女帝の平和 (PART 1)
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デンマンさん。。。、どういうわけで 女帝の平和 というタイトルにしたのでござ~♪~ますかァ?
実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。
天武新政権
673年2月27日に即位した天皇は、妻を皇后に立て、太政官のメンバー6人のうち右大臣中臣金を斬首に処したほかすべて辞めさせ、大臣を一人も置かず直接政務をみることにした。
皇族の諸王を要職に据えはしても、彼らに実権を持たせたわけではなく、臣下の合議や同意に基づかずに天皇自らが国家に君臨した。
壬申の乱によって「新たに天下を平らげ、初めて即位」した、と告げたことにうかがえるように、天武天皇は天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけたのである。
天皇の号もこの時期から明確に使用されるようになった。
飛鳥の地から皇后の持統天皇が詠んだ次の歌からは、平和の到来が告げられている。
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春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の
衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
129-130ページ 『文学で読む日本の歴史』
著者: 五味文彦
2015年7月30日 第1刷発行
発行所: 株式会社 山川出版社
デンマンさんは、上の著者の解釈にご不満でもあるのでござ~ますかァ~?
確かに、平和の到来が告げられているように読めるのだけれど、実は、持統天皇は天武新政権下の日本の平和を願ったわけじゃなく、自分の心の平和を希(こいねが)っている歌なのですよ。。。
デンマンさんは、どういうわけで そのようなことをおっしゃるのですか?
それは、持統天皇が“讚良皇女”と呼ばれていた頃の事を語らないとよく理解できない。。。
讚良皇女の幼少の頃の事件を
もう一度振り返ると。。。
乙巳の変(いっしのへん)から4年後の649年3月、
当時右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企てていると、
石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりとなった。
石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂では政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせた。
危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていた。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。
事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘(おちのいらつめ)は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのだった。
その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのだった。
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したという。
ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。
子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。
したがって、優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。
可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。
しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、ほかの誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。
斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。
つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。
大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。
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■『日本で最も有名な三角関係』
つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。
“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基でが近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。
そんな中で讃良皇女の心の支えは子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。
大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、皇后として最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。
しかしその後、皮肉にも、あれ程皇位につかせたかった我が子の草壁皇子が病気で亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。
持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?
草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の忘れ形見、軽(珂瑠)皇子でした。
そして、この孫を天皇につけたのです。文武天皇です。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。
聡明で非情である持統天皇が
なぜ怨霊を恐れるのか?
ここで持統天皇が詠んだ和歌をもう一度読んでみて欲しい。
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春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の
衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山
この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではなのです。
では、持統天皇は何を感じて お詠みになったのでござ~ますか?
これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を振り返って詠んだのです。。。 愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、僕は次のようにしか解釈できないのですよ。。。
春が過ぎて夏が来たようだ。
天の香具山に美しく真っ白な衣が
干してあるなあぁ~
でも、私の心はあの山の裏にある
磐余(いわれ)の池を見ているのです。
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大津皇子が自害する前に池の端で
辞世の歌を読んだという。
自害の後で、皇子の妻であり、
私の腹違いの妹でもある山辺皇女が
髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、
共に殉死したという。
痛ましいには違いない。
しかし私は、ああせねばならなかったのです。
怨霊になって
私を憎んでいるのかもしれないけれど、
私には他にとるべき道はなかったのです。
どうか、心安らかに眠っていて欲しい。
上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのですよ。。。
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この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があります。 この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。。。 現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ている。
ホントでございますかァ~?
僕は次のように考えているのです。
つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。
“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。
持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。
では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?
天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。
この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。
なぜか?
草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。
それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。
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■『性と愛の影に隠れて--万葉集の中の政治批判』
つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。
ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。
つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。
この事は持統天皇として即位してから、自分の血に固執したこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えれば、容易に察しがつきます。
上の系図を見れば、そのことが良く分かります。
この独占欲と権勢欲は讃良皇女の生い立ちを考えない限り理解できません。
しかも、この女性はその先例を父親の天智天皇と自分の夫である天武天皇との間に見ているのです。
つまり、この場合なら、草壁皇子が天智天皇にあたり、大津皇子が天武天皇にあたります。
天智天皇の皇太子になったのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。
このような状況を許せば、大海人皇子が天智天皇を暗殺して、その子の大友皇子を亡き者にしたように
大津皇子が草壁皇子を暗殺して皇位につくかもしれない。
その“禍の芽”を摘み、取り除くために大津皇子を亡き者にしなければならなかったのです。
なぜ大津皇子の怨霊を恐れたのか?
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現身(うつそみ)の
人なる吾(われ)や
明日よりは
二上山を
弟背(いろせ)とわが見む
(巻2-165)
この世に生き残った私は、
明日からは、
弟が葬られている
二上山を弟と思い見て、
慕い偲ぶことにしよう。
上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、
葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、
大津皇子の実の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。
死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。
つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、
この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。
大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、
大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って
伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、
伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、
弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。
平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。
大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、
大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が
皇子の霊を祈祷によって鎮めた。
つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、
皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。
持統天皇の心にも“後ろめたさ”があったのでしょうね。
だからこそ大津皇子の霊に恐れを感じた。
しかも、“大津皇子の霊が龍となって崇りを起こし”ていると言うもっぱらのうわさが流れている。
持統天皇が大津皇子の死体を掘り起こし
二上山にその怨霊と共に閉じ込める気持ちが分かるような気がします。
怨霊信仰
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非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。
原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。
『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。
しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。
その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」
SOURCE: 国史大辞典
持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、
後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。
つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、
この事実を我々に伝えようとしたわけです。
僕はそう信じているんですよ。
では、ここで 司馬遼太郎さんの言葉を書きます。。。 卑弥子さんも読んで欲しい。。。 生前、司馬遼太郎さんは、このようなことを言ってたのです。。。
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“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。
作者が50%で読者が50%。。。
そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”
名言だと思います。。。 あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか? それが問題です! 大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。 あなたも、全身全霊の力を込めて。。。 あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのですよねぇ~。 大伯皇女は、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れません。
それで、大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せた、とデンマンさんは主張するのでござ~ますかァ~?
もちろんです。。。
つまり、持統天皇は怨霊を恐れるあまりに鎮魂の歌として“春すぎて 夏来たるらし”の歌を詠んだわけなのですかァ~?
そうとしか 僕には考えられないのですよ。。。 自分の心に平安が訪れるようにと。。。
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