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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

桃栗三年柿八年。

2024年11月13日 | キリスト教

【隣の柿はよく客喰う柿だ】ん?

 

 確かこれ、心理学者の河合隼雄先生の言葉だった気がするので、わたしが考えたついたものでもなんでもないのですが……一般に、ちょっと成長が遅いように感じられるお子さんについて、「柿八年タイプの子」って言うのでしょうか。

 

 桃栗タイプの子、つまりは平均的な普通の子が三年くらいで出来ることについて、八年くらいかかってしまうことから……まあ、時間としてはこれはあくまでたとえなので、平均的な普通の子が三時間くらいで出来ることについて八時間かかってしまうであるとか、そうしたことで「あの子はダメな子」、「遅い子」、「何も出来ない子」――みたいに分類されたり、いじめられたり、いじめというほどでなくてもちょっと仲間から外されたり……でも、「人よりちょっと遅い」とか「理解するのに時間がかかる」というだけなので、少し周囲の人が待ってあげたりサポートしてあげれば出来る、あるいは出来るようになる……ということですよね。

 

 また、桃栗三年タイプの子が平均的な普通の子だとしたら、もっと色々飲み込みが早くて普通よりもなんでも器用に速く出来る子もいるわけで……基本的に世間というか、先生やまわりの大人などが注目して褒めたりするのはこちらのタイプの子かもしれません。他に、柿八年というほどでなくても、平均より少し遅いタイプの子、四~七年タイプの子もいたりして、大体学校のクラスではこうした色々なタイプの子が混ざってるんじゃないかなと思ったり

 

 でも、団体で集団行動するとなると、大体柿八年タイプの子が損をすると言いますか、世の中大体そうしたシステムなわけですよね。とはいえ、勉強は柿タイプだけど、体育は桃栗タイプだったり、音楽と図工は桃栗だけど、他の教科は柿タイプ……というほど極端でなかったとしても、そうした色々な個性が混ざっているのが普通と思うので、何もかもが桃栗三年の平均的タイプですとか、何もかもが柿タイプでいつでも自己嫌悪で落ち込んでますとか、そこまでのことはないと思ったりもするわけです(^^;)

 

 それで、ここはキリスト教について何か書くといったブログですので、このことがどう信仰と関係するかと言いますと――キリスト教徒、クリスチャンの方にも色々な人々がいて、イエスさまはそのすべての人を愛していると思うんですよね。

 

 聖書を読んでも、パウロやルカのような頭のいい賢いタイプの方がいる一方、使徒のペテロはちょっとおっちょこちょいなドジのように受け止められていたり……ハリウッドのような場所で成功している方もいれば、大企業の重役の方もいたり、一方で刑務所に入った経験のある方やアルコール中毒の方やホームレスの方などなど……このあたりについては、「神さまがいるなら彼を病気にさせないでおくことは出来なかったのか」、「交通事故に遭わさせないことは出来なかったのか」、「金銭的に困窮しないようにさせないでおくことは出来なかったのか」などなど、これに類する疑問はたくさんあります。

 

 でも、一度神さま、イエスさまの愛に触れると「何故こうしたことが起きたのかわからない」、「許されたのかわからない」、けれど、天に神さまがおられることは真実だし、死後の天国も現実だとは思う……その「何故かはわからない」という地上の現実とのループですよね。「何故」、「何故」、「何故」と自問し続けても禅問答なので、いつしか人は疲れてしまうし、そうこうする間にも目の前にやるべき仕事は色々あったりもして、そんなこんなで日々は過ぎてゆく。

 

 前にも、この言葉自体については書いた気がするのですが、その昔パート仲間のおばさんたち(いえ、中には時々若い方も混ざっていたものの^^;)の中で、「旦那も息子も娘も思うままにならない。一体自分はこんな苦労だけして、なんのために生きてるのかわからない。生きてても全然楽しくない」という人生相談みたいな話があった時、わたしよりずっと年上で、すでに大きいお子さんがふたりいらっしゃる方が、彼女がいなくなったあとこう言ってたわけです。「それでも耐えていれば、人生にいい目(芽)は必ず出てくる」と……。

 

 わたし、その時すごく「人生経験からくる、深い含蓄のある言葉だなあ」って思いました。わたしみたいに人生経験の乏しい人間が同じことを口にしてもまったく重みがないけれど、この方が何気なく口にすると、本当に深い含蓄と重みがあると思いました。まあようするに、ただそれなりに年数生きてるだけでも、大なり小なり「(問題が)何もない」方というのはいらっしゃらないわけで……ただ、人がやっぱり神さまに願うのは、答えが欲しいと思うのは「これが一体いつまで続くのか」、「問題の解決が来るのは、この苦しみ・つらさ・痛みが終わるのがいつか」、「その人生のいい目(芽)とやらは一体いつ出てくるのか。いつまで待てばいいのか――という、そうしたことだと思うんですよね。

 

 それで、結局のところこれは、最終的に後付け論的な話でしかないので非常に恐縮なのですが(汗)、わたし自身は確かに「八年待って柿が収穫できてよかった」と思うことが、(イエスさまに聖霊さまを通して祈っていて)何度もありました。もちろん、問題がそう深刻でも重くもない場合などは桃栗三年の三年も待たずに解決したこともありますし、その後ある程度年月が過ぎた今では「ああ、これは柿問題だな」といったように捉え、八年どころかすでに祈って十年以上にもなるといった問題がいくつもあったりはします(^^;)

 

 そして、スーパーなどで秋あたりに柿を見たりするたびに思うわけです。「じっと待って耐えていれば、やがて人生にいい芽(目)は出てくる」というあの方の含蓄と重みのある言葉と、「やっといい芽が出たと思ったのに、それがさらにダメになる」ということもまた、人生にはある。でも、イエスさまに聖霊さまを通して祈ることには本当に力があります。神さまに対して祈ろうがどうしようが、結局三年とか八年待てば機械的に収穫は得られる……というのではなく、その収穫の米の一粒、果物の小さなひとつが、本当に「ああ、うまいなあ」と涙ながらに感謝とともに食べることが出来る、滋味深い、この上もなく味わい深いものとなるためには――いえ、もうその頃には言葉にもならない想いが心の底からこみあげる、それもまた声にならない神さまへの祈りとそう思うのです

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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