高級娼婦@パリ(PART 1)
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デンマンさん。。。 最近、パリへ行って高級娼婦と遊んだのですか? うふふふふふふ。。。
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やだなあああァ~。。。 僕は草食系の日本男児なのですよ。。。 パリで高級娼婦と遊んだら、魂を抜かれて地獄へまっさかさまに落ちてしまいますよ。。。 うへへへへへへへ。。。
なんだか、エロい笑いを浮かべていますけれど、どういうわけでパリの高級娼婦を持ち出してきたのですかァ~?
バンクーバー市立図書館で本を借りて読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。
近代絵画の父が暴いた
「パリの暗部」とは!?
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■『拡大する』
「近代絵画の父」として語られることがあるマネは、印象派の一人として語られることも多いのですが、彼は一度も印象派展には参加していません。
むしろ印象派展に出品することを断固として拒否し続けた画家でした。
当時、印象派はその斬新な画法が主流派の画壇から認められず、激しい批判に晒されていたためです。(略)
マネが選んだ主題は、原題「水浴」が表すように、当時パリ郊外のセーヌ河畔で流行していた水遊びのレジャーを描いたものです。
しかし、当時の保守的な観客にしてみれば、視線を観客の方に向けた慎みのなさや、理想化されていない生々しい裸体はあまりにも急進的過ぎました。(略)
この時代、裸体を描くのに「歴史画である」というもっともらしい「理由・言い訳」がまだ必要であったのに、あまりにも不自然であり言い訳が立たない裸体であり、あまりにも現実的過ぎる裸体だったのです。
批評家や観客は、この作品を「いかがわしい」「不道徳」として糾弾しました。(略)
この作品にフランス第2帝政時代の陰の部分を読み取ったのでした。
すなわち、売春の世界です。(略)
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ちなみに、第2帝政時代には多くの高級娼婦がパリに存在していましたが、社会の風紀の乱れに対する道徳観には厳しいものがありました。
写真が登場した結果、当時出回っていたポルノ写真を想像した者もいました。
絵画は「高貴」であるべきだった時代に、真似は人々に「現実」を突きつけるかたちとなってしまったのです。
この作品の構図自体は、ラファエロのデッサンを基にマルカントニオ・ライモンデ(1480頃~1534頃)が制作した銅版画「パリスの審判」(右下の3人に注目!)からの引用です。(略)
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そして、着衣の男性と女性の裸体との対比自体は、現在はティツィアーノ作として知られていますが、当時はジョルジョーネ(1476/78~1510)に帰属されていたルーヴル美術館の「田園の奏楽」からの引用でした。(略)
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ちなみに、現在のタイトル「草上の昼食」は、1867年の個展の際にモネの「草上の昼食」(1865~66年)にちなんで改題したものです。
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(90-96ページ)
ゴッホを精神錯乱させた弟との
切なすぎる事情
1890年の1月末に、弟テオとヨハンナ夫婦に息子が生まれました。
自分と同じフィンセント・ウィレムと名付けられた甥の誕生に大喜びしたゴッホは、早速贈り物にするため「花咲くアーモンドの木の枝」の制作に取り掛かりました。(略)
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7月6日、日帰りでパリに出かけたゴッホは、テオの経済的苦境を知ることになります。
父亡き後、オランダの実家にも送金していたテオは、経営を任されていたグーピル商会からの独立を考えていたため、自分がこれまでのように安定した収入が見込めないことをゴッホに伝えていました。
気まずく重い空気が家の中を漂っていました。
この頃、元来病弱だったテオの体調も芳しくありませんでした。
病気の赤ん坊の世話も重なり夫婦は疲れ切っていて、妻ヨハンナにいたっては疲労で寝込んでしまうほどだったのです。
ゴッホへの送金が、テオたちの苦悩と疲労に拍車をかけ、夫婦関係にも重石のように暗い影を落としていたのでした。
こうして弟夫婦の窮状に直面したゴッホは、今まで自分がテオに強いていた自己犠牲が、もうこれからは通りにくいということに気付きます。
テオにとって、自分よりも妻子の方が大切なのは明らかです。(略)
もう違った人生をやり直すには遅過ぎることを自覚していたゴッホは、傷つき、精神を病み始めるのでした。(略)
孤独や恐怖から逃げるように制作に没頭し、この時期に描いた「カラスのいる麦畑」には彼の精神状態が明確に現れているようです。
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(119-121ページ)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
『人騒がせな名画たち』
著者: 木村泰司
2018年10月5日 第1刷発行
発行所: 株式会社 マガジンハウス
なるほどォ~。。。 第2帝政時代には多くの高級娼婦がパリに存在していたのですわねぇ~。。。
そういうことです。。。
。。。で、第2帝政時代というのは いつ頃のことですか?
