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貂蝉(ちょうせん)

2022-06-09 01:32:50 | 歴史四方山話

 

貂蝉(ちょうせん)

 


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デンマンさん。。。どういうわけで貂蝉(ちょうせん) を取り上げるのでござ〜ますかァ〜?


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あのねぇ〜、僕は最近、『三国志』にハマっているのですよ。。。第54話から観始めて、最終回の第95話まで観てゆき、最初の第1話に戻って、昨夜、第27話を観たばかりです。。。

どういうわけで第1話から観ないで第54話から観始めたのでござ〜ますかァ?

実は、『水滸伝』の第54話を観ようと思って探していたのです。。。検索結果に第54話が出てきたので観始めたら、なんと『水滸伝』ではなく、『三国志』だったのですよ。。。でも、面白かったので、そのまま『三国志』の第54話を観続けたのです。。。物語に引き込まれて、その続き、続きと観てゆくうちに最終回の第95話まで観てしまったというわけです。。。

それから最初に戻って第1話からまた観始めたのですか?

そういうことです。。。

 



『三国志第54話ー甘露寺に婿を招く』

 



それで、貂蝉(ちょうせん)は第何話に出てきたのでござ〜ますかァ?



第8話です。。。

 



『三国志第8話ー王允の離間の計』

 




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137年 - 192年

 

王允は、中国後漢末期の政治家。字は子師。并州太原郡祁県(現在の山西省晋中市祁県)の人。
呂布と共謀して董卓を殺害したが、その部下に逆襲されて殺害された。
兄は王宏。弟は王懋。子は王蓋・王景・王定(王宗)。
孫は王黒。甥は王晨・王淩。

若い頃、名儒として名を馳せていた郭泰から「王允は一日に千里を走り、王佐の才(王を佐《たす》ける才、主君に仕えてその人を偉大足らしめる才能の持ち主)である」と英才の誉れと評されていた。

19歳にして郡の役人となった。当地では、趙津という者が悪行を繰り返し問題となっていたが、王允はこれを捕らえて処刑した。
このため趙津の兄弟が怒り、中央の宦官に賄賂を送り王允への復讐を行おうとした。

宦官が桓帝に事実を捻じ曲げて報告したため、桓帝は王允の上司であった太原太守劉瓚を投獄し処刑した。
王允は劉瓚の棺を持って太守の故郷の平原(山東省徳州市)まで持ち帰り、自分の親が死んだ場合と同じだけの3年間を喪に服し、喪が明けると復職した。

新任の太原太守の王球が、大して能力も名声も無い者を登用したのでこれを諫めた。
すると王球はこれを不快に思い、王允を投獄して殺そうとした。
それを聞いた刺史の鄧盛は、王允を救い出して自分の部下にしたという。
このことで王允の名声は一躍高まった。

184年の黄巾の乱に際しては豫州刺史となり、荀爽・孔融らを幕僚に迎え黄巾軍を撃破した。
乱終結後、王允は十常侍の張譲が黄巾軍と繋がっていたことを告訴したが、張譲が謝ったことで霊帝がこれを許してしまったため、張譲からの逆恨みで投獄されてしまった。死刑に処されるところであったが、多数の助命嘆願により命を救われた。

 

董卓政権

霊帝が死去すると、何進は妹(何太后)の子であった劉弁(少帝弁)を帝位に就けた。
王允は何進に招かれて河南尹(首都洛陽を含む郡の長官)となり、劉弁が即位すると尚書令に任じられた。

その後、何進が宦官たちに殺されると、董卓がそれに代わって政権を握った。
190年、董卓から司徒に選任され政務を執ることとなった。

しかしその後、董卓は暴政により少帝を殺害したり、洛陽を破壊して長安への遷都を強行したことで人望を失った

また董卓は、張温を袁術と内通している者であると誣告し鞭で打ち殺させ、縁談を断った未亡人を棒で殺害させた。

さらに百官の前で投降した兵の舌をえぐり抜き、手足を切断させている最中に飲食するなど、様々な狂態が相次いだ。
このような相次ぐ異常事態に憂慮した王允は、友人の黄琬や部下の士孫瑞と話し合い、董卓暗殺計画を練って実施の準備を始めた。

結果的に暗殺を引き受けたのは、王允と同じ并州出身で董卓の寵臣となっていた呂布であった


 


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呂布は董卓に信頼され、その養子となり身辺警護を勤めていたが、ある時に董卓の機嫌を損ねて手槍を投げつけられたことがあった。
また董卓の侍女と密通しており、この事がばれないかと恐れていたという。

