【祈る手】アルブレヒト・デューラー
>>あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた事を見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
(マタイの福音書、第6章6節)
※祈り=神との霊的交わりの方法。祈りは父なる神に対する信者からの語りかけであり、祈りの基礎はキリストの贖いととりなしにあるので、キリストの御名によって祈ることが必要。聖霊によって祈ることは効果がある。祈りは神の御旨に従い、信仰をもって、熱心に励まなければならない。(†聖書脚注より)
以前、どこかに書いたとおり、わたし、小さい頃から祈る子でした(^^;)
誰かからそのように教わったということもなく、ただ夜眠る前に布団の中で祈るというのは、子供だった頃のわたしにとって普通のことだったんですよね。ただ、その頃はイエスさまのことはなんとなく噂でしか聞いたことがなかったので、いわゆる八百万の神というのに祈っていましたし、またその自分なりの祈りが聞かれないことがだんだんわかってきますと、次第に祈らなくなっていった……という、何かそんな感じだったでしょうか。
けれどその後キリスト教のことを知って救われ、「イエスさまに直接祈ることが出来る」恵みのことを知ってからは、再び祈ることが出来、またその喜びにあずかることも出来る……というようになっていったのでした
その……これはおそらく誰しも経験があると思うのですが、とても切実な願いがあって短期間自分なりに祈ってみたものの――まるで祈りが聞かれる感じがしないので、「やっぱり神さまなんていないんだ」みたいになったことのある方というのは、おそらくとても多いのではないかと思います。
ただ、キリスト教徒の祈りのポイントっていうのは(わたしが思うに)聖霊さまを通した祈りは聞かれるということだと思うんですよね。
この聖霊さまというのは、父と子と聖霊の御名によって……の聖霊であり、イエスさまを信じ、聖霊のバプテスマがくだった信者ひとりびとりには必ず聖霊さまが内住される、ということなんですよね。そしてこの方を通した祈りは聞かれる、ということなので、まずはイエスさまのことを信じ、受け容れることがはじまりです。
わたしもそうでしたが、「聖書を全部読んで、キリスト教の教えについてよくわかってから信じよう」というのであれば、イエスさまのことを信じる人々というのは、今以上に極少数だったでしょう。けれど、最初はキリスト教やイエスさまのことについて、十分よくわかっていなくて十分なのです(わたしもそうでした・笑)。
まずはイエスさまが自分の救い主であることを告白し、イエスさまが十字架にかかってくださったのは、わたしやあなたや全人類の罪がイエスさまの血によって贖われるためであったと信仰告白しましょう。
>>天の父なる神さま、
わたしはあなたを信じます。
今まで信じてこなかったことを、赦してください。
わたしは自分が罪人であることを認めます。
わたしの罪の身代わりとなって、
イエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを信じます。
わたしのすべての罪を赦し、
永遠の命を与えてくださったことを感謝します。
わたしは、あなたをわたしの罪からの救い主、主としてお迎えします。
約束どおりイエスさまが、わたしの心の中に入ってくださったことを感謝します。
わたしのこれからの人生は、あなたのものです。
わたしをあなたが望んでおられるような者に変えてください。
イエスさまのお名前によってお祈りします。
アーメン。
今、もし仮に「なんか意味よくわかんないな~」という感じであったとしても、教会で学びをしていくうちに次第にわかっていく……ということでいいのです。また、口でこのように信仰告白して聖霊のバプテスマを人が求める時、その後教会へ通っていて何も起きないということはないといっていいと思います(異端の教会や、聖霊さまの働きの弱い教会では確かに「特に何も起きない」ということはあるかも、なのですが^^;)。
すると、聖霊さまが導いてくださって、「こんな分厚いもんほんとに読めるかいのう~」と感じる聖書についても教えてくださったり、また祈りとともに聖書を読むことで、正しい理解がきっと進んでいくと思います。
わたしが思うに、これがキリスト教の秘密、教会の秘儀のひとつといっていいのではないでしょうか。
キリスト教を信じている人は世界中にたくさんいるわけですけれども、その中には貧しい人もいればお金持ちの人もいて、あるいは大卒の立派な肩書きを持つ人がいる一方、そうでもない人もいる(※ここにわたしも入ります・笑)……けれど、色々な人がイエスさまのことを受け容れ、その後も信仰を持ち続けることが出来るのは、イエスさまのことを信じ、聖霊のバプテスマを求めた時に聖霊さまが信者のひとりびとりに下って内住され――その後のことは教会で教えや学びを受けることで、「ああ、そういうことなんだ!」と霊的な目が開かれていくという、何かそんな感じでしょうか。
