藤原朝狩のした事は、それ程特筆するような事だったのでござ~♪~ましょうか?
そうなのです。 藤原朝狩が造営した雄勝城〔おかちのき〕の略歴を見ると良く分かりますよ。
雄勝城〔おかちのき〕
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現在の雄勝郡域内に、雄勝城と同時代の遺構は見つかっておらず、その造営地は現在も不明である。
記紀から推定されている雄勝城の造営地は、「雄物川流域沿岸地で、出羽柵と多賀城の経路上にあり、かつ出羽柵より2驛手前の距離の土地」である。
現時点で発見されている城柵遺跡でこの条件に一致するものは払田柵跡のみである。
現在、横手市雄物川町での発掘調査が進められており、払田柵から出土したものと同等のものが出土している。
今後、これらの雄勝村周辺遺跡の発掘調査が進むにつれ、古代雄勝城造営地が徐々に明らかにされていくものと期待されている。
略歴
天平宝字3年(759年)
雄勝城の造営が行われた。
所轄郡司、軍毅、鎮所の兵士、馬子ら8,180人が春から秋にかけて作業にあたったので、これらの者は淳仁天皇より税の免除が認められた。
また、雄勝に驛が置かれた(雄勝驛のほか、玉野、避翼、平矛、横河、助河、嶺基にも驛が新設された)。
天平宝字3年(759年)9月27日
坂東八国(下野国、常陸国、上野国、武蔵国、相模国、下総国、上総国、安房国)と越前国、能登国、越中国、越後国の4国の浮浪人2,000人が雄勝柵戸とされた。
また、相模、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野の7国が送った軍士器を雄勝桃生の2城に貯蔵した。
天平宝字4年(760年)1月4日
孝謙天皇により雄勝城造営を指揮した按察使鎮守将軍正五位下の藤原朝狩が従四位下に叙せられた。
このほか、陸奥介鎮守副将軍従五位上の百済足人、出羽守従五位下小野竹良、出羽介正六位上百済王三忠が1階級進級となった。
天平宝字4年(760年)3月10日
没落した官人の奴233人と婢277人の計510人を雄勝城に配して解放し良民とした。
天平神護元年(767年)11月8日
雄勝城下の俘囚400人余が、防衛にあたることを約束し内属を願ったためこれを許した。
宝亀7年(776年)2月6日
陸奥国から20,000の軍を発して山道・海道の賊を討伐するよう言上があったため、出羽国に4,000の軍を発して雄勝道から陸奥の西辺を討伐するよう命じた。
宝亀11年(780年)
賊に襲われ、雄勝・平鹿の2郡の百姓は業を失った。
散り散りになった民衆を集め、郡府を再建し口分田を支給する。
延暦20年(801年)
雄勝城の鎮守府兵士の兵糧として、毎年越後国と佐渡国から大量の米と塩が輸送される。
元慶2年(878年)
雄勝城は10道が交差する要衝の地であり、出羽国の要害となっている。
元慶5年(881年)2月26日
雄勝郡、平鹿郡、山本郡の百姓の調庸が再開されることとなる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原朝狩が雄勝城〔おかちのき〕を造営してから、父親が原因で起こった「藤原仲麻呂の乱」で朝狩が殺されるまで、雄勝城周辺の情勢は平穏だった。しかし、後任者が圧制をやり始めたのが分かる。
どうして分かるのでござ~♪~ますか?
776年と780年に「賊に襲われた」と書いてあるけれど、周辺の荒蝦夷が圧政に耐えかねて、また暴れだしたのですよう。
分かりましたわ。でも、その事と歴史ロマンがどのように関係しているのでござ~♪~ますか?
朝狩は多賀城の大改修も任されたのだけれど、その時建てた石碑の次の文章をもう一度読んでみてください。
(ishibumi2.jpg)
多賀城から京(奈良の平城京)に至るには、武蔵までは南西方向に歩いてゆき、さらに西に向かって歩いてゆく。その距離は1500里。
蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の西の国界(くにざかい)までは、南西方向に120里。
常陸国(ひたちのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南に向かって歩き、さらに西に向かって歩き、その距離は412里。合計で532里である。
下野国(しもつけのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南西方向に274里。合計して394里である。
靺鞨国(まっかつのくに)の西の国界までは、西に歩いてゆき日本海に至る。海を渡り、さらに西へ歩いてゆく。その距離は3000里である。
これは藤原朝狩が書かせたものですよう。
上の靺鞨国(まっかつのくに)とは、一体どこにある国なのでござ~♪~ますか?
