逢引きコンチェルト
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デンマンさん。。。逢引きコンチェルト という曲があるのですか?
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あります。。。小百合さんは聞いたことがありませんかァ〜?
ありませんわァ〜。。。モーツァルト。。。、それともシューベルトが作曲したのですかァ〜?
いや。。。その二人ではありません。。。でも、逢引きコンチェルト というのは、僕が命名したので、おそらく そういう題名の曲はこの世にはまだないと思います。。。だから、小百合さんが知らないのも無理もないのです。。。
そういう嫌がらせをしないで、教えてくださいなァ。
小百合さんも知っているはずです。。。かつて記事でも書いたことがあります。。。思い出してください。。。
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逢びき
Brief Encounter
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『逢びき』(あいびき、Brief Encounter)は、1945年のイギリスの恋愛映画。
互いに配偶者を持つ身でありながら道ならぬ恋に惑う男女の出会いと別れを描いた恋愛映画の傑作である。
ノエル・カワードの戯曲『静物画』の映画化であり、デヴィッド・リーンが監督、セリア・ジョンソンとトレヴァー・ハワードが主演した。
全編にわたってラフマニノフのピアノ協奏曲第2番がBGMとして効果的に使用されたことでも名高い。
なお、ピアノ独奏はアイリーン・ジョイス(ムイル・マティソン指揮/ナショナル交響楽団)。
1974年にリチャード・バートンとソフィア・ローレンの主演でテレビ映画『逢いびき』としてリメイクされている(日本では1976年に劇場公開)。
あらすじ
1938年。中年の男女が駅の待合室にいるところにおしゃべりのドリーが割り込んでくる。
2人は最後の別れの時だったのに邪魔をされる。
帰りの汽車の中でもドリーは喋りっ放しだった。
うんざりしながら帰宅すると、会社員の夫フレッドと2人の子供がローラの帰りを待っていた。
ローラは「駅でめまいを起こしたので少し休む」といい、心配したフレッドは気分展開にクロスワードパズルを勧める。
ローラはラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」のレコードを聴きながら、数週間の出来事を振り返っていた。
(rachimaninoff)
「数週間前まで私は家庭がいきがいの普通の主婦だった。
あの日から、私の世界が変わった」と回顧し始める。
主婦ローラは毎週木曜日に、近くのミルフォードという町へ汽車で出かけ、1週間分の買物をし、本屋で本を取替え、簡単な昼食をとり、午後は映画を観たりして夕方の汽車で帰宅するという平凡な結婚生活を送っている。
ある日の夕方、目に異物が入ったのを一人の医師に取ってもらう。
次の木曜日にはミルフォードの町で行き会う。
その次の木曜日、ローラは食堂で再会。
満員だったので同席になり、昼食を食べながら自己紹介をする。
彼はアレック・ハーヴェイという開業医で、木曜日毎にミルフォード病院に勤めている友人スチーヴン・リンの代理でやって来るという。
アレックはローラに「『枢機卿の恋』と『霧の中の恋』のどちらを観る?」と尋ね、映画館では『情熱の嵐』の予告編が流さる。
互いに心を惹かれていき、アレックはまたぜひ会ってくれと頼む。
しかし、次の木曜日にはアレックが来ず、落胆して汽車を待っていると、アレックが駆けつけて手術が手間どったという。
次の木曜日、映画『情熱の嵐』がつまらず、植物園を散歩してボートハウスで二人は愛の告白をする。
帰宅すると息子が頭にケガをしていて、ローラは自責の念にかられる。
次の木曜日、郊外にドライヴして愛を語り、アレックに誘われるまま、リンのアパートに向かうと思いがけずリンが早く帰宅。
ローラは屈辱から夜の町を歩き回り、警官に娼婦と間違えられそうになる。
駅でアレックも妻子ある身の自責に耐えられず別れることにして、南アフリカ、ヨハネスブルグの病院に勤務することに決めたと話す。
次の木曜日、別離の苦しさが胸を締めつけ、思いがつのるが、この時、知人ドリーに見つかる。
アレックと別れの挨拶もできないまま、汽車が去っていく。
