酒巻ミステリー(PART 1)

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デンマンさん、酒巻ミステリーってぇ、どういうミステリーなのですかァ~?

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酒巻というのは地名なのですよ。。。 小百合さんは聞いたことがありますか?
記憶のどこかで 馴染(なじ)みがあるような気もするのですけれど、はっきりと思い出せませんわァ~。。。
そのうち思い出しますよ。。。 まず、次のページを見てください。。。

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これは Denman Blog の2013年9月24日に投稿した『軽井沢タリアセン夫人のお願い』という記事です。。。 右のサイドバーの人気リンクの③番に注目して欲しい。

左側に表示してある地図が ③番のリンクをクリックすると表示されるのですか?
そうなのですよ。。。 サイドバーのリストは後ろ半分が脱落しているので、左側に、その全体を表示したのです。。。
つまり、上の地図の青色の丸で囲んだ酒巻に注目したネット市民がいたのですか?
そういうことです。。。
。。。で、このリンクは、どの記事の中に出てくるのですか?
調べたら、次の記事に中に出てくるのですよ。。。

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あらっ。。。 『大名行列@行田』というタイトルの記事ですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 この記事の中ほどに、酒巻の地図が出てくるのですよ。。。
赤枠で囲んだ地図ですか?
そうです。。。 この『拡大する』 をクリックしたネット市民がいたわけですよ。。。
なぜ酒巻に興味を示したのですか?
このネット市民は「古墳オタク」なのです。。。
なぜ、「古墳オタク」だと、デンマンさんには判るのですか?
ちょっと次の説明を読んでみてください。
酒巻古墳群

