クラシック鑑賞 16 (PART 1)

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デンマンさん。。。、最近、クラシックにハマっているのですかァ~?

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僕はクラシックは、どちらかと言えば苦手なんだよ。。。
それなのに、どういうわけで、最近オイラと たびたびクラシックを鑑賞するのですか?
オマエは不満なのォ~?
いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るような気持ちです。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?

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あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みにやって来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!
分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのクラシックの曲を鑑賞するのですか?
オマエが“後奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!
A.11 Claude Achille Debussy (1862 – 1918)
大きなガラス窓のむこうでは、木々が紅葉して静まりかえっている。
世界は、私に、何も、期待してはいない。ただ、もし、超越が存在するならば、それでも、それは、私を憶えて、覚えてくれるかも知れない。
何か具体的なものに接したくなったとき、私は、音楽、Musizierenをする。そこには、具体的な音があり、具体的な情緒がある。
音楽は果たして抽象芸術なのであろうか。私は、何も、音楽が具体的に何ものかを描写している、と書いているのではない。そもそも、<描写音楽>などというgenreが、未だかつて存在したことがあったであろうか。<恋愛小説>などという言葉と同様に、一種の公共主観の産物なのだ、と思わないでもない。
W. Gieseking以来この方、誰がC.A. Debussyの音楽を曖昧模糊に演奏したであろうか。明晰に奏かれたDebussyなどという、無神経で紋切り型の批評家の文章が多すぎる。音楽そのものではなく、音楽をだしに使って金儲けをしている輩がそれだけ多い、ということであろう。
Debussyは、断崖の上に立ってMarguerite Longに、海の音が聴こえるか、これほど音楽的なものは無い、と言ったそうである。確かに、彼の音楽には、外界の光、影と音がさしこんでいる。その意味でのみ、彼の音楽は<印象派>の絵画に通じるところがある。音楽に瞬間がなだれ込んできた、と彼の音楽を表現したのはP. Boulezであった。<印象派>の画家が全てを再検討したように、Debussyもまた、全てを自分の耳で再検討した。その点に於いては、彼のamateurismeは、フランス伝統のそれを超えている。
ここ、トロントでは、朝おきると小鳥の声が煩い、などという人に出会うことがある。私は、煩いとは感じはしないが、とりわけに小鳥の鳴き声を愉しむ趣味があるわけでもない。やはり、Paulusの言うように、被造物は虚無に服している、と思う。小鳥の声に意味や情緒を感じるのは人間の恣意であって他には何もない、という思いが強い(草子地:ここでは、鳥の生存や生殖に関る本能についてはふれてはいない。極論するならば、人間を含めてのそれらもまた虚無か。しかし、それに関係なく、私も、雄のcardinalは、姿も色も声も美しい、と人並みには感じてはいるのである。)。それ故、O. Messiaenのcatholicismeの音楽は、作曲家の技法のみを聴くはめになってしまい、それはそれで構わないのであろうが、一方、感興が湧くと、あ、嵌められたのではないか、と反射的に用心してしまい、しらけた気分になること夥しい次第である。やはり、聴き手の思考、思想は、感性にも決定的な影響を及ぼすものだと思う。
ただ、私は、彼らをどこかで信じているのである。あるがままの自然を含めて、全てを肯定するのには、その背後に巨大なnihilismeがなければならない(草子地:我々はエデンの園に住んでいるのではないのである)。また、その巨大なnihilismeの背景には超越が存在しなければならない。さもなくば、そのnihilismeに頷いている、その瞬間の自身の存在は頷ける存在であるかどうか、という問題が背理として残るからである。これでは、ただ問題が後退しているだけであろう。要は、全てを肯定するのでなければ、全ては肯定しないという当たり前の選択があるだけである。一つを除いて全てを否定するnihilismeなどがあったとしたならば、それは、部分否定のnihilismで、それこそ笑い種であろう。それは、V.E. Franklの言う<傲慢>にほかならないではないか。簡単に言ってしまえば、全否定は、何故か、集合論の矛盾に通じる、ということでもある。
それ故に、Debussyは、何かを言われても、唇の端を少し歪めて冷笑するしかなかった。彼は、誰にとっても苦手な人物であったであろう。彼もまた、病むべきと創られながら、健やかにと命ぜられた人間の一人ではなかったか。未完の<<La Chute de la Maison Usher>>を聴くと、そのような気がする。<<Pelléas et Mélisande>>でさえも、活き活きとしていたのは、暴力的なGolaudだけではなかったか。他は、皆、何か、存在感が希薄なのである。
沈黙:Generalpause: S. Kierkegaardは、永遠とは無限が瞬間に出会う場である、と書いていた。彼の弁証法の策略に気づいてからは、私は、もはや、彼の著作に何らの深遠な風景をも視ることも無くなったが、この言葉は、いまだ、心に残っている一つである。
沈黙は金、雄弁は銀、と人は言う。ただし、そこでは、何に対し沈黙し、何に対して雄弁であろうとするかは、当然のこととして問われなければならないであろう。
神のなされることは、皆、その時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は、神のなされるわざを、始めから終りまで見きわめることはできない。―― 伝道の書第3章11節。
さて、<<La Mer>>を聴こう。
蛇足 (コーダ):
私もまた、このようなものを、音楽をだしに使って書いてはいるが、それは、音楽を聴きながら考えたこと、聴いた後の私の考えを書いているのであって、考えて書けば書くほど金儲けなどとは遠ざかっているいるのを自覚しているのである。
127-128ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より

あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やラテン語が入り混じっている。。。

デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。
それは、オマエの極めて個人的な見解だと思うのだよ! むしろ独断と偏見だと言っていい。。。 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!
134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?
いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。
マジで。。。?
僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。
A.11 クロード・アシル・ドビュッシー
(1862 – 1918)

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大きなガラス窓のむこうでは、木々が紅葉して静まりかえっている。
世界は、私に、何も、期待してはいない。
ただ、もし、超越が存在するならば、それでも、それは、私を憶(おぼ)えて、覚(おぼ)えてくれるかも知れない。
何か具体的なものに接したくなったとき、私は、音楽をいろいろと聴いてみる。
そこには、具体的な音があり、具体的な情緒がある。
音楽は果たして抽象芸術なのであろうか。
私は、何も、音楽が具体的に何ものかを描写している、と書いているのではない。
そもそも、<描写音楽>などというジャンルが、未だかつて存在したことがあったであろうか。
<恋愛小説>などという言葉と同様に、一種の公共主観の産物なのだ、と思わないでもない。
ヴァルター・ギーゼキング以来この方、誰がドビュッシーの音楽を曖昧模糊に演奏したであろうか。
明晰に奏かれたドビュッシーなどという、無神経で紋切り型の批評家の文章が多すぎる。
音楽そのものではなく、音楽をだしに使って金儲けをしている輩がそれだけ多い、ということであろう。
ドビュッシーは、断崖の上に立ってマルグリット・ロンに、海の音が聴こえるか、これほど音楽的なものは無い、と言ったそうである。
確かに、彼の音楽には、外界の光、影と音がさしこんでいる。
その意味でのみ、彼の音楽は<印象派>の絵画に通じるところがある。
音楽に瞬間がなだれ込んできた、と彼の音楽を表現したのはピエール・ブーレーズであった。
<印象派>の画家が全てを再検討したように、ドビュッシーもまた、全てを自分の耳で再検討した。
その点に於いては、彼のアマチュアリズムは、フランス伝統のそれを超えている。
ここ、トロントでは、朝おきると小鳥の声が煩い、などという人に出会うことがある。
私は、煩いとは感じはしないが、とりわけに小鳥の鳴き声を愉しむ趣味があるわけでもない。
やはり、ステファン・パウルスの言うように、被造物は虚無に服している、と思う。
小鳥の声に意味や情緒を感じるのは人間の恣意であって他には何もない、という思いが強い。
(草子地:ここでは、鳥の生存や生殖に関る本能についてはふれてはいない。
極論するならば、人間を含めてのそれらもまた虚無か。
しかし、それに関係なく、私も、雄のショウジョウコウカンチョウは、