ローラは急行列車に身投げしたい衝動に駆られるを思い留まる。
愚直だが善良な会社員の夫フレッドは最近のローラの様子から何かを察していたらしいが、何もいわない。
夫の胸の中で泣く。
作品の評価
Rotten Tomatoesによれば、43件の評論のうち、91%にあたる39件が高く評価しており、平均して10点満点中8.59点を得ている。
小津安二郎は本作について「なかなかいい。いいけれども、妙な一つの形式があるでしょう。場面に声が聴えて説明する。あれがどうも内容にならないで一つの説明に終っているようでね。あの写真はああいう方法を使わないでハッキリわかれば大変いいと思う。これは芸術上の問題だけれどもね。わかることはわかるが、あのわからせる方法が説明だから、そこを僕は買わないのだ」と評している。
出典: 「逢びき」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あの小津安二郎・監督も生前、「なかなかいい」と言ってたくらいですから、見るだけの値打ちのある映画です。。。
そんなに良かったのですか?
あのねぇ〜。。。ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」がバックグラウンドで流れて、この曲が二人の心の動きを映し出している。。。この曲を聞いただけでも、感動することができますよ。。。上の「あらすじ」の中に、あの盲目のピアニストの辻井伸行さんが弾く協奏曲を貼り出したので、ぜひ聴いてみてください。。。
分かりましたわ。。。今週末は、久しぶりに行事がないので、ゆっくりと上の映画を観てみますわァ〜。。。つまり、この「ピアノ協奏曲第2番」のことを逢引きコンチェルト とデンマンさんは名付けたのですか?
そういうことです。。。
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映画『逢びき』のバックグラウンドに流れていた この曲はまさに逢引きコンチェルト だと思ったわけですよ。。。
作曲家のラフマニノフは「逢引き」の場面を考えながら作曲したのかしら?
僕も同じことを考えて調べてみたのですよ。。。
セルゲイ・ラフマニノフ
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生誕: 1873年4月1日
死没: 1943年3月28日(69歳没)
1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、ロシア帝国のノヴゴロド県セミョノヴォで下級貴族の家に生まれた。
家系はモルダヴィア公・シュテファン3世の孫で "Rachmanin" の愛称で呼ばれた "ヴァシーリー" の子孫という伝承を持つ。
ラフマニノフ家は音楽家の素養を持つ家系で、セルゲイの祖父アルカディ・アレクサンドロヴィチはジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニストだった。
陸軍の将校だった父ヴァシーリイ・アルカジエヴィチもアマチュアのピアニストで、彼はピョートル・ブタコフ将軍の娘リュボーフィ・ペトローヴナと結婚し、その際に妻の持参した5つの地所を手に入れていた。
夫妻は3男3女を儲け、セルゲイはその第3子であった。
父親は音楽の素養のある人物だったが、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していたという。
1877年、セルゲイが4歳になった後、一家はセミョノヴォから180 km離れた豊かな自然に恵まれたオネグの地所に移り住み、セルゲイは9歳まで同地で過ごした。
その後セミョノヴォの地所は1879年に売却された。
セルゲイは4歳のとき母からピアノのレッスンを受け始め、彼女が弾いたパサージュを1度聴いただけで完璧に再現する息子を見て、母が彼の音楽の才能に気づいたとされるが、姉たちの家庭教師をしていたドゥフェール夫人がセルゲイに宛てた1934年の手紙によると、彼女が歌唱する際に母の伴奏を聴いて暗譜したセルゲイが、後日ドゥフェール夫人の前で演奏を披露し、それを彼女が両親に報告した、とある。
この話を聞いた祖父アルカディに説得された父ヴァシーリィは息子のためペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナツカヤを招き、セルゲイはラフマニノフ家に住み込んだ彼女からレッスンを受けた。