そのような折に呂布の相談を聞いた王允は、自身の暗殺計画を打ち明け、呂布を説き伏せて仲間に引き入れた。
192年4月、董卓が宮殿に参内した際、これを呂布に殺害させた




出典: 「王允」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



貂蝉


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中国小説『三国志演義』に登場する架空の女性
中国古代、冠の一つ種類 。貂蝉冠を呼称する。

貂蝉(ちょうせん)は、小説『三国志演義』に登場する架空の女性。
実在の人物ではないが楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられる

『三国志演義』第八回から登場
幼少時に市で売られていた孤児で、王允が引き取り、実の娘のように諸芸を学ばせて育てられた。

朝廷を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使い、董卓の養子の勇将呂布と仲違いさせる計画を立てた。

王允はまず呂布に貂蝉を謁見させ、その美貌に惚れさせる。
次に呂布とは別に貂蝉を董卓に謁見させ、董卓に貂蝉を渡してしまう。

怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めた。
その後、呂布と貂蝉が度々密会し、貂蝉が呂布のもとにいたいという意思表示をする。
呂布が密会していることに董卓はいったん怒ったが、腹心の李儒の進言により貂蝉を呂布の元に送るように言う。

だが、一方で貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、董卓の下を動こうとしない。
それに怒った呂布が王允と結託し、董卓を殺害した。

強固な結びつきを持つ両者の間に貂蝉を置き、貂蝉を巡る感情を利用し両者の関係に弱点を作りそこを突く、これが「連環計」である。

董卓亡き後の貂蝉は呂布の妾となったが子ができなかった。
(第十六回)下邳(かひ)の攻防戦では、陳宮に掎角の勢を進言されこれに従い出陣しようとした呂布を正妻の厳氏ともに引き止めている。

下邳陥落後の貂蝉については記述がない

 

モデルとなった人物

中国においては、史書『三国志』には次のように書かれている。


董卓は呂布に宮中の門を守備させていたが、呂布は董卓の侍女と密通し、発覚をおそれて不安に思っていた。

後に王允を訪問した際、ちょっとした事で腹を立てた董卓に殺されかけたことを話したが、董卓暗殺を考えていた王允はこの計画を呂布に打ち明け、呂布はそれを実行した。


この「董卓の侍女」こそがモデルで、後世の講談や物語において架空の名前をつけたとする説がある。

 

伝承

民間伝承では貂蝉はひどく不美人で、王允が華佗にそのことを打ち明けたところ、華佗は首を西施のものと取替え、それでも度胸がなく行動に移せないのを嘆いたところ、今度は肝を荊軻のものと取り替えたという話がある。

一説には天下を憂いて物思いに耽る姿のあまりの美しさに、月が恥じて雲に隠れてしまったと言われる。

元代の雑劇『錦雲堂美女連環計』では姓を任、名を紅昌、小字を貂蝉と設定している。

その後の展開としては、貂蝉を巡り曹操と関羽が争うが曹操が降りて関羽に譲る、または関羽が心の動揺を鎮めるため貂蝉を斬ってしまう、など作品によって異同が見られる

日本国内で広く知られる吉川英治の小説『三国志』およびそれを元にした横山光輝の漫画『三国志』では連環の計を遂げた貂蝉が自害して果てるという翻案がなされている。

園田光慶と久保田千太郎による漫画版では董卓の死後、その残党を一掃しようとした呂布の目の前で殺されている。

『天地を喰らう』では呂布の妹として登場している。

その他の『三国志演義』を題材にした創作作品では、悪女・忠女・戦う女傑など多様な創作を交えて描かれている。




出典: 「貂蝉」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



第8話を観た時、僕は てっきり貂蝉は実在の人物だと思ったのですよ。。。それで調べてみたら、上の説明にもあるように架空の女性だったのです。。。



デンマンさんは、ガッカリなさったのでござ〜ますかァ〜?

いや。。。どうして貂蝉が架空の人物だったのか? その理由が分かりましたよ。。。

なぜ、架空の人物だったのですか?

実在の人物ではないが貂蝉は、楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられると書いてある。。。歴史の時間に実在の3人の名前は出てきたのですよ。。。つまり、歴史の先生は、歴史の時間に架空の人物の名前を出すのを控(ひか)えたのですよ。。。だから僕は中国3大美人の名前を知っていても貂蝉の名前を知らなかった。。。もし、貂蝉が実在の人物だったら、歴史の先生が、その名前を黒板に書いたはずです。。。

でも、架空の人物だとは言え、モデルになった女性はいたと あたくしは思いますわァ〜。。。

なぜ卑弥子さんは、そう思うのですか?