それであればこそ、「普段本なんか読まないし、読んでも漫画か週刊誌程度☆」という方でも「聖書だけは熱心に読むことが出来る」というように変えられていったりするのですし、とにかくどんなことでもなんでも、イエスさまのことを信じたその後のことは「聖霊さまに任せておけばオールオッケー」みたいな感じのことなのです。
そして、今回のタイトルの「祈り。」ということですが、ローマ人への手紙、第8章25~27節にはこうあります。
>>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章25~28節)
何かのことで神さまに祈ってみたものの、三日坊主で終わった……という方はとても多い気がするのですが、けれど、継続して祈る力というものもまた、聖霊さまが必ず与えてくださいます。
人間が祈りはじめてまずわかることは、(大抵の場合)自分には祈る力がないということかもしれません。けれどこのことも、「もっと祈れるようにしてください」と、人が祈り求めるなら、本当に祈れるようになっていきます。
最初はほんの十分かそれより短いくらいからはじめてもいいと思います。なんだったら携帯のタイマーをかけて、とにかく十分の間、「祈りのポーズを取ってみる」というところからはじめてみましょう。
その間、「世界が平和でありますように」ということ以外、特に何も思い浮かばないというのでもいいですし、あるいは「かき氷機が欲しい」とか、何かのゲームのソフトが欲しいとか、「そろそろ寒くなってきたのでストーブが欲しいです」とか、祈りの内容はなんでもいいと思います。
ただ、「きのう僕を侮辱した○△さんが明日交通事故に遭いますように」とか、「上司の△□に呪いの鉄槌を……!!」といった聖霊さまが悲しまれる類いの祈りというのは当然聞かれませんし、そうした人に害を加えたりする以外のことならなんでも祈っていいと思います。
人がよくつい勘違いしてしまうのが、私利私欲について祈るのではなく、アフリカの難民の方のために祈るべきではないだろうか……というそうしたことなのですが、もちろんそうしたことを祈るのと同時に、たとえばダイエットしている方であれば「三キロ痩せますように」とか、「そのための最適な方法を教えてください」というのでもいいでしょうし、身近な方の病気の癒しの祈りや、「明日、発表会があるのですが、どうか緊張しませんように」でも、「職場の○△さんとの関係が改善しまように」でも、とにかくなんでも祈っていいのです。
ただ、一般的に「明日馬券が当たりますように」とか「そのためにどの馬に賭けるべきかを教えてください」といったことや、「宝くじで三億とは言いませんが三千万……いえ、三百万でも三十万でも当たりますように」といった祈りはまずもって聞かれない傾向が圧倒的に強いですし、そのあたりの<摂理>といったことはもちろん考慮に入れなくてはなりません。
たとえば、馬券を買うといった場合、聖霊さまの語りかけや導きによってではなく、結局のところ自分の頭で考えた馬に賭けることになるのですし、その結果その馬券が当たったにしても外れたにしても――神さまがそこに介在されたと考えるというのは普通に考えてあまりに愚かなことですよね(^^;)
また仮にそうした誤った祈り方をしていた場合、そのことも聖霊さまが教えてくださるでしょうし、とにかく祈りのコツ(?)というのは、とりあえずまずはなんでも祈ってみるということかなと思います。
そうすればいずれ、最初は十分しか祈れなかったのが十五分二十分……とどんどん祈れるようになっていくと思いますし、最初は自分の個人的なことばかり祈っていたとしても、そのうちむしろ誰か人のことのために祈っていたほうが、自分の個人的な祈りについても聞かれるようになっていくですとか、何かそうした体験が少しずつ開かれていくかと思います。
それと、他の方に祈ってもらう体験というのも、日々祈り続けていくために大切なことかもしれません。
教会の祈り会などで祈ってもらうと、なんとなく自分の祈りもパワーアップしたように感じますし、人から祈ってもらう体験、互いに祈りあうという聖なる体験というものは、とても貴重な経験だと思います。なんというかわたしの場合は、他の方に祈ってもらうことによって自分の祈りがむしろ応えられなくていいかもしれない……と思ったことすらあります。
たとえば、「自分の抱えている病気が治りますように」といった祈りの場合、病気の症状が重ければ重いほど、その祈りは当然切実なものになるわけですけど……不思議と、「この病気が治っても治らなくても神さまに感謝します」ですとか、人の祈ってくださる気持ちがありがたいので、その気持ちだけでも十分だと感じた時に何故か病気の与える症状が気にならなくなったとか、そうした瞬間に祈りというものは聞かれる……といった感じがするのですよね(^^;)
