皇女の心を気遣って、池邊皇子は彼女を莵道宮(うじのみや)に移しました。
人目が多く、あることないこと噂される大和で出産するのは地獄だったからです。
それよりも皇女が幼時を過ごした懐かしい莵道(うじ)に移った方が、皇女のためになろうとの配慮でした。
莵道皇女はようやく心静まる日々を取り戻し、そこで月満ちて安らかに御子を産んだのです。
池邊皇子は彼女とともに新生児の顔を見守りながら、つかの間の平安な日々を過ごしました。
池邊皇子というのは用明天皇の若かりし頃の名であり、皇子が莵道皇女と通じて生まれた子が鏡王(かがみのおおきみ)だったのです。
つまり、この人が額田女王の父なのです。
用明天皇の宮は『池邊雙槻宮(いけのべのなみつきのみや)』と呼ばれました。
額田女王の名は用明天皇の同母妹・額田部皇女(後の推古女帝)にゆかりのものではないか、と言われています。
額田女王の母は額田部皇女の孫・山背姫王(やましろのおおきみ)とされており、こちらの縁からも額田部皇女に関わりがあります。
額田女王には『莵道宮(うじのみや)』を偲んで詠んだ次のような歌があります。
秋の野の
み草刈り葺き
宿れりし
莵道の宮処(みやこ)の
仮廬(かりほ)し念(おも)ほゆ
『萬葉集7』
この歌は皇極天皇(女帝:中大兄皇子の母)の代に詠んだと萬葉集の詞書(ことばがき)にあります。
額田女王の少女の頃です。
皇極天皇と額田女王は従姉妹同士で、押坂彦人大兄皇子はともに祖父に当たります。
また、莵道皇女は、この二人の女性にとって、ともに大叔母に当たります。
額田女王にとっては大叔母であると同時に祖母でもあります。
この歌はまた、皇極自身の作とも、皇極の気持ちを額田女王が代作したのだとも言われています。
そういう事から考えても皇極と額田はとても仲が良く、気持ちは通じ合っていたと思われます。
この歌の背景には、大叔母の宮をともに偲ぶ気持ちが感じられます。
ところで、額田女王は、推古女帝(額田部皇女)の曾孫でもあり、聖徳太子の姪にも当たります。
額田女王が後の宮廷でなぜあれほど尊崇されたのか、歌の才能以外にもこういう縁があったからだと思います。
なぜ、僕は額田女王の生い立ちを、このように詳しく語るのか?
それは、この女性が情愛に無関心ではいられなかった家庭の事情と、皇極女帝と仲が良く気持ちが通じ合っていた、と言う事を読むあなたに印象付けたいためなのです。
ここで一枚の絵をお目にかけます。
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これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。
上の絵をよく見れば、奥のほうに、知らぬ顔を決め込んだ女性が居るのが分かります。
この女性は、誰あろう、この中大兄皇子の母親です。つまり皇極女帝です。
息子が入鹿の首をはねるちょっと前までその場に居たのです。
「これは一体何事ですか?!」
「母上、もういい加減に目を覚ましてください。この入鹿は、自分の思うままに朝廷を動かそうとしているのですよ。しかも、あわよくば、天皇になろうと考えている。母上が、この男をあまりにも、えこひいきするからじゃありませんか!母上は、実の息子よりも、この男のほうが大切だとでも言うのですか?」
こんな風に攻められては、皇極女帝も返す言葉がない。それで、奥のほうへ引きこもってしまったというわけです。
実は、この当時の大臣(おおおみ【総理大臣】)は、入鹿ではありません。彼の父親の蝦夷(えみし)です。
しかし入鹿の権威は、彼の父親を上回るほどになっていました。それはなぜか?
当然ですが、皇極女帝が入鹿を取り立てていたわけです。
かんぐって想像をたくましくすれば、二人の間には肉体関係があった事でしょう。
しかも、この当時の性関係というのは、大変おおらかでした。それは古事記を読めばよく分かることです。
未亡人の皇極女帝はそのような意味でも、入鹿を可愛がっていたことでしょう。
上の絵で、入鹿の首が御簾(みす)に喰らいついている様子を見てください。
入鹿にしてみれば、皇極女帝が助けてくれるものと当てにしたことでしょう。
ところが、息子に、ちょっと痛い所を突かれたぐらいで、彼女は奥へ引っ込んでしまった。
「オイ!大年増のお姉さん!俺をあんなに可愛がっておきながら、これは一体どういうこったい!俺を見殺しにして、自分だけ引っ込んしまって平気なンかよ!俺は恨むよ!よく見ていろ!このまま喰い付いて離れないゾォ~!」
そういう無念の気持ちが伝わってきませんか?
僕には、入鹿の気持ちがよく分かるような気がします。
この絵を見ると、とにかくすさまじい。
このような怨念の込められた場面というのは、長い日本史を見ても、あまりありません。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『藤原鎌足と六韜(りくとう)ーー藤原氏のバイブル』
つまり、皇極女帝から見れば、非情な事をする息子なんですよね。
それが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
ここで、額田女王と皇極女帝が気心が知れた仲の良い話し相手であった事を思い出してください。
額田女王は皇極女帝の歌を代作したとまで言われる人です。
要するに、額田女王は個人的に中大兄皇子を良く知っていたばかりではなく、皇極女帝からも、この非情な息子の話を耳にタコが出来るくらいに聞かされていたのです。
しかも、強引な政治のやり方を見ている!
中大兄皇子は、暗殺されるほどのことをやってきた人です!
さらに、中大兄皇子が実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり孝徳天皇から引き離して連れて行くところなども充分に話に聞いて知っている!
こういう血なまぐさい時代を生きてきたのが額田女王です。
その女性が、ただノー天気に“あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわよォ~おほほほほ。。。”なんて詠(うた)っているだけだとしたら、この女性は愚か者ですよね。
お笑いものですよね?そう思いませんか?
彼女が詠んだ歌に出てくる男は、誰あろう、天智天皇と天武天皇なんですよね。
額田女王が詠った歌を“愛の歌”と見るのか? それとも“政治批判の歌”と見るのか?
あなたはどう思いますか?
正解はありません!
僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。
“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”
名言だと思いますねぇ~~。
あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよ!
額田女王が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。
あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。
額田女王は、それを期待しながら、1350年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。
では。。。
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ィ~ハァ~♪~!
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おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ます。
絶対に、しつこいわよねぇ~~、
分かっていますわ。
でもね、デンマンさんが
出なさいって言うんですよ。
どうして?と尋ねたのでざ~♪~ますのよ。
そしたら、今日の記事の話題は
あたくしがマスコットギャルをやっている
『新しい古代日本史』サイトに
直結する話題だから、
宣伝しなさいっつんで
ござ~♪~ますのよ。
それで、また
出てきてしまったのでざ~♪~ます。
おほほほほ。。。。
そういうわけですので、あたくしのことを
憎まないでくださいましね。
よろしくね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
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