『ウィキペディア』に説明があるから読んでください。。。
フランス第二帝政
フランス第二帝政は、1852年から1870年まで存在した君主政体。
ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)が1851年12月2日にクーデター(フランス語版、英語版)によって議会を解散し、新たな憲法を制定した上で国民投票によってフランス皇帝に即位した。
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第二共和政期において、とりわけ六月蜂起後に保守・反動化した議会は、幅広い民衆の支持を得ることに失敗していた。
こうして反議会に傾いた民衆をルイ=ナポレオン大統領は取り込むことに成功した。
クーデターによる議会打倒を経て成立した第二帝政(第二帝国)は、権威主義的・反議会主義的な統治体制である一方、国民投票によって指導者を選出し、幅広い民衆に支持基盤をおいた点で、人民主権的、民主主義的な性格も有していた。
内政
第二帝政(第二帝国)は、「権威帝政」期と「自由帝政」期の二つの時期に大別できる。
1852年から1860年頃までは権威帝政と呼ばれ、ナポレオン3世のもとで言論・出版の自由などが規制され、権威主義的手法による統治が行われた。
こうした状況下でもナポレオン3世が高い支持を得た背景には、第二共和政の混乱を経て強力な指導者の下で政治的安定を求める世論が強かったこと、あいつぐ鉄道敷設・パリ市街改造などが経済発展と雇用創出に貢献したこと、
あいつぐ外征の成功によりナポレオン個人の威光が高められたことなどが挙げられる。
しかし1860年代に入ると、イギリスと結んだ自由貿易協定のためイギリスの工業製品が流入し、国内の資本家からの反発を招いた。
メキシコ出兵も失敗に終わり、外征を通じた威光高揚にも陰りが見えるようになった。
こうした中、権威主義的手法を維持することが困難となり、世論の支持をとりつけるためにも報道の自由を拡大したり、議会への大幅な譲歩をみせるなど、自由主義的な政策へと転換をみせた(「自由帝政期」)。
都市計画
フランス革命以降、政府に不満を持つパリ市民の蜂起は政権を揺るがしかねない事態であった。
当時のパリは網の目のような路地が多く、市民はバリケードを築いて軍隊の速やかな移動を封じた。
その結果、鎮圧のための戦闘が長引くこととなる。
これに苦慮したナポレオン3世は、万が一の市民蜂起に備え、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンにパリの大整備を命じ、街路を広くし、見通しをよくする大幅な都市改造を行わせた。
パリの改造計画は軍事面からの意味も持つとされる。
現在のパリはこのときにほぼ出来上がった(詳細は「パリ改造」を参照)。
外政
ナポレオン3世は1853年に勃発していたクリミア戦争に翌年より介入し、かつてモスクワ遠征でナポレオン1世を返り討ちにしたロシアに対して勝利を収めた。
1856年にはパリで講和会議を開催するなど中心的な役割を果たし、帝国内外に彼の威光を知らしめた。
かつてのナポレオンがそうであったようにヨーロッパにおけるナショナリズムの擁護者であろうとし、1859年のイタリア統一戦争にもサルデーニャ王国を支援して参戦した(ただし、途中でサルデーニャの意向に反しオーストリアと単独講和を行う)。
しかし、その理念はヨーロッパ外で適用されるものではなく、インドシナ、アフリカにおける植民地の拡張に尽力し、アメリカ大陸においてもメキシコ出兵を行った。
こうしたあいつぐ外征は、ナポレオン3世の威光を維持する上で必要不可欠であった。
しかし、当然ながら外征の失敗は彼の威信をおとしめることにもつながった。
また、日本の戊辰戦争においては、徳川幕府側を支援した。
出典: 「フランス第二帝政」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本史では明治維新の前の幕末の頃ですわねぇ~。。。
そうです。。。 ぺリーの黒船が浦賀にやって来た時から明治維新がこれから始まる頃までの時代です。。。
。。。で、どういうわけで高級娼婦@パリに注目したのですか?