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姿も色も声も美しい、と人並みには感じてはいるのである。)
それ故、オリヴィエ・メシアンのカトリック教会の音楽は、作曲家の技法のみを聴くはめになってしまい、それはそれで構わないのであろうが、一方、感興が湧くと、あ、嵌められたのではないか、と反射的に用心してしまい、しらけた気分になること夥しい次第である。
やはり、聴き手の思考、思想は、感性にも決定的な影響を及ぼすものだと思う。
ただ、私は、彼らをどこかで信じているのである。
あるがままの自然を含めて、全てを肯定するのには、その背後に巨大な虚無主義がなければならない。
(草子地:我々はエデンの園に住んでいるのではないのである)
また、その巨大な虚無主義の背景には超越が存在しなければならない。
さもなくば、その虚無主義に頷いている、その瞬間の自身の存在は頷ける存在であるかどうか、という問題が背理として残るからである。
これでは、ただ問題が後退しているだけであろう。
要は、全てを肯定するのでなければ、全ては肯定しないという当たり前の選択があるだけである。
一つを除いて全てを否定する虚無主義などがあったとしたならば、それは、部分否定の虚無主義で、それこそ笑い種であろう。
それは、ビクター・エミル・フランクルの言う<傲慢>にほかならないではないか。
簡単に言ってしまえば、全否定は、何故か、集合論の矛盾に通じる、ということでもある。
それ故に、ドビュッシーは、何かを言われても、唇の端を少し歪めて冷笑するしかなかった。
彼は、誰にとっても苦手な人物であったであろう。
彼もまた、病むべきと創られながら、健やかにと命ぜられた人間の一人ではなかったか。
未完の<<アッシャー家の崩壊>>を聴くと、そのような気がする。
<<ペレアスとメリザンド>>でさえも、
活き活きとしていたのは、
暴力的な王太子ゴローだけではなかったか。
他は、皆、何か、存在感が希薄なのである。
キルケゴールは、永遠とは無限が瞬間に出会う場である、と書いていた。
彼の弁証法の策略に気づいてからは、私は、もはや、彼の著作に何らの深遠な風景をも視ることも無くなったが、この言葉は、いまだ、心に残っている一つである。
沈黙は金、雄弁は銀、と人は言う。
ただし、そこでは、何に対し沈黙し、何に対して雄弁であろうとするかは、当然のこととして問われなければならないであろう。
神のなされることは、皆、その時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠を思う思いを授けられた。
それでもなお、人は、神のなされるわざを、
始めから終りまで見きわめることはできない。
―― 伝道の書 第3章11節。
さて、<<海>>を聴こう。

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追記(コーダ):
私もまた、このようなものを、
音楽をだしに使って書いてはいるが、
それは、音楽を聴きながら考えたこと、
聴いた後の私の考えを書いているのであって、
考えて書けば書くほど金儲けなどとは
遠ざかっているいるのを自覚しているのである。
(赤字はデンマンが強調)
127-128ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より

「超越が存在するならば、それでも、それは、私を憶(おぼ)えて、覚(おぼ)えてくれるかも知れない」と、オマエは書いているのだけれど、これって どうも気になるのだよ!

どうしてっすかあああァ~。。。?
「私をおぼえて、おぼえてくれるかもしれない」と同じ事を2度繰り返しているように聞こえるのだよ。。。
それは、デンマンさんの勉強不足ですよ。。。 オイラは同じ事を繰り返して書いたわけじゃない。。。 「憶(おぼ)える」と「覚(おぼ)える」は意味が微妙に違うのですよ。。。
マジで。。。?
ちょっと次の説明を読んでみてください。。。

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1)「覚える」は、「覚る(さとる)」「目が覚める(さめる)」です。
「見」という字が入っている。
...(見る等)体感して(覚る)場合は、「覚える」になります。
2)「憶える」は、「心」と「意」です。
「意」は「心に音(おさえる)」という意味。
...忘れないものとして(心)に(おさえる=とどめる)場合は、「憶える」になります。
☆「覚える」は、(1)(2)の両方の場合に、広く使用できますが...
☆「憶える」は、(1)の場合には、使用しません。(2)のような場合に、使用します。
『「覚える」と「憶える」の違い』より