セルゲイ自身、「彼女が最初の音楽の先生だった」と語っており、歌曲『12のロマンス』(作品14)の第11曲「春の水」をオルナツカヤに捧げている。
1883年の暮れ、妹ソフィアがジフテリアで亡くなり、まもなく両親は離婚し、父は家族をおいてモスクワに去った。
この頃、セルゲイは宗教教育に熱心な母方の祖母ソフィア・アレクサンドロヴナ・ブタコワに連れられてよく教会に通っており、そこでロシア正教の奉神礼の聖歌や鐘の音に影響を受けた。
1885年、声楽の才能に恵まれ、チャイコフスキー作品を紹介するなどセルゲイに大きな影響を与えていた姉イェレナが悪性貧血により17歳で亡くなると大きな喪失感に襲われ、祖母の勧めでヴォルホフ川沿いのボリソヴァの地所で療養したが、音楽院の授業にも身が入らなくなって不登校となり、一般教養の試験で落第を繰り返すようになる。
この時期、彼はモスクワ音楽院で行われたコンスタンチン大公ら著名人も臨席する演奏会で演奏の披露もしていたが、春季試験で落第したことでオルナツカヤは母に、セルゲイはこのままでは進級できないと警告していた。
悩んだ母は、セルゲイにとって従兄にあたるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し、厳格な指導で知られるニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。
音楽家としての出発
1885年秋、ラフマニノフはズヴェーレフ邸に移り、以降の約4年間をここで過ごし、その間に同級生のアレクサンドル・スクリャービンと親しくなった。
ズヴェーレフは、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。
ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。
2年後、音楽院初等科を修了したラフマニノフは奨学金を得て高等科に進み、アントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学び、のちにはジロティにもピアノを学んだ。
またステパン・スモレンスキイの正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いた。
ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフは1889年に作曲のための時間が欲しいこと、作曲のための部屋と専用のピアノを提供して欲しいとズヴェーレフに願い出て彼の不興を買った。
ズヴェーレフ邸を出ることになったラフマニノフは父方の伯母ワルワラ・アルカジエヴナの嫁ぎ先にあたるサーチン家に身を寄せた。
ここで姻戚のスカロン家の末娘ヴェラに初めて恋をするが、彼女の母親に交際を反対され、文通も禁止されたが、ヴェラの姉ナターリヤ宛の手紙にヴェラへの手紙を同封する形で文通を続けた。
それらの手紙は現存しており、ラフマニノフの初期の作品について知るための貴重な資料となっている。
1990年からは夏にはタンボフ県イヴァノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となり、ロシアを離れるまで毎年訪れていた。
イヴァノフカの牧歌的な環境はラフマニノフの創作意欲を刺激し、1891年7月に完成させジロティに献呈した『ピアノ協奏曲第1番 嬰へ短調』(作品1)をはじめとする多くの作品が同地で生まれている。
1891年、ジロティが8月(学年度末)にモスクワ音楽院を離れることを知らされ、他の講師の教えを受けることに不安を覚えたラフマニノフは音楽院に卒業試験の1年繰上げ受験を希望した。
その時点で試験までの準備期間が3週間しかないことなどからジロティも院長のワシーリー・サフォーノフも試験結果にはさして期待はしていなかったが、ラフマニノフは卒業生から試験の傾向を教えてもらうなどの対策を講じ、同年7月に優秀な成績で合格し、その3日後には音楽理論と作曲の学年試験にも合格した。
しかし、休暇を過ごしていたイヴァノフカでマラリアに罹患し、年の後半を療養に費やした。
1892年1月、ラフマニノフは初の単独演奏会で『悲しみの三重奏曲第1番 ト短調』を初演し、3月17日には『ピアノ協奏曲第1番』(第1楽章のみ)を初演した。