もちろん、祈り会などで「現在入院中の○○さんのために祈りましょう!」ということで、もう退院は無理だろうというくらいの方が奇跡的に癒されて退院したとか、そうしたこともあるわけですけれども、<感謝>というのはやっぱり、祈りが聞かれる際のポイントという気がします。
前にもどこかに書いた気がするのですが、わたしがよく誰か人のために祈る(中には一度も会ったことのない方も含まれます)時の言葉を少し書き出して、この記事の終わりにしたいと思いますm(_ _)m
どうか神さま、○△さんのことを霊肉ともに豊かに強めてください。
○△さんの人生を豊かに祝福してください。
○△さんの心の願いごとをどうか豊かにお叶えください。
○△さんの心の悩みごとをすべて解決し、その悩みごとから解放してください。
○△さんの髪の先から足の爪先までを豊かにお癒しください。
あと、相手の方の人生の望みを知っている場合は、そのことについても具体的に細かく言葉数をもっと増やして祈ってみましょう。
また、癒しの祈りの場合は、「脳卒中後の後遺症が完全に癒されますように」とか、「膝の痛み・腰の痛みが完全になくなりますように」といったようにその症状についてなるべく細かく祈ることが大切です。
それと、○△さんのところは「わたし」に変えてもいいと思います。つまり、「わたしのことを霊肉ともに豊かに強めてください」、「わたしの人生を豊かに祝福してください」、「わたしの心の願いを叶えてください」、「わたしの心の悩みを解決し、その問題から解放してください」、「わたしの髪の先から足の爪先までを豊かにお癒しください」……あ、あとわたし、「豊かに完全に十全に万全に幾重にも」って祈るのが実は癖です(^^;)
「○△さんの髪の先から足の爪先までを豊かに完全に十全に万全に幾重にもお癒しください」とか、癌にかかっている方でしたら「○△さんの体内の癌細胞を完全に十全に万全に幾重にもお癒しください」とか、そうした祈り方ですね。
他にはやっぱり、感謝の祈りってとても大切で……わたしの場合は、まず悔い改めの祈り、それから感謝の祈り、他の方のための祈り(ここに教会のための祈りなども含まれます。もっともその日によって祈りの対象は変わるんですけれども^^;)、それから自分のための祈り、最後に家族への祈り――といったような、そんな形でしょうか。
悔い改めの祈り→感謝の祈り→その他神さまに叶えていただきたいことを順番に祈っていく……そんな感じだと思います。
ええと、わたしもこの自分の祈り方が正しいとか思ってるわけではないので、あくまでも何かの参考までにと思いました(^^;)
感謝の祈りの際にも、↑の祈りは使えます。つまり、神さまに「わたしの霊肉をともに豊かに強めてくださっていることを感謝します」、「わたしの人生が豊かに祝福されていることを感謝します」、「わたしの心の願いごとを叶えてくださっていることを感謝します」、「わたしのことを悩みの綱より解放し、悩みの沼より救いだしてくださっている(くださった)ことを感謝します」、「わたしの髪の先から足の爪先までを豊かに完全に十全に万全に幾重にもお癒しくださっていることを感謝します」……などです。
もし仮に今、自分の霊肉に衰えを感じ、人生がまるで祝福されておらず、願いごとが神に聞かれず、悩みごとにつきまとわれて苦しみ、体のあちこちが痛んでいたとしても――先に「いずれ自分の人生はそのようになる」と先取りの勝利を感謝の祈りによって取っておくというのも、ひとつの大きな信仰の働かせ方だと思います。
>>だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。
(マルコの福音書、第11章24節)
また、祈るのと同時に自分の祈っている事柄を聖書の御言葉とも照らし合わせ、結びつけて祈るというのもとても大切なことなんですよね。
祈りの中で、「この祈りが叶えられることの確証として、御言葉を与えてください」と祈る時、聖霊さまは必ず何がしかの示しを与えてくださると思うので……また、そうしたしるしを与えられてのち、「これはわたしの人間的な考えではなく、神さまから来ていると思って行動していいでしょうか」といったように、さらに確認を取っていきます。
神さまの語りかけと感じたものには必ず吟味が必要になりますので、ただ、自分の希望的観測によって御言葉を捉えていないかどうかなど、チェックが必要なんですよね。そしてこうしたことも祈っていくうちに、段階をへて経験的にわかっていくことなので……それと、自分の祈り方が間違っていないかどうかや、「こう祈ってもいいのだろうか」と不安な方の場合は、牧師さんや教会の方に聞いて意見してもらうというのもひとつの手かなと思います。
それではまた~!!