デンマンさん! 「憶(おぼ)える」と「覚(おぼ)える」には、このような意味の違いがあるのですよ。。。

なるほどォ~。。。 オマエは、ちゃんと意味の違いを理解して紛(まぎ)らわしい文を書いたというわけだァ。。。
そうです。。。 いけませんかァ~?
いや。。。 そういうことなら、別に異存はないけれど。。。
他に何か?
あのさァ~、オマエの文章には、たびたび「超越」が出てくるのだけれど、これってぇ、いったい何?
じゃあ、オイラが説明すると デンマンさんに信じてもらえないような気がするので、ウィキペディアの説明を読んでみてください。。。
超越

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超越とは、普通の程度を遙かに越えること、または、ある物が別の高い次元にあることを表す語彙・概念である。
ここでは後者、とりわけ西洋の神学や哲学(形而上学)における、特殊な用法としての「超越」(transcendence)について解説する。
神学や哲学(形而上学)で用いられる概念としての「超越」(transcendence)は、例えば神が現実世界の外にあるとか対象が人間の意識とは独立に存在するという考え方である。
対義語は「内在」(immanence)。
スコラ哲学においてはアリストテレスの10範疇の内に包摂されない存在の属性の事をさし、またカントは可能的経験を超える物、すなわち感性的な直感の対象となり得ないものを超越と考えたほか、ヤスパースは現存在から実存に飛躍することをさし、哲学は超越することにほかならないとした。
出典: 「超越」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

なるほどォ~。。。 早い話が、「神」と言うことだなァ~?

でも。。。でも。。。、「神」と言ってしまうと問題があります。。。
どうして。。。?
「神」を信じない人もいますから。。。
なるほどォ~。。。 実は、僕も「神」を信じていないのだよ。。。
マジで。。。? じゃあ、デンマンさんは「超越」も信じることができないのですか?
いや。。。 信じることができるよ。。。
ほおおおォ~。。。 デンマンさんが「超越」を信じることができるとは思いませんでした。。。 どういうわけで「超越」を信じることができるのですか?
ちょっと、次の小文を読んで欲しいのだよ。。。
エルンスト・ヘッケル(ダーウィンと同時代の生物学者)は大変想像力に富んだ人間で、「個体発生は系統発生を繰り返す」という名言を吐いた。
系統発生とは、進化の歴史において単純な生物から複雑なものへとだんだん進化していった過程のこと。
固体発生とは、固体が受精卵から親へと発生していく過程のことである。
私たち一人ひとりが、卵から親になっていく過程において、生物進化の歴史を繰り返しているというのがヘッケルの主張である。
ヒトは胎児の時代にエラ孔をもっているが、これは祖先の魚の時代を、発生において繰り返している証拠ともみなせる事実である。

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現実には、個体発生が進化の歴史を厳密に繰り返しているわけではないので、この有名な言葉は、そのままでは正しくない。
しかし自分自身が生命38億年の歴史を再度経験しているのだというイメージを持つこと自体は、自身の存在の重みを感じさせ、まことに結構なことだと私は思っている。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
(9ページ)『ウニはすごいバッタもすごい』
著者: 本川達雄
2017年6月10日 第10刷発行
発行所: 株式会社 中央公論新社

ヒトは胎児の時代にエラ孔をもっているが、これは祖先の魚の時代を、発生において繰り返しているわけだよ。。。 つまり、オマエも僕も受精卵から母親の体外に出るまでに、38億年の歴史を経験してきたというわけだよ。。。

なるほどォ~。。。 で、どこに「超越」が出てくるのですか?
我々を含めた大自然、大宇宙を創造して支配しているモノがあるに違いない! だとすれば、それは「自然の摂理」か「宇宙の摂理」ではないのかァ!
要するに、デンマンさんの「超越」は「自然の摂理」、あるいは「宇宙の摂理」ですか?
いや。。。 僕だけがそう感じているわけではないと思う。。。
他に誰が。。。?
クロード・アシル・ドビュッシーだよ。。。 ヒトは胎児の時代にエラ孔をもっているが、これは祖先の魚の時代を、発生において繰り返しているとは、上の図を見ればよ~く解るのだよ。。。 つまり、ドビュッシーも、彼を含めて人間のふるさとが海であることをしみじみと感じ取りながら、交響詩《海》を作曲したのだよ。。。

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それは知りませんでした。。。

他に誰も言ってないよ。。。 僕が言い出したまでだよ。。。

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(すぐ下のページへ続く)