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イカモノ

2024-09-27 01:39:44 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 
イカモノ

 


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デンマンさん。。。、どういうわけで イカモノ を取り上げるのでござ~♪~ますかァ~?



僕は、毎日記事を書いてブログに投稿しているのですよ。。。

毎日2つづつの記事を20年近く毎日投稿しているのですわねぇ〜。。。よく続けられると思いますわァ〜。。。

やっぱり、疲れるときがありますよ。。。そういう時の息抜きに僕は映画を観るか、笑点を見て馬鹿笑いするか、また時には落語を聞くのです。。。そうして、同時にインスピレーションをゲットしたり、記事を書くエネルギーを充電するのですよ。。。

それで、最近、イカモノ  という落語を聴いたのでござ〜ますかァ〜?

故人となった古今亭志ん生さんの『江島屋騒動』という噺を聴いたのです。。。その怪談噺の中にイカモノが出てくるのですよ。。。

 


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江島屋騒動

 


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この噺は三遊亭圓朝が、明治2年(31歳)のころ創作した怪談噺です。
正式な演題は「鏡ヶ池操松影」(かがみがいけ・みさおのまつかげ)という。
原典は15席にもおよぶ長編で、ストーリーは複雑に絡みます。

この花嫁の前半の明るいところと、後半のお里の入水から破れ家の老婆の呪いあたりが代表的な場面。
古今亭志ん生が好んで演じた夏の演題で、15席の中から2席分を続けて演じている。

 

あらすじ

深川の佐賀町に住む、倉岡元庵(くらおか・げんあん)と言う医者が亡くなった。
残された女房のお松と娘のお里(さと)は医者が出来ないので、故郷の下総の大貫(おおぬき)村に引き下がった。

村の権右衛門が訪ねてきて、「名主の源右衛門からの頼みで、息子の源太郎が見初めてしまったのでお里を嫁にくれ」との依頼であった。
娘の幸せになる事だからと思ったが、貧乏なので嫁に出せない。

名主の方では母親ともに面倒を見るという。
その上、支度金として50両出すという。
婚礼は早いほうがイイという。
婚礼衣装は誂えていたら間に合わないので、古着にする事にした。

天保2年9月江戸に出て、芝神明の祭りを見て、芝日陰町の古着屋街の大きな店構えの江島屋に入った。
婚礼衣装や普段着を45両2分で買い求め、船便で送らせた。

婚礼は10月3日に決まった。
権右衛門が仲人だとやって来た。
花嫁は馬に揺られて名主宅まで行くのが当時の習慣であった。

 


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歩き始めると雨が降りだし、着く頃には濡れ放題に濡れてしまった。
どの家でもその晩、嫁に飯の給仕をさせた。

7~80人もの来客にかいがいしく飯盛りをしていたが、酒が回ってきて、着物を触る奴や裾を踏んづけて眺める奴が出てきた。
そこにお替わりの声が掛かったので、「ハイ」と立ち上がると、婚礼衣装はのり付けされたイカモノで下半身が取れてしまった。

ワァーッとみんなは笑ったが、お里はそこに泣き崩れてしまった。
名主は怒って「破談だぁ、やめたー。」と言う事で、婚礼は破談になり家に帰ってきた。

お里さんが居ないので探しに行くと、十七になるお里は神崎(こうざき)の土手に恨みの着物の片袖をちぎって、柳に掛けて身を投げてしまった。
その死骸も上がらなかった。

江島屋はイカモノを随分売って儲け、4間間口の袖蔵付きの立派な店舗を構えていた。
店の者はみんなそれを知っていたが、儲けにつながるので誰も黙っていた。

ある時、番頭の金兵衛が商売で下総へ行って、佐倉から奥の方へ行った藤ヶ谷新田で、雪の中、道に迷って夜も深くなり、やっと田圃の中のボロ小屋を発見、ここに寝かせて貰う事になった。
歳は六十七、八の老婆が一人、白髪をおどろに乱して、ガリガリの頬で、あばらが出ていて、あわせのボロを一枚素に着ているだけであった。
まるで一つ家の鬼婆ぁとはこの婆さんの事かと思われ、ふるえた。

 


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煙くて目を覚ますと、婆さんは囲炉裏に友禅の切れ端をくべて何か字を書いて箸で突き刺し、壁に貼った紙には5寸釘が打ち付けてあり、持った石でガチンと叩きつけていた。
あまりにも形相がスゴイので訳を聞くと、「芝日陰町江島屋にだまされ娘の婚礼は流れ、死んでしまった」、と言う。

なんと自分の店の事であった。
そこの者全員をのろい殺す為にやっていると言う。
灰の中に「目」の字を書いて、箸で突いて盲目にして、壁の紙は受取で、店を潰してやりたいと念じている。
驚いた番頭は夜の明けるのも待ちきれず、江戸に戻ってきた。

店に「忌中」の札が下がっていた。
聞くと奥様が急死したと言う。
通夜の晩に小僧が2階から落ちて死んだ。
その3日後、仲働きが包丁につまずき、それが元でまた葬儀が出た。