>>あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた事を見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
(マタイの福音書、第6章6節)
※祈り=神との霊的交わりの方法。祈りは父なる神に対する信者からの語りかけであり、祈りの基礎はキリストの贖いととりなしにあるので、キリストの御名によって祈ることが必要。聖霊によって祈ることは効果がある。祈りは神の御旨に従い、信仰をもって、熱心に励まなければならない。(†聖書脚注より)
以前、どこかに書いたとおり、わたし、小さい頃から祈る子でした(^^;)
誰かからそのように教わったということもなく、ただ夜眠る前に布団の中で祈るというのは、子供だった頃のわたしにとって普通のことだったんですよね。ただ、その頃はイエスさまのことはなんとなく噂でしか聞いたことがなかったので、いわゆる八百万の神というのに祈っていましたし、またその自分なりの祈りが聞かれないことがだんだんわかってきますと、次第に祈らなくなっていった……という、何かそんな感じだったでしょうか。
けれどその後キリスト教のことを知って救われ、「イエスさまに直接祈ることが出来る」恵みのことを知ってからは、再び祈ることが出来、またその喜びにあずかることも出来る……というようになっていったのでした
その……これはおそらく誰しも経験があると思うのですが、とても切実な願いがあって短期間自分なりに祈ってみたものの――まるで祈りが聞かれる感じがしないので、「やっぱり神さまなんていないんだ」みたいになったことのある方というのは、おそらくとても多いのではないかと思います。
ただ、キリスト教徒の祈りのポイントっていうのは(わたしが思うに)聖霊さまを通した祈りは聞かれるということだと思うんですよね。
この聖霊さまというのは、父と子と聖霊の御名によって……の聖霊であり、イエスさまを信じ、聖霊のバプテスマがくだった信者ひとりびとりには必ず聖霊さまが内住される、ということなんですよね。そしてこの方を通した祈りは聞かれる、ということなので、まずはイエスさまのことを信じ、受け容れることがはじまりです。
わたしもそうでしたが、「聖書を全部読んで、キリスト教の教えについてよくわかってから信じよう」というのであれば、イエスさまのことを信じる人々というのは、今以上に極少数だったでしょう。けれど、最初はキリスト教やイエスさまのことについて、十分よくわかっていなくて十分なのです(わたしもそうでした・笑)。
まずはイエスさまが自分の救い主であることを告白し、イエスさまが十字架にかかってくださったのは、わたしやあなたや全人類の罪がイエスさまの血によって贖われるためであったと信仰告白しましょう。
>>天の父なる神さま、
わたしはあなたを信じます。
今まで信じてこなかったことを、赦してください。
わたしは自分が罪人であることを認めます。
わたしの罪の身代わりとなって、
イエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを信じます。
わたしのすべての罪を赦し、
永遠の命を与えてくださったことを感謝します。
わたしは、あなたをわたしの罪からの救い主、主としてお迎えします。
約束どおりイエスさまが、わたしの心の中に入ってくださったことを感謝します。
わたしのこれからの人生は、あなたのものです。
わたしをあなたが望んでおられるような者に変えてください。
イエスさまのお名前によってお祈りします。
アーメン。
今、もし仮に「なんか意味よくわかんないな~」という感じであったとしても、教会で学びをしていくうちに次第にわかっていく……ということでいいのです。また、口でこのように信仰告白して聖霊のバプテスマを人が求める時、その後教会へ通っていて何も起きないということはないといっていいと思います(異端の教会や、聖霊さまの働きの弱い教会では確かに「特に何も起きない」ということはあるかも、なのですが^^;)。
すると、聖霊さまが導いてくださって、「こんな分厚いもんほんとに読めるかいのう~」と感じる聖書についても教えてくださったり、また祈りとともに聖書を読むことで、正しい理解がきっと進んでいくと思います。