昔の人は言いました。。。火のない所に煙は立たず、と。。。

なるほどォ〜。。。

上の説明にも、次のように書かれていますわ。。。




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中国においては、史書『三国志』には次のように書かれている。


董卓は呂布に宮中の門を守備させていたが、呂布は董卓の侍女と密通し、発覚をおそれて不安に思っていた。

後に王允を訪問した際、ちょっとした事で腹を立てた董卓に殺されかけたことを話したが、董卓暗殺を考えていた王允はこの計画を呂布に打ち明け、呂布はそれを実行した。


この「董卓の侍女」こそがモデルで、後世の講談や物語において架空の名前をつけたとする説がある。



 



呂布は董卓の侍女と密通したというのは、ありそうなことでござ〜ますわァ〜。。。つまり、董卓の侍女が貂蝉だったと思いますわァ。。。



なるほどォ〜。。。

ところで、その後の展開としては、貂蝉を巡り曹操と関羽が争うが曹操が降りて関羽に譲る、または関羽が心の動揺を鎮めるため貂蝉を斬ってしまう、など作品によって異同が見られる、と書いてござ〜ますけれど、デンマンさんが観たドラマでは、貂蝉はどうなったのでござ〜ますかァ?

貂蝉の その後は次のようになるのです。

 


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呂布は捕らえられ曹操の命令で死刑にされてしまう。。。貂蝉は、呂布と一緒に死のうと処刑場にやってくるのです。。。

 


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呂布は、こうして十字架に張り付けられ、貂蝉も彼に寄りそって処刑を待つ。。。ところが、処刑寸前になって馬で駆けつけた伝令が曹操の命令を伝える。。。「呂布だけを処刑し、貂蝉を殺してはならぬ」という命令なのです。。。



つまり、曹操は貂蝉を自分の女にしようというのですか?

そういうことです。。。

 



『三国志第18話ー呂布死す』

 



貂蝉は呂布と共に死のうとするのに、命令で貂蝉は死ぬことが許されないのですか?



そうなのです。。。

。。。で、その後、貂蝉はどうなるのでござ〜ますか?

次のようになるのです。

 


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貂蝉は曹操に願い出て、処刑された呂布の遺体を引き取って、体を清めて棺に収め葬式を済ませるのです。。。

 


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曹操が用意した白門楼という館(やかた)で貂蝉は暮らすことになる。。。そこへ曹操がやって来る。。。唄を歌ってくれと所望(しょもう)する。。。

 


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貂蝉は曹操の求めに応じて仕方なく歌うのだけれども、曹操のために歌ったのではなく「亡き夫を慰めるために歌ったのです」と不満の気持ちを伝える。。。

 


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そう言ったあとで、貂蝉は懐に忍ばせていた剣を曹操に見せる。。。実は、この剣は「七星剣」といういわくつきの剣なのですよ。。。曹操が、その「いわれ」を下の第19話のクリップの中で長々と話します。。。

 


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「オマエは、その七星剣で私を殺したいのか?」と曹操が言う。。。でも、貂蝉は自殺するために、その剣を懐に忍ばせていたのです。。。曹操の目の前で アッという間に貂蝉は首を切って自殺してしまう。

 


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『三国志第19話ー曹操・劉備の暗躍』

 



あらっ。。。呂布に死刑を命じた将軍・曹操の目の前で貂蝉は七星剣を使って自殺するのでござ〜ますかァ?



そうなのです。。。

もし、これが史実だとして貂蝉は、七星剣を使ってマジで自殺するでしょうかァ〜?

呂布をあれだけ愛していたとしたら曹操に弄ばれる前に自殺したと思いますよ。。。卑弥子さんが貂蝉だとしたら、どうしますか?

あたくしならば、自殺しませんわァ。。。密かに白門楼を抜け出して、曹操よりも若くてハンサムな将軍を探し出して一緒に暮らしますわァ。。。うふふふふふふ。。。

なるほどォ〜。。。卑弥子さんらしいですよ。。。


 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ〜。。。

あなたがもし、貂蝉だとしたら、どうしますか?

卑弥子さんのように、白門楼を抜け出して、曹操よりも若くてハンサムな将軍を探し出して一緒に暮らしますか?

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるるのですかァ〜?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


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あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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