作曲科卒業試験の繰上げ受験の希望も認められ、卒業制作としてアレクサンドル・プーシキンの叙事詩『ジプシー』に着想を得たオペラ『アレコ』を17日間で書き上げた。
『アレコ』は5月にボリショイ劇場で初演され、チャイコフスキーから絶賛された。
ラフマニノフ自身は、この初演は「間違いなく失敗する」と思っていたが公演は大成功をおさめ、劇場側は後に彼の終生の友となるフョードル・シャリアピン主演での公演継続を決定した。
『アレコ』でラフマニノフは史上最高の成績をおさめ、それまでタネーエフとアルセニー・コレシェンコにしか与えられていない大金メダルを授けられてモスクワ音楽院を卒業した。
卒業試験の委員を務めていたズヴェーレフからは金時計を贈られ、和解を果たしている。
5月29日、音楽院から卒業証書が発行され、正式に「自由芸術家」(プロの音楽家)として活動する資格を得た。
9月にはアレクセイ・プレシェエフがロシア語訳したウクライナとドイツの詩に曲をつけた歌曲集『6つのロマンス』(作品8)を出版した。
交響詩『岩』を聴いたチャイコフスキーはラフマニノフに、この曲を来年のヨーロッパ公演ツアーで自らの指揮で演奏したいと述べた。
しかし、その年の秋にキエフで行われた『アレコ』公演からモスクワに戻ったラフマニノフは、チャイコフスキーが11月6日にコレラで死去したとの報を受ける。
ラフマニノフはその日の内に追悼曲『悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調』(作品9)の作曲にとりかかり、約1ヶ月半で完成させた。
挫折~指揮者デビュー
チャイコフスキーの死以降、ラフマニノフは低迷期に入った。
彼は創作意欲を失い、客足が落ちてきた『アレコ』はボリショイ劇場の演目リストから外されてしまった。
彼は収入を得るため、ピアノ教師の仕事を再開した。
1895年後半にはイタリアのバイオリニスト、テレジーナ・トゥアとのロシア~東欧横断ツアーを行ったが、トゥアの演奏への不満や性格に我慢できなくなったラフマニノフは出演料の未払いを理由にして、ツアーを途中で打ち切った。
懐に窮したラフマニノフは、音楽院卒業の際にズヴェーレフから贈られた金時計を一時質入れしている。
この年の1月、ラフマニノフは教会の礼拝で耳にした聖歌に刺激を受けて『交響曲第1番 ニ短調』(作品13)を構想し、先述のツアー出発前の9月に完成させた。
ラフマニノフは『交響曲第1番』に全身全霊で取り組み、曲の完成後は「初演を聴くまでは他の曲は書けない」というほどの虚脱状態となったが、1896年10月に預かっていた大金を列車の中で盗まれてしまい、その弁済資金を捻出するため仕方なく作曲活動を再開し、数ヶ月をかけて『6つの合唱曲』(作品15)『楽興の時』(作曲16)などを完成させた。
1897年3月28日、ペテルブルクで行われたロシア交響楽演奏会において『交響曲第1番』が初演されたが、記録的な大失敗に終わった。
ツェーザリ・キュイは、この曲を「地獄の音楽院で『エジプトの七つの災い』を主題にした曲を作る課題を出された生徒が、今回のラフマニノフ氏の作品に似た曲を作れば、彼は称賛されるだろう」と酷評している。
ラフマニノフ自身は失敗の原因はアレクサンドル・グラズノフの指揮にあると思っていた。
指揮について言及した同時代の批評は少ないが、ラフマニノフと親しかった批評家アレクサンドル・オッソフスキーは回想録の中で、グラズノフが碌なリハーサルもせずオーケストラをまとめ切れていなかった可能性と、他に2曲の初演が含まれていた当日のプログラム構成の問題点を指摘しており、またサーチン家の人々はアルコール依存症のグラズノフが当日も酒に酔っていたと証言している。
他に、ペテルブルクがラフマニノフの属したモスクワ楽派とは対立関係にあった国民楽派の拠点だったことの影響などが指摘されている。
ラフマニノフは同年5月の手紙で『交響曲第1番』について、初演の失敗や酷評については「気にしていない」としながらも、「(曲自体に)私自身が満足できなかったことに、深く傷つき、落ち込んでいる」と書いている。
この曲はラフマニノフの存命中は二度と演奏されることはなかった。
この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、3年間ほとんど作曲ができない状態に陥った。
後に彼は当時を振り返って「脳卒中患者のように長い間、手と頭が不自由になっていた」と表現している。
再びピアノ教師として生計を立てていたが、幸運にも実業家サーヴァ・マモントフが主宰するモスクワ私設オペラの第2指揮者に就任できたため、以降は演奏活動に勤しんだ。