わたしが思うに、これがキリスト教の秘密、教会の秘儀のひとつといっていいのではないでしょうか。
キリスト教を信じている人は世界中にたくさんいるわけですけれども、その中には貧しい人もいればお金持ちの人もいて、あるいは大卒の立派な肩書きを持つ人がいる一方、そうでもない人もいる(※ここにわたしも入ります・笑)……けれど、色々な人がイエスさまのことを受け容れ、その後も信仰を持ち続けることが出来るのは、イエスさまのことを信じ、聖霊のバプテスマを求めた時に聖霊さまが信者のひとりびとりに下って内住され――その後のことは教会で教えや学びを受けることで、「ああ、そういうことなんだ!」と霊的な目が開かれていくという、何かそんな感じでしょうか。
それであればこそ、「普段本なんか読まないし、読んでも漫画か週刊誌程度☆」という方でも「聖書だけは熱心に読むことが出来る」というように変えられていったりするのですし、とにかくどんなことでもなんでも、イエスさまのことを信じたその後のことは「聖霊さまに任せておけばオールオッケー」みたいな感じのことなのです。
そして、今回のタイトルの「祈り。」ということですが、ローマ人への手紙、第8章25~27節にはこうあります。
>>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章25~28節)
何かのことで神さまに祈ってみたものの、三日坊主で終わった……という方はとても多い気がするのですが、けれど、継続して祈る力というものもまた、聖霊さまが必ず与えてくださいます。
人間が祈りはじめてまずわかることは、(大抵の場合)自分には祈る力がないということかもしれません。けれどこのことも、「もっと祈れるようにしてください」と、人が祈り求めるなら、本当に祈れるようになっていきます。
最初はほんの十分かそれより短いくらいからはじめてもいいと思います。なんだったら携帯のタイマーをかけて、とにかく十分の間、「祈りのポーズを取ってみる」というところからはじめてみましょう。
その間、「世界が平和でありますように」ということ以外、特に何も思い浮かばないというのでもいいですし、あるいは「かき氷機が欲しい」とか、何かのゲームのソフトが欲しいとか、「そろそろ寒くなってきたのでストーブが欲しいです」とか、祈りの内容はなんでもいいと思います。
ただ、「きのう僕を侮辱した○△さんが明日交通事故に遭いますように」とか、「上司の△□に呪いの鉄槌を……!!」といった聖霊さまが悲しまれる類いの祈りというのは当然聞かれませんし、そうした人に害を加えたりする以外のことならなんでも祈っていいと思います。
人がよくつい勘違いしてしまうのが、私利私欲について祈るのではなく、アフリカの難民の方のために祈るべきではないだろうか……というそうしたことなのですが、もちろんそうしたことを祈るのと同時に、たとえばダイエットしている方であれば「三キロ痩せますように」とか、「そのための最適な方法を教えてください」というのでもいいでしょうし、身近な方の病気の癒しの祈りや、「明日、発表会があるのですが、どうか緊張しませんように」でも、「職場の○△さんとの関係が改善しまように」でも、とにかくなんでも祈っていいのです。
ただ、一般的に「明日馬券が当たりますように」とか「そのためにどの馬に賭けるべきかを教えてください」といったことや、「宝くじで三億とは言いませんが三千万……いえ、三百万でも三十万でも当たりますように」といった祈りはまずもって聞かれない傾向が圧倒的に強いですし、そのあたりの<摂理>といったことはもちろん考慮に入れなくてはなりません。
たとえば、馬券を買うといった場合、聖霊さまの語りかけや導きによってではなく、結局のところ自分の頭で考えた馬に賭けることになるのですし、その結果その馬券が当たったにしても外れたにしても――神さまがそこに介在されたと考えるというのは普通に考えてあまりに愚かなことですよね(^^;)
また仮にそうした誤った祈り方をしていた場合、そのことも聖霊さまが教えてくださるでしょうし、とにかく祈りのコツ(?)というのは、とりあえずまずはなんでも祈ってみるということかなと思います。
