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ゼリーフライのふるさと(PART 1)

2020-01-08 11:00:32 | 食べ物・料理・食材
 

ゼリーフライのふるさと(PART 1)

 



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デンマンさん。。。、 今日はゼリーフライのお話ですか?


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そうです。。。 いけませんか?

別に、かまいませんけれど、どうして急にゼリーフライを取り上げるのですか?

話せば長いのだけれど、まず手始めに次のリストを見てください。。。

 


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『拡大する』

『亀姫と香芽子さん』(PART 1)

『アホノミクスと現実主義者』

『現実主義者@クリスマス』


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『現実主義者 馬鹿の見本』


 



この上のリストはGOOの僕の『デンマンブログ』の1月3日の午前5時37分から午前11時37分まで6時間の「リアルタイム アクセス解析」のリストなのですよ。。。  アクセスされたページ  の7番に注目して欲しい。。。 



あらっ。。。 2017年4月30日に投稿された 亀姫と香芽子さん(PART 1) が読まれのですわねぇ~。。。

そうなのですよ。。。

 


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『拡大する』

『亀姫と香芽子さん』(PART 1)


 



。。。で、どなたが読んだのですか?



金田香芽子さんですよ。。。

 


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あらっ。。。 『亀姫と香芽子さん』の中に出てきた女性ではありませんか?



そうです。。。 

でも。。。、でも。。。、金田香芽子さんは仮名でしょう?

そうです。。。

ご自分の名前を入れて検索して 記事を探し当てたのですか?

違います。。。 次のようにして検索したのですよ。。。

 


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『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



あらっ。。。 亀姫 ゼリーフライ かねつき堂 と入れて検索したのですわねぇ~。。。



そうです。。。 

でも。。。、でも。。。、どういうわけで『亀姫と香芽子さん』を読もうとしたわけですか?

香芽子さんは、改めて次の箇所をじっくりと読んだのですよ。。。




行田の「かねつき堂」というのは名前ばかりで 実際には鐘はない。。。 ただ、鐘を吊っていた古い鐘楼だけがあるだけで、それを看板代わりにして 行田名物の“ゼリーフライ”を売っているということが解ったのです。


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香芽子さんは、それだけで満足したのですか?



もちろん、それは“おつり”のようなものですよ。。。 あとで機会があったら、ぜひ行田市の亀姫ゆかりの東照宮を訪ねて ついでに近くの「かねつき堂」に寄って“ゼリーフライ”を食べてみたいと思ったのです。。。 ただ、亀姫に興味を持っていた香芽子さんは次の記事を読んで なるほどと思ったのですよ。。。


行田市の東照宮


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例祭は 4月17日。

祭神は家康公、松平忠明、それから八幡大神が祀られており、大坂夏の陣後の復興に尽力した家康公の長女・亀姫の 4男である松平忠明が、元和3年(1617) 4月、大坂城外の川崎に創建したのがはじまりという。

この川崎東照宮(廃絶)は、2代将軍秀忠により、姉である亀姫に伝えられた家康公の木像を御神体とした。


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又、亀姫は父・家康公の肖像画も頂いており、のちに忠明に伝えられている。

忠明は大和国郡山へと移ると、寛永2年(1625)には大和郡山城内にも社殿を造営して、家康公の肖像を安置したといわれ、以来、藩主・藩士崇敬の社となった。

その後、移封の都度に東照宮は遷座された。

文政6年(1823)、忠明の子孫・松平忠尭(ただたか)は伊勢桑名から忍へと移封するにあたり、忍城内の下荒井の地へ東照宮を勧請した。

社領は、大和郡山当時より100石を受け継ぎ、明治維新まで続くことになるが、その地は埼玉古墳群(さきたまこふんぐん・行田市埼玉)の辺りであったと伝えられている。

又、慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いの引揚げに際して、時の藩主・松平忠誠は大坂蔵屋敷内の川崎東照宮の御神体であった家康公の木像を、忍東照宮に遷座したと伝えられている。