指揮者デビューは1897年10月12日の公演で、演目はサン=サーンス『サムソンとデリラ』だった。
この歌劇団でシャリアピンと知り合い、生涯の友情を結んだ[78]。彼の結婚式にも介添人の1人として立ち会っている。
久々に作曲も試み、1899年の2月末までに2つの短いピアノ曲(『幻想的小品集』『フゲッタ』)を完成させている。
その2か月後には初めてロンドンを訪れて指揮と演奏を披露し、好評を博した。
しかし同年夏以降、再び鬱状態となり、歌曲『運命』(作品21-1)を完成させて以降は作曲から離れ、ロンドン再訪もとりやめた。
同年、彼の落胆を心配した知人の仲介により、レフ・トルストイと会見する機会にも恵まれた。
2度目の面会の際、ラフマニノフはシャリアピンを伴ってトルストイ宅を訪ね、『運命』を披露した。
しかし、このベートーヴェンの『交響曲第5番』に基づく作品は老作家の不興を買い、ラフマニノフはさらに深く傷つくことになった。
回復~復活、作曲家としての成功
1900年、作曲を試みては放棄を繰り返し、自暴自棄に陥っていたラフマニノフは、伯母の勧めで、サーチン家の知人の精神科医ニコライ・ダーリの治療を受けることになった。
ラフマニノフは1月~4月にかけて、1日おきにダーリから睡眠・気分・食欲を改善して作曲意欲を向上させるよう構成された催眠療法と支持療法による治療を受けた。
一連の治療を受けたラフマニノフはシャリアピンと連れ立っての演奏旅行で訪れたヤルタでアントン・チェーホフと出会って親交を結び、チェーホフはラフマニノフの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えた。
7月、ミラノのスカラ座に招かれたシャリアピンに乞われて共にイタリアを訪れた。
この頃には「新しいアイデアが湧き始め」て、作曲を再開した。
1901年4月に完成した『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』(作品18)はダーリに献呈された。
『ピアノ協奏曲第2番』は1900年12月22日にラフマニノフ自身の演奏とジロティの指揮で第2・第3楽章が披露された後、1901年11月9日に全曲が初演され、大成功を収めた。
この作品でラフマニノフは初めてグリンカ賞を受賞(以降、計4回受賞)し、1904年には500ルーブルの賞金を授与された。
作曲家として成功したラフマニノフは1902年、従妹のナターリヤ・サーチナと結婚した。
4月に作曲を始めた『12の歌曲集』(作品21)には妻に捧げた「ここは素晴らしい」(21-7) や、後に自身でピアノ独奏曲にも編曲した「ライラック」(21-5) といった作品が含まれている。
当時いとこ同士の結婚はロシア正教会の教会法で禁止されていたため皇帝の許可証が必要であり、または普段から教会に通っていないラフマニノフは式の前に告解を受ける必要があった。
伯母の奔走により許可証の交付と告解を受けたラフマニノフは5月12日、モスクワ郊外の第六ターヴリチェスキー連隊兵営の礼拝堂で、ジロティとチェリストのアナトーリー・ブランドゥコーフを立会人に、ささやかな結婚式を挙げた。
夫婦にはイヴァノフカの2軒の別荘のうち小さい方が贈られ、新婚旅行は3カ月をかけてヨーロッパを横断した。
この旅行中に観劇したリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指環』に触発され、カンタータ『春』(作品20)を作曲している。
帰国後、夫婦はモスクワに住み、ラフマニノフは聖エカチェリーナ女子大学とエリザヴェーティンスキー学院での音楽教師の仕事を再開した。
1903年2月、『ショパンの主題による変奏曲』(作品22)を完成させた。
5月14日、長女イリーナが誕生。
出典: 「セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ」
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ラフマニノフ家は音楽家の素養を持つ家系だったのですわねぇ〜。。。
僕もそうだろうと思いましたよ。。。モーツァアルトも天才だけれども、音楽家の父親の影響を強く受けてますからねぇ〜。。。
。。。で、ラフマニノフはロマンチックな「逢引き」の場面を考えながら作曲した、とデンマンさんは思いますか?