日が暮れて、雨も降ってきた。
商品を調べたいと主人は番頭を呼んで、蔵に行った。
蔵の中に女物の着物が積んであった。

番頭がその上を見ると、島田に結った若い女が立っていた。
よく見ると腰から下がスッとない。
蔵には入りたくないと言う。
「どうしてだ?」
「イカモノはいけません。旦那」

番頭は、藤ヶ谷新田での婆さんの事を詳しく主人に話して、「江島屋を盲目にしてやる」との話しもした。
「灰に目の字を書いたところに箸をタァッと刺すと、」と言うと、旦那は痛い痛いと言って、「金兵衛さん本当に刺さないでくださいよ」と言った。
「いえ、話だけで何もやっていません。で、つまりね、目の字を書いて振り袖をビッと裂いて中にくべて『おのれ、江島屋』、ガッとね」。
「あ!痛い。やだよ番頭さん、両の目が見えなくなった」。

植え込みを見ると、藤ヶ谷新田で見た痩せ枯れ果てた婆さんが、濡れたまんまでスゥーッと来て、縁側にヒョイと上がってくるのを見た。
金兵衛は「ワァ~ァッ」と目を回してしまった。

こうして江島屋が潰れてしまったのです。



 



イカモノというの糊付けされた婚礼衣装のことでござ〜ますかァ〜?



この怪談噺では、糊付けされた婚礼衣装のことなんだけれど、婚礼衣装だけに限ったモノじゃなく、イカモノ【如何物】と書いて「いかさまもの」「まがいもの」「ニセモノ」という意味なんですよ。。。イカモノシ【如何物師】と書くと「にせ物を作ったり売ったりする人」「いかさまし」という意味です。

つまり、江島屋の旦那は【如何物師】だったのですわねぇ〜。。。

そういうことです。。。イカモノの古着を売って財を成したのですよ。。。この怪談噺の中で、このイカモノの着物は糊付けされただけのもので、雨に当たった為に、糊がはがれて婚礼衣装の下半身が取れてしまったのです。。。通常、婚礼衣装は2度着る物ではないので、このようなイカモノを混ぜて江島屋は大儲けしていたのです。

このイカモノの婚礼衣装のためにお里さんは身を投げ、母親も村を追われて貧しい悲惨な生活を強(し)いられたのだから、江島屋が恨まれるのも最もでござ〜ますわねぇ〜。。。

そうです。。。この怪談噺でイカモノが印象的に語られたので、噺家の間では「江島屋」が「イカモノ」という意味を持ち、噺家仲間では「あいつの着ている物は江島屋ではないか」、なんてぇ事を良く言ったものです、と古今亭志ん生が枕(落語の導入部)で語っています。。。

それほど、この怪談噺は明治時代には庶民の間でも有名な噺になったのですか?

そうらしい。。。古今亭志ん生も苦しい時に着物の裾が破けて、仕方がないのでスソを切ってしまい、袴を着てごまかした。だから横からまくってみると、「江島屋じゃねぇか」なんて言われた事がよくあったそうです。。。

この怪談噺を作った三遊亭圓朝さんは、同じような経験をしたのでござ〜ますかァ〜?

あのねぇ〜、この怪談噺の中で登場人物の名前を、作者の圓朝は実在の人物の名を使用しているのですよ。。。例えば、倉岡元庵は、別れた前妻の父親の名前なのです。。。「江島屋騒動」を作る前の年に、朝太郎という長男をもうけていたが離婚をしているのです。。。その時の妻の名前が「お里」なのです。。。怪談噺の中の医者・倉岡元庵は、この噺の中には名前だけしか出てないけれど、15席のこの長い怪談噺に出てきた2席以外の話では悪人として描かれているのです。。。

つまり、別れた前妻のお里さんに対しても、その父親に対しても圓朝さんは相当嫌な思いをしていたのでござ〜ますかァ〜?

そうらしいのですよ。。。お里さんよりも、その父親とうまくいってなかったようです。。。怪談噺の中で「お里」は絶世の美人で、「倉岡元庵」は悪人とされたのも、離婚の原因は、実父が原因で離婚したのかもしれません。

圓朝さん自身は立派な噺家さんだったのですか?

落語の世界で名人を越えた神様のような存在ですよ。。。

 



三遊亭圓朝

 


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生年月日 1839年5月13日
没年月日 1900年8月11日(61歳没)

 

三遊亭 圓朝は、幕末‐明治に活躍した落語家。
本名∶出淵 次郎吉。三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。

敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に圓朝の落語口演筆記を参考にしたとされ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした。

落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。
また、多くの落語演目を創作した。

「お笑い」の分野である滑稽噺より、人情噺や怪談噺など、笑いのない真面目な、いわば講談に近い分野で独自の世界を築く。
圓朝の噺が三遊派の人情噺というスタイルを決定づけた。

あまりの巧さに嫉妬され、師匠の2代目三遊亭圓生から妨害を受けた。
具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまう
のである。