ウィキペディアの説明を読んでみてください。
靺鞨(まっかつ)
(japan13.jpg)
靺鞨とは、中国の隋、唐時代、勿吉(もつきつ)の表記が変化したものと考えられる。
以下に記すように単一民族集団ではない。
靺鞨の中では、次の7部が特に強大であった。
現在の地理との同定は諸説あり、下記の例はあくまで一説である。
1) 粟末部 - 現在の吉林市
2) 白山部 - 粟末部の東南、現在の吉林省敦化、延辺
3) 伯咄部 - 粟末部の北、現在の拉林河流域
4) 安車骨部 - 伯咄部の東、現在の依蘭県以東
5) 拂捏部 - 安車骨部の東
6) 号室部 - 拂捏部の東、現在の綏芬河流域
7) 黒水部 - 安車骨部の東北、現在の同江から伯力までの黒竜江両岸
上記7部の外、思慕、郡利、窟説、莫曳皆、虞婁、越喜、鉄利のような小部族が、外満州(現在の黒龍江以北とロシア沿海地方)に居住していた。
総じて言えば、靺鞨は、高句麗に服属し、後に渤海を建国した南の粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)と、後に遼国、金国、清国を建国した女真族の黒水靺鞨(こくすいまっかつ)に二分される。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、靺鞨(まっかつ)部族たちの国という意味ですよう。この場合、粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)が立ち上げた渤海という国と、その北の黒水靺鞨(こくすいまっかつ)部族たちが立ち上げた国ですよう。この国は「黒水靺鞨」と呼ばれていたようです。
藤原朝狩は、この国の人たちと交易するつもりだったのでござ~♪~ますか?
まず間違いなく、そのつもりだったろうと思います。荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたやり方を見ると、容易に彼のビジョンが見えてきますよう。
そうでしょうか?
渤海(ぼっかい)【698年建国ー926年滅亡】は、当時、日本と交流するようになっていた。
どうしてでござ~♪~ますか?
7世紀前半になると日本と新羅の関係が悪化した。それで日本は渤海が興(おこ)る前の高句麗と外交関係を強化したのですよう。
同盟を結んで新羅を牽制しようとしたのでござ~♪~ますか?
そうです。その当時、高句麗の東に粛慎(しゅくしん)国がありました。日本ではこれを「みしはせ」と呼んでいた。阿倍比羅夫(ひらふ)の遠征記録を見ると粛慎(みしはせ)が出てきます。当時の大和朝廷が、粛慎と高句麗へ接近を図ろうとしたのですよう。そう言う訳で、高句麗は日本へ使節を18回も送り込んでいます。
日本は高句麗とお友達になった訳でござ~♪~ますわね。
そうです。おそらく卑弥子さんもそうだと思うけれど、学校の日本史では、その当時の東北より北の地域の活動は勉強しなかったと思うのですよう。
そうですわ。アイヌ人を日本人が征伐に行ったぐらいの事しか知りませんわ。
そうでしょう!でも、実は、上の地図を見ても分かるように、東北以北でも活発に活動している人々は居たのですよう。例えば、そのころサハリンには流鬼(りゅうき)と呼ばれる人たちが住んでいた。この人たちは大和朝廷と同じように唐の貞観14年(舒明12年、640年)に長安に朝貢使節を派遣しているのですよう。19年後の斉明5年(659年)には、蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の使節が大和朝廷(倭国)の遣唐使に随行して長安を訪れています。
そのような事は日本史で勉強しませんでしたわ。
当然の事だけれど、渤海は「蝦夷国(かいのくに)」とも交流を持っていた。
日本海をいろいろな国の船が行き来したのでござ~♪~ますわね。
そうですよう。だから、藤原朝狩が生きていたら、「蝦夷国(かいのくに)」、「流鬼(りゅうき)国」、「渤海」、「黒水靺鞨」と活発に交流したと思うのですよう。 そのために朝狩は父親の命令で東北地方に送り込まれたのだと僕は思っているのですよう。
つまり、東日本連合王国の構想を朝狩が抱いていたとデンマンさんは思っているのですか?
そうですよう。 それが僕の言いたかった歴史ロマンですよう。 うししししし。。。
宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんも この歴史ロマンに興味を持ったのでござ~ますか?
もちろんですよ。。。
デンマンさんの
“歴史ロマン”は
とっても面白いと
思いましたわ。。。
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宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんも こうして「面白い」と言ってくれたのですよ。。。 だから、卑弥子さんも 信じてねぇ~。。。
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