その後、明治 4年(1871)に藩主が東京に移住したため、忍東照宮は祭祀断絶の危機を迎えるが、旧藩士らにより、同 7年(1874)に下荒井の地より、忍城本丸の一部である諏訪郭内の諏訪神社境内に忍東照宮の本殿を移し、同33年(1900)には藩祖である松平忠明を配祀、現在に至っている。

尚、現在の拝殿は昭和5年(1930)に造営されたもので、又、亀姫から松平忠明に伝わった、家康公の肖像画(徳川家康画像・県文化)は、現在も忍東照宮にある。


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出典: 『忍東照宮』

(写真はデンマンライブラリーより)




亀姫の 4男である松平忠明が、元和3年(1617) 4月、大坂城外の川崎に創建したのが東照宮のはじまりということが解った。。。 つまり、ここに大阪と亀姫のつながりを見つけたのですよ。



要するに、香芽子さんは亀姫と大阪とのつながりをネットで見つけようとしていたのですか?

もちろん、それは単なる興味以外の何ものでもなかった。。。 ひょっとして亀姫と大阪に何か関係あるのかなァ~?。。。 そう思っただけですよ。

ただ、それだけのことですか?

いや。。。それだけじゃありません。。。 さらに記事を読んでいったら小百合さんと僕との次の対話に出くわしたのです。。。




どうして亀姫が家康の肖像を持っていたのですか?



亀姫は家康の長女でもあり、やはり何かと気遣っていたらしい。 嫁いでから久しぶりに会った亀姫に、家康が「何か望む物があったら、何なりと申せ」と言ったらしい。

それで、亀姫は何と答えたのですか?

健気(けなげ)にも、亀姫は「父上とは しばしばお会いすることができないので、どうか肖像画をくださいませ。 そうすれば、父上といつも一緒に居られるような気がいたします」と言ったらしい。

亀姫のその気持ち、何となく分かりますわ。 私は一人っ子で、父には大変可愛がられたので、結婚してからも、父と撮った写真は大切にしていますから。。。

ほおォ~。。。 そうだったのですか? 僕は亀姫の話を聞いた時に、なんだかゴマをすってぇ、あとでもっと高価なものをねだるのではないか?! 僕は、そう思ったのですけどねぇ~。。。

それで、家康は娘の求めに応じて御用画家に自分の肖像画を描かせたのですか?

そうなのです。。。それが行田の東照宮に伝わる肖像画ですよ。 家康には“狸オヤジ”というような悪賢いイメージがあってぇ、現在に伝えられている家康の肖像画は、まさに“狸オヤジ”を想わせるような肖像画が多いのですよ。


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上の家康の肖像も“狸オヤジ”というイメージです。 でも実物は、亀姫に持たせた肖像画のように、それほど悪いイメージではなかったらしい。 家康が生前に描かせた肖像画というのは、行田市の東照宮に伝わっている肖像画だけだということですよ。



つまり、行田の東照宮に伝わっている肖像画が家康にもっとも似ているということですか?


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そういうことになりそうです。



でも、御用画家が気を遣って、実物よりも良い男に描いたのではありませんか?

うん、うん、うん。。。 そのような可能性も充分にありますよねぇ~。。。




『かねつき堂と亀姫』より
(2014年11月25日)




つまり、亀姫のお父さんの肖像画のうちで 最も似ているモノが行田の東照宮にあるということが判って香芽子さんも それを見てみたいと思ったのですか?



そうですよ。。。 それで上の肖像画を見ながら いつか暇ができたら行田市に行って「かねつき堂」で“ゼリーフライ”をぜひ食べようと心に決めたのです。。。

それは、デンマンさんの推測でしょう?

いや。。。 ここまで読んでくれば、誰でも「かねつき堂」の“ゼリーフライ”が食べたくなるはずです。。。




『亀姫と香芽子さん』(PART 1)より
(2017年4月30日)




つまり、香芽子さんは行田市に行って「かねつき堂」で“ゼリーフライ”をぜひ食べようと心に決めたのですか?



そうです。。。

信じられませんわ。。。

あのねぇ~。。。 昔の人は “信じる者は救われる!” と言ったのですよ。。。 だから、小百合さんも僕の言うことを信じてルンルン気分で幸せになってねぇ~。。。



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 (すぐ下のページへ続く)




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