たまりかねた圓朝はこれなら他人が演ずることはできないだろうという自作の演目を口演するようになり、多数の新作落語を創作した

初代談洲楼燕枝とは年齢が1歳下のライバルであった。

鳴物や大道具を用いた噺の祖としても知られ、その技法は代表作の一つである「真景累ヶ淵」にて完成を見せたのみならず、今日でも怪談噺の定番演出であるライティングやBGM等として受け継がれている。

また怪談噺の参考とした幽霊画のコレクターとしても知られ、遺されたコレクションは全生庵蔵として圓朝まつりで毎年公開されているほか、2015年には東京藝術大学大学美術館でも展覧会が行われた。

 

来歴・略歴

明治10年(1877年):陸奥宗光の父で国学者の伊達千広による禅学講義の席で知己となった高橋泥舟により、義弟の山岡鉄舟を紹介される

明治13年(1880年)9月24日:山岡鉄舟の侍医である千葉立造の新居披露宴の席で、同席していた天龍寺の滴水和尚から「無舌居士」の道号を授かる。

明治19年(1886年)1月8日:井上馨の共をして身延山参詣。また井上の北海道視察(8月4日より9月17日)にも同行した。

明治20年(1887年)4月26日:井上馨邸(八窓庵茶室開き)での天覧歌舞伎に招かれ、また井上の興津の別荘にも益田孝らと共に招かれている

明治22年(1889年)
4月:向島の木母寺境内に三遊派一門43名を集め、三遊塚を建立。
初代および二代目 三遊亭圓生を追善記念する。
6月30日:各界人士を集めて、初代・二代目 圓生の追善供養のための大施餓鬼会を施行し、一門の43名が小噺を披露し、記念誌を配布した。
朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が三友舎から出版される。
圓朝自身の口述に基づく自伝。

明治24年(1891年)6月:席亭との不和で寄席の出演を退き、新聞紙上での速記のみに明け暮れる。

明治25年(1892年):病のために廃業。

明治26年(1893年)1月:渋沢栄一の共をして、静岡の徳川慶喜の邸を訪問

明治29年(1896年)11月:静岡興行の際に、ふたたび徳川慶喜の邸をおとずれ、「講談」を演じた

明治30年(1897年)11月:弟子の勧めで高座に復帰。

明治32年(1899年)
9月 発病。
10月 木原店で演じた『牡丹燈籠』が最後の高座となる。
不行跡により朝太郎を廃嫡処分とする。

明治33年(1900年)8月11日午前2時:死去。病名は「進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」。
法名は「三遊亭圓朝無舌居士」。墓は台東区谷中五丁目4番7号の臨済宗国泰寺派全生庵にあり、東京都指定旧跡となっている。

 

圓朝による新作

圓朝による新作落語には名作佳作とされる作品も多く、多数が現代まで継承されている。特に『死神』は尺が短いこともあって、多くの演者が演じている。

圓朝は江戸時代以来の落語を大成したとされ、彼の作による落語は「古典落語」の代表とされる。
現在では大正以降の作品が「新作落語」に分類される。

人情噺では、『粟田口霑笛竹』や『敵討札所の霊験』、『芝浜(異説あり)』、怪談では、『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。

また海外文学作品の翻案には『死神』『名人長二(発表:1887年。原作:モーパッサン「親殺し」)』
『錦の舞衣(発表:1891年。原作:ヴィクトリアン・サルドゥ「トスカ」。後にプッチーニにより1900年にオペラ化される『トスカ』の原作)』がある。

奇談としては『鰍沢』(三題話)などもあり、非常にレパートリーが広い。




出典: 「三遊亭圓朝」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。当時の錚々(そうそう)たる政治家や、財界人、有名人とも付き合いがあったのでござ〜ますわねぇ〜。。。



他の噺家とは比べものにならないほど見事な話術を駆使して落語や講談を演じたのです。。。贔屓(ひいき)にする人が多かったのでしょう。。。そういうわけで交際範囲も広がったのですよ。。。



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【卑弥子の独り言】



 

ですってぇ~。。。

あなたは三遊亭圓朝作の他の噺を聴いたことがありますかァ〜?

ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに御命令なさるのでござ~ますかァ~?

分かりましたわ。。。

デンマンさんが10年以上も前にアンケートを作りました。

 


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『拡大する』


『もう一度クリスマスのページ』

 

上のリンクをクリックすると、

左側のサイドコラムにたくさんの質問が出てきます。

ひとつひとつ見ながら ぜひアンケートに答えてみてください。

じゃあ、また。。。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

“本音と建前”

よく聞きますよね。

さて、英語で何と言うのでしょうか?

考えてみた事がありますか?

いろいろと言い方があると思います。

appearance and reality

見かけと実物そのまま


これも本音と建前と言い換えることができますよね。

form and substance

外観と実体


これも本音と建前と同じですよね。

one's real intention and

what one says on the surface


本音と建前を説明しているのですよね。

real motive and stated reason

これも間違いなく本音と建前ですよね。

what one says and what one means

本音と建前をこのように言うこともできますよね。

では、「本音と建前を使い分ける」を

英語でどのように言うのでしょうか?

ちょっと考えてみてください。



次のように言うことができます。

You should be tactful as to

when to tell real intention

and when to show form.


ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。









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