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酒巻古墳群(さかまきこふんぐん)は、埼玉県行田市に存在する古墳群である。
現在はすべて消失し、田畑となっている。
概要
前方後円墳3基、円墳20基の、合計23基。
この他に存在すると言われている未確認のものが1基ある。
5世紀末から7世紀初頭の築造とされている。
ほぼすべての古墳が水田面下に埋没した状態で散在している。
地元の人は「飛び島地」と呼び、墳頂部をならして畑として利用していた。
酒巻古墳群の存在する行田市酒巻地区は、加須低地に位置している。
この加須低地は関東造盆地運動により、利根川からの河川堆積物を受けて徐々に沈降しているため、古墳群の墳丘自体も沈降している。
1964年(昭和39年)に斎条古墳群の発掘調査を行う時点で、斎条5号墳が地表から1-1.5メートルの深さまで埋没していたことから、酒巻古墳群も同じように沈降してしまったと考えられる。
1983年(昭和58年)、さすなべ排水路の改修工事と県営かんがい排水整備事業が行田市酒巻地区にて実施されることになり、それにより工事より先に発掘調査の方を実施する運びとなった。
1983年(昭和58年)から1988年(昭和63年)までの調査により、23基の古墳の概形、埋葬状況などが調査された。
古墳
酒巻1号墳 - 前方後円墳 全長46メートル、前方部幅28メートル。6世紀後半の築造。1号墳のみが畑として現存していた。後円部に胴張り式の石室が2つある。石室から7世紀中頃の須恵器が出土。
酒巻2号墳 - 円墳 横穴式石室がある。
酒巻3号墳 - 円墳 胴張り式の石室がある。
酒巻4号墳 - 円墳
酒巻5号墳 - 円墳 胴張り式の石室で7世紀の築造。1961年に調査が行われた際には「野畑古墳(のばたこふん)」と命名された(その後に改称)。
酒巻6号墳 - 前方後円墳 横穴式石室で6世紀後半の築造。
酒巻7号墳 - 円墳
酒巻8号墳 - 前方後円墳 全長27メートル。6世紀後半の築造。
酒巻9号墳 - 円墳
酒巻10号墳 - 円墳 径9メートル。幅2.5メートルの周壕がある。埋葬施設が竪穴式石室と木棺直葬の2つ確認されている。6世紀前半の築造。
酒巻11号墳 - 円墳 径14メートル。縦3メートル、横1メートルの石室が確認されている。6世紀後半の築造。
酒巻12号墳 - 円墳 径11メートル。幅2.5メートルの周壕がある。6世紀前半の築造。
酒巻13号墳 - 円墳 6世紀前半の築造。
酒巻14号墳 - 円墳・直径42メートル 1986年の調査で、地表から1.3メートルほど埋没した状態で発見された。6世紀末の築造。円筒埴輪78体、朝顔形埴輪2体、人物埴輪10体、馬形埴輪4体、器財形埴輪22体が出土した。ただし、その他の遺物はきわめて少ない。遺物からは当時の朝鮮半島との交流を示すものが多く発見されている。人物埴輪No.9「力士」(高さ94センチメートル)は円領の衣服をまとい、腰紐に鈴をつけた褌(ふんどし)を着用しているという珍しい容姿をしており、これは韓国にある古墳の壁画にのみ見られていたものである(褌を着用した埴輪は日本国内で7例あるが、いずれも裸体に褌である)。また、馬形埴輪「旗を立てた馬(高さ75センチメートル)」は鞍の後ろにパイプ状の蛇行状鉄器があり、このような形での発掘は、現在日本で唯一のものである(それまでは蛇行状鉄器は使い道がはっきりしていなかった)。朝鮮半島の高句麗古墳の壁画に同じような表現があることが分かっている。
これらの埴輪は「埼玉県酒巻14号墳出土埴輪 95点」として、2007年6月8日国の重要文化財(考古資料)に指定された。
酒巻15号墳 - 前方後円墳 全長34.2メートル、前方部幅14.5メートル、後円部径10.2メートル。6世紀後半の築造。地表から0.9メートルほど埋没しており、養殖池の埋め立て工事により偶然発見された。短冊形横穴式石室がある。酒巻15号墳から出土した形象埴輪は、2007年3月16日、埼玉県の有形文化財(考古資料)に指定された。
酒巻16号墳 - 円墳 径(東西方向)10.55メートル。6世紀前半の築造。
酒巻17号墳 - 円墳 径(南北方向)9.8メートル。6世紀前半の築造。
酒巻18号墳 - 円墳 径(東西方向)11.68メートル。
酒巻19号墳 - 円墳 6世紀中頃の築造。
酒巻20号墳 - 円墳 6世紀前半の築造。
酒巻21号墳 - 円墳 径27メートル。二室構造をもつ胴張り式横穴式石室があるほか、埴輪や須恵器が出土、6世紀中頃の築造。
酒巻22号墳 - 円墳 6世紀中頃の築造。
酒巻23号墳 - 円墳 6世紀中頃の築造。
出典: 「酒巻古墳群」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらっ。。。 現在、23基の古墳すべてが消失し、田畑となっているのですか?

そういうことです。。。
つまり、なぜ23基の古墳すべてが消失し、田畑となっているのか? それがミステリーなのですか?
そういうことですよ。。。
つまり、酒巻の地図を拡大して見た「古墳オタク」のネット市民は、もしかして、それ以降に発見された新たな古墳が地図に書き入れられているかもしれないと思ったのですか?
たぶん、そうだと思うのです。。。 でも、最近見つかった古墳はありません。。。
。。。で、どういうわけで23基の古墳すべてが消失し、田畑となっているのですか?
たまたまバンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら、その説明がありましたよ。。。
関東平野は沈降している

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関東平野は、中央部が沈降し、周辺部が隆起する、「関東造盆運動」という地殻変動を受けています。
つまり、関東平野の真ん中は沈む土地、沈降盆地なのです。
そこに利根川や荒川、多摩川など大きな河川が流入し、関東山地や北側の東北日本の山地から供給された岩屑(礫、砂、泥など)が、この沈む低い土地に堆積して関東平野ができています。
関東平野の地下には、関東山地に分布しているのと同じ中・古生代(5億5000万年前~6500万年前)に形成された基盤岩を覆って、新生代第3紀以降の堆積物が最大で3000メートル以上の厚さで堆積しています。
これは日本アルプスの大きさに匹敵します。
関東造盆運動で沈降している中心部は、茨城県の古河や東京湾北部などいくつかあります。
隆起している周辺部は、多摩丘陵などの丘陵地や、房総半島、三浦半島周辺です。
沈降の中心部に近い埼玉県行田市では、古墳が田んぼの下に埋まっていたのが見つかった事例があります。
現在、これらの古墳は酒巻古墳群と呼ばれ、5世紀末から7世紀にかけて成立したとされています。
当時は当然、洪水の被害を受けないような高い土地に作ったものと考えられますが、沈降運動で徐々に地盤が低下したため、やがて洪水を受けるようになり、数百年の間に、堆積物(沖積層)に埋もれてしまったのです。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
(109-110ページ) 『日本列島100万年史』
著者: 山崎晴男 & 久保純子
2017年2月2日 第2刷発行
発行所: 株式会社 講談社