あのねぇ~、この当時は日本の幕末、あるいは明治維新の頃でも そうだったけれど、現在と比べれば、大きな街には必ず公認売春宿や私設の売春宿があって、たくさんの娼婦がいたのですよ。。。 また、パリのような大都市には政治家や大富豪相手の高級娼婦もたくさんいた。
でも、その事とゴッホが関係あるのですか?
関係あるのですよ。。。 ゴッホはハーグ時代に娼婦と暮らしていたこともある。
ハーグ(1882年-1883年)時代
1882年1月、彼はハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴを頼った。
モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た。
ハーグの絵画協会プルクリ・スタジオの準会員に推薦したのもモーヴであった。
しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。
ファン・ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)という身重の娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている。
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シーンを描いた「悲しみ」
1882年4月ハーグ 素描(黒チョーク)
石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである。
ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった。
交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった。
同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた。
そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった。
ファン・ゴッホは同年6月、淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた。
一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した。
冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した。
ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、1883年5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている。
ファン・ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。
シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発った。
また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した。
出典: 「フィンセント・ファン・ゴッホ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
でも、ゴッホは娼婦のシーンと別れてパリに行ったわけでしょう?
そうです。。。 結局 パリはゴッホには住みにくい場所だったのですよ。。。 それで、南仏のアルルに移って住むようになったのです。。。
それで、アルルでも、ゴッホは娼婦と関わりを持ったのですか?
あのねぇ~、それがミステリーなのですよ。。。
どういうことですか?
上の本も書いてあるようにゴッホは精神を病むようになったのです。。。
どうして。。。?
あのねぇ~、弟のテオがヨハンナと婚約したことを手紙で告げられ、経済的な援助が打ち切られることの心配や、それにゴーギャンとの共同生活がうまくゆかなくなって、彼が出てゆくと言い出したことなどが重なって、ゴッホはかなり落ち込んだのですよ。。。 それで、発作的にカミソリで自分の左耳を切ったのです。。。
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右耳を切ったように見えますけれど。。。
僕も初め、この上の絵を見て右耳を切ったのだと思ったのですよ。。。 でもねぇ~、『ウィキペディア』には左耳と書いてある。。。 つまり、ゴッホは鏡を見てそのままを書いたのですよ。。。 だから、実物とは逆になっている。
。。。で、その切り取った耳をどうしたのですか?
それが、こともあろうに、ゴッホは切り取った自分の耳を紙に包んで、何度か通ったことのある売春宿に居る女性に手渡したというのですよ。。。
あらっ。。。 馴染みの娼婦に自分の耳を手渡したのですか?
それがミステリーなのですよ。。。 実は、このミステリーに挑んだ人物を取り上げたドキュメンタリーがあるのです。。。
デンマンさんは、その記録映画を見たのですか?
観ました。。。
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デンマンのコメント
August 17, 2019
Produced and directed by Jack MacInnes in 2016, this 56-minute documentary delves into the mystery of what really happened on the night of Dcember 23, 1888, in the French town of Arles.
Vincent van Gogh cut his ear and delivered it in person to a girl called "Rachel" in the nearby brothel.
Why did he do it?
Amazing and intriguing!
