阿三の森
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デンマンさん。。。、どういうわけで 阿三の森 を取り上げるのでござ~♪~ますかァ~?
僕は、毎日記事を書いてブログに投稿しているのですよ。。。
毎日2つづつの記事を20年近く毎日投稿しているのですわねぇ〜。。。よく続けられると思いますわァ〜。。。
やっぱり、疲れるときがありますよ。。。そういう時の息抜きに僕は映画を観るか、笑点を見て馬鹿笑いするか、また時には落語を聞くのです。。。そうして、同時にインスピレーションをゲットしたり、記事を書くエネルギーを充電するのですよ。。。
それで、最近、阿三の森 という落語を聴いたのでござ〜ますかァ〜?
すでに故人となった古今亭志ん生さんの『怪談阿三の森』という噺を聴いたのです。。。
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怪談阿三(おさん)の森
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あらすじ
深川牡丹町の近くにスズメの森が有ったが、誰言うとはなしに”阿三の森”と言われるようになった。
江戸時代の実話で、その由来についての噺です。
そのころ、本所に二千石をとる旗本・松岡家が有った。
そこに奉公に出ていた、漁師・善兵衛の娘で、十八になる”おかの”と言う美女がいた。
殿様のお手がついて妊娠、蛤町の実家に帰された。
月満ちて女の子を出産”阿三(おさん)”と名付けた。
実家の裏に離れを建てて、殿様もちょくちょく見えて何不自由ない生活をしていた。
しかし、間の悪い事に母親が亡くなり、続いて殿様も亡くなって、阿三は祖父に預けられたが、生活に困窮していた。
漁師を止めて、亀戸の天神橋のそばで団子屋を始めた。
梅見団子を売り出して繁盛し、十七の時には母親の器量を写して団子屋の看板娘となっていた。
幇間医者の藪井竹庵が、本所割り下水に住む”阿部新重郎”と言う跡取り息子を臥龍梅を見た帰り 、団子屋に連れてきた。
歳22で、役者に近い美男であった。
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臥龍梅
上の浮世絵は広重の「亀戸梅屋鋪」
ここには元梅屋敷又は清香庵(せいきょうあん)とも称された梅園があった。
もともと浅草埋堀(浅草3丁目付近)の商人・伊勢屋彦右衛門の別荘で、沢山の梅を植え整備し、子孫の喜右衛門の頃には300本を越える梅園になった。
江戸中に知れ渡り、園内には龍が臥した様に枝が地中に入り、また地より離れて幹となり花を付けた名木があった。
水戸光圀がこの梅木を観て臥龍梅と名付けた。
しかし、明治43年水害により全滅、廃園になってしまった。
下の写真は亀戸 ・臥龍梅 (がりゅうばい)園跡(江東区亀戸3-51-10浅草通り・タクシー会社前)に咲く記念の梅の花が八分咲きになった時のもの。
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離れで、看板娘”阿三”と出会ったときに娘に一目惚れしてしまった。
同じように娘もブルブルっと、感じて一目惚れしてしまった。
その後、何日しても藪井竹庵が訪ねてこなかったが、呼びにやり団子屋に訪ねて行った。
それからは毎日のように一人で阿三の元に訪ねて、逢瀬を重ねた。
今では将来を約束する仲になっていた。
新重郎は松岡家から阿部家に養子に入っていた。
本家の実母の様態が悪いというので、お見舞いに訪れたが、その席で母親から意外な事実を聞かされた。
「父親が奉公人の娘に手を出し子供を作ったが、里に帰し、今では十七になる娘に成長しているはず。聞くところによれば亀戸で団子屋の娘として働く阿三だという。お前の実の妹なので陰ながら面倒を見て欲しい」という。
心のわだかまりがなくなったと見えて母親は亡くなった。
四十九日も過ぎたが、新重郎は実の妹と犬畜生と同じ関係になった事を悩んでいた。
今後は逢わない事を心に誓って、再出発する事にした。
しかし、その事を知らない阿三は彼が来ないのを気にかけて、亡くなってしまった。
久しぶりに藪井竹庵が訪ねてきて、阿三が亡くなった事を告げていった。
新重郎は閑静な向島に住まいを移し気持ちを切り替えていた。
お盆の夜、寝られないでいると、深夜庭先を「カラン、コロン」と下駄の音を鳴らしながら女性が通って行った。
間もなく戻ってきて、窓下で止まった。
「御前様」と声が聞こえたので、覗くと朝顔の花柄の浴衣を着た阿三であった。
死んだ事はなく老人がうるさく出られないので、小梅から深夜怖いのも忘れて訪ねて来たという。
抱き合って喜び、部屋に通し、お互い生きていた事を幸せにおもい、将来を改めて誓い合った。
夜ごと女が訪ねてくるので、婆やが不審に思い覗いてみると、煙のようなものと話しているのを目撃し、主人に報告。
菩提寺の法恩寺の住職に訳を話し、重三郎に言い聞かせ、窓にはお札を張ってもらった。
その夜から阿三は現れる事はなくなり、重三郎も元気を取り戻し、本所割り下水の屋敷に戻った。
1月を迎えたとき麻布の娘と仲人がたって祝言を上げた。
その席、二人の間に蛇が現れ恨めしそうにのぞき込んだ。
重三郎はキセルで蛇を殺したが、毎晩現れた。