あらっ。。。 「日本沈没」ならぬ、「関東平野沈没」ですわねぇ~。。。 やがて、関東平野がどんどん沈んで、海の底に沈んでゆくのかしらァ~?

まさか、海の底までは沈まないでしょう!
つまり、この事を言うために、わざわざ私をお呼びになったのですか?
もちろん、それだけじゃありませんよ。。。 酒巻の地図が出てくる『大名行列@行田』の記事には次のメールが出てくるのです。。。

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Subj:真心のこもった
手作りの弁当ありがとう!
きゃはははは…
From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: Wed, December 2, 2015 0:06 AM
Pacific Standard Time
日本時間:12月2日(水)午後5時6分
バンクーバーも行田もそれほど寒さに変わりがありません。
ちょうど行田が寒かったのかもしれません。
でも、12月1日は実に良い天気でしたねぇ。
小百合さんも洗濯物をたくさん干したことでしょう!
ところで、11月29日の日曜には、手作りの弁当をありがとう!
まさか、小百合さんが弁当まで作ってくるとは思いませんでした!(微笑)

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小百合さんが連れてきたトモユキ君が釣りをした場所。。。 と言うよりも僕と小百合さんが弁当を食べて アイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ場所は知る人ぞ知る 極めて有名な場所なのですよ。
。。。ていうかあああァ~ 小百合さんと僕のために、わざわざ歴史が用意してくれた場所なのですよ。
ぎゃははははは。。。
どういうこと。。。? と小百合さんが不思議に思うかもしれません。
僕も、改めて本を読んでみてビックリしているのですよ。
では、その箇所をここに書き出しますから、じっくりと読んでみてね。
行田船着き場跡

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(行田)市の中心から国道(125号線)を東へ約500メートル、下町のT字路の左に、古風な木造洋館(デンマン注: 現在は岡田カメラ店)がある。
田山花袋の『田舎教師』に出て来る斎藤医院(文中では原田医院)、それから北へ左折して150メートル、またT字路で、右側が遊園地になっている。

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この公園の地が、行田船着き場で、長野口御門、番所、高札場があった。
(略) つい最近まで、石垣があって、如何にも船着き場らしかった。

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(中略)
昔はどんな水路を通って、ここまで来たかわからないが、とにかく、今から400年前には、下町を中心に行田町が出来、一、六の市が立った記録は、成田氏時代からである。
そして300年前には、関西方面から、市日めあての商人が来たことが古文書に見えている。
天正18年(1590年)『家忠日記』に「宮津衆、行田の市(いち)に人を切る」とあって、京都府宮津の商人が来ている事を示している。
特に船着き場が栄えたのは、見沼代用水が出来てからであろう。
八代将軍吉宗が、普請奉行 井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが 1663-1738)に命じ、大宮市東の見沼干拓事業を起こし、旧芝川の水路を拡張して、見沼の溜水を荒川におとし、利根川の水を行田市下中條の今の利根道水路取入口(今、見沼代用水元圦口公園になっている)から、延々60キロメートルの水路を作り、更に通船堀を設け水運の便に供した、一大工事で、享保13年(1728年)の完成であるから、今から、270年も前の事である。
(中略)

