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慫慂 (PART 1)

2019-04-21 11:48:16 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 

慫慂 (PART 1)

 


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デンマンさん。。。 質問があるのですけれど。。。


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どういう質問ですか?

日本語の質問です。。。

いいですよ。。。 どうぞ。。。 僕に答えることができるなら何でも教えますから。。。

最近、デンマンさんが投稿した記事を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですわ。。。



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ロバのパン屋さんが、少しずつ少しずつ、近づいてくるときの、胸のときめきだけは、しゃんしゃんと、音を立てて、いまもよみがえってくる。
パン屋さんは来ても、たいてい何も買わないのだった。

誰か近所の子が、母親に伴われて、その腕にぶら下がりながらパンを買ってもらう。
そのわずかな時間に、たっぷり流れてくるパンのにおいに、はなをふるわせるだけでも、嬉しかった。

ロバパンが来た、ロバパンが来た……と、箱車のまわりをぴょんぴょん、スキップでもしていたいような気分だった。
実際、そんなことをしていた子が多かった。 (略)

パンのなかでも、クリームパンには他のパンにはない何か慫慂(しょうよう)するものがあった。
クリームパン1個は、ジャムパン2個よりも、私には心のわきたつものだった。

 


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あの、グローブのかたちをしたやわらかなものを、まずはじの方から割る。
クリームはない。
もうひとつのはじの方から割る。
同じくクリームはない。
どろりとしたカスタード風のクリームは、いつもまんなかにしかない。

クリームのにおいがまた、淡く甘くしゃれていた。
そのおいしいクリームの蜜は、決してあふれるほど入ってはいなくて、むしろいつもあまりに少なすぎた。

それは、好きになった友だちが、私にかほどの友情も見せないときの、甘い悲しさに似ていた。

 (著者: 増田れい子)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




118-119ページ 『こんがり、パン』
編者: 杉田淳子 武藤正人
2016年5月30日 第1刷発行
発行所: 株式会社 河出書房新社

『コロッケパン』に掲載。
(2019年4月9日)




上の記事に出てきた慫慂(しょうよう)という漢字は どういう意味なのですか?



なるほどォ~、ジューンさんのようにカナダ人にとって、日本語が結構しゃべれる人でも、この漢字は難しいよねぇ~。。。 実は、僕も、はっきりと意味は分からなかった。。。 「食欲をそそること」ぐらいに考えていたのですよ。。。

。。。で、本当はどういう意味なのですか?

ウィクショナリーで調べると次のように出ているのですよ。。。


【慫慂】 しょうよう

 


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《名・ス他》 そばから誘いかけ勧めること。

《英語では》

recommendation

encouragement




出典: 「慫慂」
『ウィクショナリー』




つまり、「クリームパンには他のパンにはない何か慫慂(しょうよう)するものがあった」ということを分かり易く言えば、「クリームパンには他のパンにはない何か誘惑するような(食欲をそそるような)ものがあった」ということですわねぇ~。。。



そういうことです。。。

デンマンさんが勝手に思い込んでいた意味と似ていますわねぇ~。。。

文脈から、そうとしか考えられないでしょう!?

ところで、明治時代の日本の有名な作家に坪内逍遥という人がいますよねぇ~。。。


坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)

 


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    坪内夫婦

誕生: 1859年6月22日(安政6年5月22日)
死去: 1935年(昭和10年)2月28日

 

日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。
小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。

本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。
別号に「朧ろ月夜に如く(しく)ものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。

 

生涯

尾張藩領であった美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)で、江戸幕末期に生まれた。
父は尾張藩士で太田代官所の手代を務めており、明治維新とともに一家で実家のある名古屋の笹島村へ戻った。
父から漢学書類を読まされた他に、母の影響を受け、11歳頃から貸本屋に通い読本・草双紙などの江戸戯作や俳諧、和歌に親しみ、ことに滝沢馬琴に心酔した。

愛知外国語学校(現・愛知県立旭丘高等学校)から1876年(明治9年)、東京開成学校入学、東京大学予備門(後の第一高等学校)を経て、東京大学文学部政治科を1883年(明治16年)に卒業し文学士となる。
在学中は西洋文学を学び、詩人の作品の他、同級の親友・高田早苗の勧めで西洋小説も広く読むようになった。

高田早苗や、市島春城、小田一郎、石渡敏一などと神保町の天ぷら屋に通ったが、この時の経験が『当世書生気質』の題材になった。

その後、高田早苗に協力して、早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となり、後に早大教授となっている。
1884年(明治17年)にウォルター・スコット『湖上の美人』の翻訳『泰西活劇 春窓綺話』(共訳、服部誠一名義)、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の翻訳『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』を出版。

1885年(明治18年)に評論『小説神髄』を発表。
小説を美術(芸術)として発展させるために、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。

この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。
またその理論を実践すべく小説『当世書生気質』(「春のやおぼろ先生」名義)を著した。

しかし逍遙自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示された。
当時書生であった矢崎嵯峨の屋の作品を春の屋主人補助の名で出版されることもあった。

『役の行者』は1913年に完成し、出版する予定となっていたが、島村抱月と松井須磨子の恋愛事件があり、作中の行者、その弟子の広足、女魔神の関係が、逍遥・抱月・須磨子の関係を彷彿させると考えて急遽、出版を中止した。