その事を住職に相談すると、阿三が蛇に化身して出てくるので、出てきたら私の衣に包んで、その上から縄で結んでおくように言われ、その様にすると難なく捕まえる事が出来た。
住職は東の小高いところ”スズメの森”に埋めて、その上に祠(ほこら)を建てた。
その難を仏力で封じ込め”阿三の森”と言う様になった。
阿三の森はお産の森と言い換えられて、安産の御利益があるとたいそう繁盛し、稲荷となった。
1年して、妻が亡くなって、今後は妻をめとらないと、つむりを丸めてこの稲荷の側に庵を建てて菩提を弔らった 。
実際にあったと言われている、阿三の森の由来でした。
古今亭志ん生さんは、実際にあったというのだけれど、どうですか? 卑弥子さんは信じることができますか?
前半の恋物語は、ありそうですけれど、後半のおばけの話は作り事だと思いますわ。
でもねぇ〜、噺の中に出てくる場所は現存しているのですよ。。。江戸時代には”スズメの森”と呼ばれ、それが”阿三の森”と呼ばれるようになり、やがて「お産の森」と言い換えられて、安産の御利益があるとたいそう繁盛し、稲荷となったのです。それで現在でもその場所に「於三稲荷」という祠(ほこら)が建っている。
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悲しい恋の物語はあったと思いますわァ。。。その悲恋のヒロインの「阿三(おさん)」の霊を祀(まつ)るために祠を建てたのだと思います。。。
なるほどォ〜。。。実は、噺の中に出てくる亀戸の天神橋のそばにある団子屋というのも、現存するのですよ。。。
天神橋
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天神橋と天神様の正面鳥居の中間に有るのが
この団子屋ならぬ船橋屋。
創業百九十有余年の老舗、くず餅の船橋屋。
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この怪談噺も あの有名な三遊亭圓朝が創作した噺なのですか?
確かに、三遊亭圓朝は、たくさんの怪談噺を作っているのです。。。
三遊亭圓朝
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生年月日 1839年5月13日
没年月日 1900年8月11日(61歳没)
三遊亭 圓朝は、幕末‐明治に活躍した落語家。
本名∶出淵 次郎吉。三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。
敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に圓朝の落語口演筆記を参考にしたとされ、明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした。
落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。
また、多くの落語演目を創作した。
「お笑い」の分野である滑稽噺より、人情噺や怪談噺など、笑いのない真面目な、いわば講談に近い分野で独自の世界を築く。
圓朝の噺が三遊派の人情噺というスタイルを決定づけた。
あまりの巧さに嫉妬され、師匠の2代目三遊亭圓生から妨害を受けた。
具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。
たまりかねた圓朝はこれなら他人が演ずることはできないだろうという自作の演目を口演するようになり、多数の新作落語を創作した。
初代談洲楼燕枝とは年齢が1歳下のライバルであった。
鳴物や大道具を用いた噺の祖としても知られ、その技法は代表作の一つである「真景累ヶ淵」にて完成を見せたのみならず、今日でも怪談噺の定番演出であるライティングやBGM等として受け継がれている。
また怪談噺の参考とした幽霊画のコレクターとしても知られ、遺されたコレクションは全生庵蔵として圓朝まつりで毎年公開されているほか、2015年には東京藝術大学大学美術館でも展覧会が行われた。
来歴・略歴
明治10年(1877年):陸奥宗光の父で国学者の伊達千広による禅学講義の席で知己となった高橋泥舟により、義弟の山岡鉄舟を紹介される。
明治13年(1880年)9月24日:山岡鉄舟の侍医である千葉立造の新居披露宴の席で、同席していた天龍寺の滴水和尚から「無舌居士」の道号を授かる。
明治19年(1886年)1月8日:井上馨の共をして身延山参詣。また井上の北海道視察(8月4日より9月17日)にも同行した。
明治20年(1887年)4月26日:井上馨邸(八窓庵茶室開き)での天覧歌舞伎に招かれ、また井上の興津の別荘にも益田孝らと共に招かれている。
明治22年(1889年)
4月:向島の木母寺境内に三遊派一門43名を集め、三遊塚を建立。
初代および二代目 三遊亭圓生を追善記念する。
6月30日:各界人士を集めて、初代・二代目 圓生の追善供養のための大施餓鬼会を施行し、一門の43名が小噺を披露し、記念誌を配布した。
朗月散史編『三遊亭圓朝子の傳』が三友舎から出版される。
圓朝自身の口述に基づく自伝。
明治24年(1891年)6月:席亭との不和で寄席の出演を退き、新聞紙上での速記のみに明け暮れる。
明治25年(1892年):病のために廃業。
明治26年(1893年)1月:渋沢栄一の共をして、静岡の徳川慶喜の邸を訪問。