2019年8月17日
2016年にジャック・マッキンズが監督・プロデュースしたこの56分間のドキュメンタリーは、1888年12月23日の夜、フランスの町アルルで起こった耳切り事件の謎を掘り下げます。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは耳を切り、近くの売春宿の「レイチェル」と呼ばれる女性に直接手渡しました。
なぜ彼はそんなことをしたのか?
あなたもビックリでしょう? なぜだか知りたくなりますよねぇ~。。。
あらっ。。。 「レイチェル」と呼ばれる女性に、切り取った自分の耳を直接手渡したのですか? でもデンマンさんは prostitute とも hooker とも書かないで girl と書いたのには、何か訳があるのですか?
あのねぇ~、実は、この女性の本名は ガブリエル (gabrielle) という名前で愛称“ガビ”と呼ばれていた。
「レイチェル」というのは源氏名ですか?
いや。。。 この女性は当時19歳で、1952年に80歳で亡くなったというのです。。。 記録映画の中のベルナデッタ・マーフィーさんがこの女性のお孫さんに会いに行ったのですよ。。。 売春宿で「レイチェル」と呼ばれていた女性は掃除婦や雑用をしていたらしい。。。
つまり、ゴッホは、売春宿を訪ねた時には、この女性とは親しく言葉を交わしていた間柄だったのですわねぇ~。。。
そうでしょう。。。 わざわざ耳を切ってから、近くにあるこの売春宿に歩いて行って この女性にその耳を「大切にして欲しい」と手渡した、というのだから、親近感を抱いていたのでしょうね。。。
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だけど、切り取った耳を手にした女性の気持ちまでは考え付かなかったのでしょうか?
だから、精神を病んでいたのですよ。。。 普通の精神状態だったら、そんなことはしないはずでしょう!
そもそも、どういうわけで耳を切り取ったのですか?
おそらく、この話を聞いたら、誰もがそういう疑問を持つでしょう! 僕だって、どうして?。。。 と思いましたよ。。。
じらさないで、そのわけを教えてくださいなァ~。。。
あのねぇ~、ゴッホは牧師になろうと考えたこともあるのです。。。 それで、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたというのです。 また、ゴッホは食卓で長い間祈り、肉は口にせず、日曜日にはオランダ改革派教会だけでなくヤンセン派教会、カトリック教会、ルター派教会に行っていたというのです。。。
つまり、敬虔なキリスト教徒なのですね。。。
そうです。。。 聖書には、耳を切り取る話も出てくる。。。
あらっ。。。 マジで。。。?
上のドキュメンタリーでは、イエスを逮捕しようとした百人隊長を、そうさせないように使徒ピーターが妨害して、彼の耳を切ったという事実を当然ゴッホも知っていたと説明しています。。。
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つまり、聖書の中で語られている その故事がゴッホのオツムに浮かんで 発作的に自分の耳を切ったと言うのですか?
だから、上のドキュメンタリーでは、そう解釈しているようです。。。
。。。で、デンマンさんもそう思うのですか?
家庭を持つようになれば、テオからの経済的な援助が打ち切られる。。。 ゴッホには今後の生活に対する大きな不安がのしかかってきた。。。 そんな時に、ゴーギャンとの意見の違いから、「オマエとは もう一緒にやってられない、出てゆく」と言われ、ゴッホとすれば、「どうしてなの?。。。 どうして、こうなってしまうのォ~?」
つまり、ゴッホは経済的な深刻な問題も抱えて落ち込んでしまったのですね。。。
そうですよ。。。 テオを憎むわけにもゆかない。。。 そうかと言ってゴーギャンをカミソリで切りつける勇気もない。。。 こうなったのは結局は自分が悪いんじゃないかァ! そう思って、聖書の耳切り事件が ふと思い浮かんで イエスを逮捕しようとした百人隊長が悪い。。。 悪い奴は耳を切り落とすのだ!
それで、発作的にゴッホは悪いのは自分だからと思って、自分の耳を切り落としたのですか?
それ以外に考えられないでしょう!?
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(すぐ下のページへ続く)
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