1916年にこの改訂作『女魔神』を『新演芸』誌に発表し、翌年『役の行者』の題で出版した。
続いて1922年に再改訂作『行者と女魔』を発表。
初演は1924年に、初稿によって、築地小劇場で最初の創作劇として上演され、高い世評を得た。

その後も初稿および改訂版により上演が行われている。
また同じ題材で、挿絵も自身の手による絵巻物『神変大菩薩伝』を1932年(昭和7年)に発表した。
1920年には『役の行者』は吉江喬松によって「レルミット」(l'Ermite) の題でフランス語訳されて出版、詩人アンリィ・ド・レニュらによって賞賛を得た。

また、1909年『ハムレット』に始まり1928年『詩編其二』に至るまで独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行した。
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館は、逍遙の古稀とシェイクスピア全訳の偉業を記念して創設されたものである。

晩年は静岡県熱海市に建てた双柿舎に移り住み、訪ねて来るのは河竹繁俊くらいであったという。
町立熱海図書館(現・熱海市立図書館)の設置に協力しており、この図書館は「逍遥先生記念町立熱海図書館」「逍遙先生記念市立熱海図書館」を名乗っていた時期もあった(1936年7月より1944年8月まで)。
最後までシェイクスピア全集の訳文改訂に取り組み、『新修シェークスピア全集』刊行とほぼ同時に逝去した。

1935年2月28日、感冒に気管支カタルを併発し、双柿舎にて死去。享年77。

 

家族・親族

妻・センは東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓・花紫で、当時学生であった逍遙が数年間通いつめた後、1886年(明治19年)に結婚した。

松本清張はこれを題材にした『文豪』を書いている。

2人には子がなく、逍遙は兄・義衛の三男・士行を7歳のときに養子に迎えたが、後年士行の女性問題が原因で養子縁組を解消している。
また写真家・能笛家の鹿嶋清兵衛とその後妻・ゑつの間にできた長女・くにを6歳の時に養女に迎えている。

このくにの回想記『父逍遥の背中』(小西聖一編、中央公論社 1994年、中公文庫 1997年)には晩年の逍遥の様子が詳しく綴られている。
甥の坪内鋭雄も早稲田大学を卒業後に作家となったが、日露戦争で戦死した。




出典: 「坪内 逍遥」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




この人の名前も本を読んでもらうために「読書欲をそそるような」という意味で「逍遥」というペンネームにしたのですか?



いや、違うのですよ。。。 「逍遥」というのは次のような意味です。。。


【逍遥】 しょうよう

 


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《名・ス自》あちこちをぶらぶら歩くこと。散歩。そぞろ歩き。

《英語では》

1. to stroll relaxingly; to walk leisurely; to wander in a carefree manner; to saunter about

2. to pace back and forth; to dither




出典: 「逍遥」
『ウィクショナリー』




本を読んでもらいたいと思ってつけたペンネームではないのですわねぇ~。。。



そこまで考えてペンネームをつけると、読者が引いてしまいますよ。。。

。。。で、島村抱月と松井須磨子の恋愛事件というのは、どういう事件だったのですか?

これは当時、有名な事件だったのですよ。。。



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     抱月と須磨子

 

1906年(明治39年)には坪内逍遥とともに文芸協会を設立、1909年(明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめる。

しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となったことで逍遥との関係が悪化、これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となった。

同年抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。

翌1914年(大正3年)にトルストイの小説を基に抱月が脚色した『復活』の舞台が評判になり、各地で興行が行われた。

須磨子が歌う劇中歌『カチューシャの唄』はレコードにも吹き込まれて大ヒット曲になり、新劇の大衆化に貢献した。

しかしその成功も束の間、1918年(大正7年)、抱月は全世界で大流行していたスペイン風邪に罹患し、さらに急性肺炎を併発してしまい、東京市牛込区横寺町(現・東京都新宿区横寺町)の芸術倶楽部の居室で急死した。

須磨子は抱月の死後も芸術座の公演を続けたが、やがて抱月の後を追って自殺、芸術座も解散になった。




出典: 「島村抱月」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。 なんだかすごい悲劇だったのですわねぇ~。。。



こういうことがあったので、当時 世間では子供が作家になることや女優になることを言い出すと親が止めるようになったのですよ。。。

つまり、作家も女優も「ろくでもない者」と思われたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 現在ではちょっと考えられないほどだったのですよ。。。

そういう偏見があったのですか?

そうです。。。 ジューンさんも二葉亭四迷という作家の名前は聞いたことがあるでしょう!?

ありますわ。。。 『浮雲』の作者ですよね。。。

さすが日本文芸にも詳しいジューンさんですねぇ~。。。

 


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1864年4月4日(元治元年2月28日)誕生

1909年(明治42年)5月10日死去


 



本名は長谷川 辰之助というのです。。。 でもねぇ~、作家になるとお父さんに言ったら、「そんなろくでもない者になるために育てたんじゃない! 作家になるぐらいなら くたばって仕舞(め)え(死んでしまえ)」と言われた。 それで、ペンエームをくたばって仕舞(め)え(死んでしまえ)から二葉亭四迷としたのですよ! (微笑)



それってぇ、マジですか?

そういう俗説が世間に通用するほど、当時 作家も女優も「ろくでもない者」と思われていたのですよ!



(laugh16.gif)


(june902.jpg)

 (すぐ下のページへ続く)










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