もちろん、そうじゃありませんよ。。。むしろ、正反対で、上の生い立ちや出来事を読んでみると、ラフマニノフは、苦悩や悲しみや、挫折から脱却しようという気持ちで作曲したと感じますよ。。。『交響曲第1番』が初演されたが、記録的な大失敗に終わったという事は、ラフマニノフにとってはトラウマになってます。。。なぜなら、この曲はラフマニノフの存命中は二度と演奏されることはなかったのだから。。。
要するにロマンチックな気分ではなかったのですわねぇ〜。。。
そういうことです。。。つまり、ラフマニノフが『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』(作品18)を作曲していた頃は、作曲家としての生命を賭けて、生きるか?死ぬか?…というどん底の状態から這い上がろうとしながら書いたと思いますよ。。。
その曲が、どういうわけで、ロマンチックな映画『逢びき』のバックグラウンド・ミュージックに使われたのかしら…?
あのねぇ〜、映画『逢びき』は、表面的には男と女のロマンチックな愛の物語だけれども、あの物語の核心は苦悩、挫折、悲しみですよ。。。なぜならヒロインの主婦は、別れに際して落ち込んで、駅を通過する急行列車に飛び込もうとしたのだから。。。でも、子供や夫のことが想い浮かんで踏みとどまった。。。
要するに、ヒロインの苦悩、挫折、悲しみと『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』(作品18)の曲の苦悩、挫折、悲しみが共鳴していたのですわねぇ〜。。。
そういうことですよ。。。
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【ジューンの独り言】
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ですってぇ~。。。
あなたは映画『逢びき』を観て、どう思いましたか?
小百合さんが言ったように、ヒロインの苦悩、挫折、悲しみと『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』(作品18)の曲の苦悩、挫折、悲しみが共鳴していたと思いますかァ〜?
ええっ。。。「そんなことはどうでもいいから、他に面白い話を聞かせてよ」
分かりましたわァ〜。。。
デンマンさんが立ち上げたピンタレストには 400以上のボード(カテゴリ)があります。。。
あなたが興味を持っているカテゴリがかならず見つかるはずです。。。
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ええっ。。。「そんなことは どうでもいいから、他に何か面白いことを話せ!」
あなたは、更に そのように わたしにご命令なさるのですかァ~?
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ええっ。。。 「そんなことは どうでもいいから、他に何か面白いことを話せ!」
あなたは、更に わたしにご命令なさるのですかァ~?
分かりましたわ。。。 じゃあ、面白い動画をお目にかけますわァ。。。
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ええっ。。。? 「そんな馬鹿バカしい動画など、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」
あなたは、また そのような命令口調で わたしに強要するのですか?
わかりましたわァ。。。
では、たまには日本の歴史の話も読んでみてくださいなァ。
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