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英照皇太后

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昭憲皇后
明治19年5月10日、英照皇太后、昭憲皇后陛下が、館林の「つつじヶ岡」に行啓された時、行田の橋本喜助宅で、御着替えをなされ、その荷物が、船で下町の船着き場に運ばれ、下町から橋本喜助宅まで大変な列で賑わった事を、私は祖母(安政6年生まれ)から聞いたことがある。
ついでに、その模様が、『埼玉県史』第7巻に出ているので書いておこう。
「明治19年5月10日午前7時30分新宿停車場より別仕立汽車にて御発車、9時鴻巣駅にて御下乗遊ばされ、同宿鈴木半右衛門方、行田町橋本喜助方等に御小休、川俣にて利根川を御渡船……」とある。
帰路も、橋本喜助方で御着替、鴻巣駅午後7時40分発、9時10分新宿駅御着とある。
吹上駅は明治18年3月1日開設であるのに、何故鴻巣駅(明治16年7月28日開設)で下車されたかわからない。
吹上駅では近くに小休される適当な家がなかったからだろう。
とにかく、行田の船着き場が、幕末から明治中頃まで栄えた事は、想像出来ない程だったらしい。
番所が今の久保田屋さんの所にあり、その前に長野口御門があって通行人を見張り、高札場がある程の賑わいだったという。
ところがある人から「あそこは晒し首場だったそうですね」といわれたので色々調査した結果、次の様な事情がわかった。
即ち弘化3年(1846年)蘭法医の河津省庵が本町横町で開業し、その名声が高くなり、御典医となった。
省庵は常に研究に励み、特に“腑分け”して医学の進歩をはかったが、当時人体を解剖することは許されなかった。
藩では先生の便宜をはかり、下町の高札場に晒し首をした。
それを近くの大長寺内に運び“腑分け”をして寺に葬ったという。

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省庵が日本の眼科医学史上の人となり、『眼科方規』『医則発揮』はそんな事情で生まれたのだろう。
藩の役人も医学の為に随分イキなはからいをしたものだと思う。
下町の晒し首の事実は、日本医学史上に役立ったわけである。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
5-9ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社
ということで、明治19年5月10日、行田の橋本喜助宅で着替えて、あの船着き場から英照皇太后、昭憲皇后が、船に乗って、川俣で利根川を渡り、館林の「つつじヶ岡」に行ったのですよ。

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なんと、その船着き場で 僕と小百合さんが弁当を食べたというわけなのです。 (爆笑)
もちろん、それだけではありません!
なんとォ~ 僕と小百合さんは館林の「つつじヶ岡」でも、何度か 10月桜を見たり、白鳥を見たりして、ルンルン気分で散歩したのですよ!
しかも、何度となく白いテーブルで小百合さんとアイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ大長寺までが出てくるのですよ!

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ぎゃははははは。。。
そういうわけで、この事でまた今日寝て起きたら バンクーバー市立図書館で記事を書くのです。
面白い記事になるので、小百合さんもぜひ読んでみてね。
とにかく、真心のこもった手作りの弁当ありがとう! きゃははははは。。。
では、今日も一日、小百合さんにとっても 素晴らしい日でありますように。。。
祈ってますねぇ~。
じゃあねぇ。。。バイバ~♪~イ。。。

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『大名行列@行田』より
(2016年1月19日)

つまり歴史が用意してくれた場所で、デンマンさんと私がお弁当を食べたということが言いたかったのですか?

そうです。。。 いけませんでしたかァ~?
(小百合さん、ブスッとして無言……。)
小百合さん。。。 急に気分でも悪くなったのですかァ~? (笑)
こういう記事を読まされると、ここまで読んできたネット市民の皆様は白けるのですわァ~。。。
ちょうど、友達の家に呼ばれて家族旅行のホームムービーを見せられるようにですかァ~?
分かっているなら、どうして、わざわざ こういう極めて個人的なメールを持ち出してくるのですかァ。。。?
だってぇ~、英照皇太后 や 昭憲皇后 も出てくるのですよう。。。

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英照皇太后

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昭憲皇后

3月の雛壇(ひなだん)から出てくるような昔の女性など ネット市民の皆様は興味がありませんわァ~。。。

あのねぇ~、その雛壇から出てくる古風な女性を見るのがシビレるという「古風女性オタク」もいるのですよう!

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(すぐ下のページへ続く)