明治29年(1896年)11月:静岡興行の際に、ふたたび徳川慶喜の邸をおとずれ、「講談」を演じた。
明治30年(1897年)11月:弟子の勧めで高座に復帰。
明治32年(1899年)
9月 発病。
10月 木原店で演じた『牡丹燈籠』が最後の高座となる。
不行跡により朝太郎を廃嫡処分とする。
明治33年(1900年)8月11日午前2時:死去。病名は「進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」。
法名は「三遊亭圓朝無舌居士」。墓は台東区谷中五丁目4番7号の臨済宗国泰寺派全生庵にあり、東京都指定旧跡となっている。
圓朝による新作
圓朝による新作落語には名作佳作とされる作品も多く、多数が現代まで継承されている。特に『死神』は尺が短いこともあって、多くの演者が演じている。
圓朝は江戸時代以来の落語を大成したとされ、彼の作による落語は「古典落語」の代表とされる。
現在では大正以降の作品が「新作落語」に分類される。
人情噺では、『粟田口霑笛竹』や『敵討札所の霊験』、『芝浜(異説あり)』、怪談では、『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。
また海外文学作品の翻案には『死神』『名人長二(発表:1887年。原作:モーパッサン「親殺し」)』
『錦の舞衣(発表:1891年。原作:ヴィクトリアン・サルドゥ「トスカ」。後にプッチーニにより1900年にオペラ化される『トスカ』の原作)』がある。
奇談としては『鰍沢』(三題話)などもあり、非常にレパートリーが広い。
出典: 「三遊亭圓朝」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あらっ。。。当時の錚々(そうそう)たる政治家や、財界人、有名人とも付き合いがあったのでござ〜ますわねぇ〜。。。
他の噺家とは比べものにならないほど見事な話術を駆使して落語や講談を演じたのです。。。贔屓(ひいき)にする人が多かったのでしょう。。。そういうわけで交際範囲も広がったのですよ。。。
圓朝さんが作った怪談噺ではどれが有名なのでござますか?
上の説明にも書いてある『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』が代表作なのです。。。実は、古今亭志ん生さんは、現存する「於三稲荷」という祠(ほこら)の由来ということで話すのだけれど、『牡丹燈籠』の発端と全く同じ筋立てなのですよ。。。
だったら、『阿三(おさん)の森』は、圓朝さんが作ったのではありませんか?
でも、圓朝作ではないと言われている。。。
じゃあ、古今亭志ん生さんが実際にあった阿三の悲恋に基づいて、怪談噺に仕立てたのでござ〜ますか?
僕は、そう思っているのですよ。。。
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【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。
あなたは三遊亭圓朝作の『牡丹燈籠』を聴いたことがありますかァ〜?
もし、聴いたことがなかったのでしたら『牡丹燈籠』のクリップを貼り出しますので是非聴いてくださいまし。。。
ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」
あなたは、そのような強い口調で あたくしに御命令なさるのでござ~ますかァ~?
分かりましたわ。。。
デンマンさんが10年以上も前にアンケートを作りました。
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じゃあ、また。。。
ィ~ハァ~♪~!
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こんにちは。ジューンです。
“本音と建前”
よく聞きますよね。
さて、英語で何と言うのでしょうか?
考えてみた事がありますか?
いろいろと言い方があると思います。
appearance and reality
見かけと実物そのまま
これも本音と建前と言い換えることができますよね。
form and substance
外観と実体
これも本音と建前と同じですよね。
one's real intention and
what one says on the surface
本音と建前を説明しているのですよね。
real motive and stated reason
これも間違いなく本音と建前ですよね。
what one says and what one means
本音と建前をこのように言うこともできますよね。
では、「本音と建前を使い分ける」を
英語でどのように言うのでしょうか?
ちょっと考えてみてください。
次のように言うことができます。
You should be tactful as to
when to tell real intention
and when to show form.
ところで、英語の面白いお話を集めました。
時間があったら覗いてみてくださいね。
■ 『あなたのための愉快で面白い英語』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。