そうすればいずれ、最初は十分しか祈れなかったのが十五分二十分……とどんどん祈れるようになっていくと思いますし、最初は自分の個人的なことばかり祈っていたとしても、そのうちむしろ誰か人のことのために祈っていたほうが、自分の個人的な祈りについても聞かれるようになっていくですとか、何かそうした体験が少しずつ開かれていくかと思います。
それと、他の方に祈ってもらう体験というのも、日々祈り続けていくために大切なことかもしれません。
教会の祈り会などで祈ってもらうと、なんとなく自分の祈りもパワーアップしたように感じますし、人から祈ってもらう体験、互いに祈りあうという聖なる体験というものは、とても貴重な経験だと思います。なんというかわたしの場合は、他の方に祈ってもらうことによって自分の祈りがむしろ応えられなくていいかもしれない……と思ったことすらあります。
たとえば、「自分の抱えている病気が治りますように」といった祈りの場合、病気の症状が重ければ重いほど、その祈りは当然切実なものになるわけですけど……不思議と、「この病気が治っても治らなくても神さまに感謝します」ですとか、人の祈ってくださる気持ちがありがたいので、その気持ちだけでも十分だと感じた時に何故か病気の与える症状が気にならなくなったとか、そうした瞬間に祈りというものは聞かれる……といった感じがするのですよね(^^;)
もちろん、祈り会などで「現在入院中の○○さんのために祈りましょう!」ということで、もう退院は無理だろうというくらいの方が奇跡的に癒されて退院したとか、そうしたこともあるわけですけれども、<感謝>というのはやっぱり、祈りが聞かれる際のポイントという気がします。
前にもどこかに書いた気がするのですが、わたしがよく誰か人のために祈る(中には一度も会ったことのない方も含まれます)時の言葉を少し書き出して、この記事の終わりにしたいと思いますm(_ _)m
どうか神さま、○△さんのことを霊肉ともに豊かに強めてください。
○△さんの人生を豊かに祝福してください。
○△さんの心の願いごとをどうか豊かにお叶えください。
○△さんの心の悩みごとをすべて解決し、その悩みごとから解放してください。
○△さんの髪の先から足の爪先までを豊かにお癒しください。
あと、相手の方の人生の望みを知っている場合は、そのことについても具体的に細かく言葉数をもっと増やして祈ってみましょう。
また、癒しの祈りの場合は、「脳卒中後の後遺症が完全に癒されますように」とか、「膝の痛み・腰の痛みが完全になくなりますように」といったようにその症状についてなるべく細かく祈ることが大切です。
それと、○△さんのところは「わたし」に変えてもいいと思います。つまり、「わたしのことを霊肉ともに豊かに強めてください」、「わたしの人生を豊かに祝福してください」、「わたしの心の願いを叶えてください」、「わたしの心の悩みを解決し、その問題から解放してください」、「わたしの髪の先から足の爪先までを豊かにお癒しください」……あ、あとわたし、「豊かに完全に十全に万全に幾重にも」って祈るのが実は癖です(^^;)
「○△さんの髪の先から足の爪先までを豊かに完全に十全に万全に幾重にもお癒しください」とか、癌にかかっている方でしたら「○△さんの体内の癌細胞を完全に十全に万全に幾重にもお癒しください」とか、そうした祈り方ですね。
他にはやっぱり、感謝の祈りってとても大切で……わたしの場合は、まず悔い改めの祈り、それから感謝の祈り、他の方のための祈り(ここに教会のための祈りなども含まれます。もっともその日によって祈りの対象は変わるんですけれども^^;)、それから自分のための祈り、最後に家族への祈り――といったような、そんな形でしょうか。
悔い改めの祈り→感謝の祈り→その他神さまに叶えていただきたいことを順番に祈っていく……そんな感じだと思います。
ええと、わたしもこの自分の祈り方が正しいとか思ってるわけではないので、あくまでも何かの参考までにと思いました(^^;)
感謝の祈りの際にも、↑の祈りは使えます。つまり、神さまに「わたしの霊肉をともに豊かに強めてくださっていることを感謝します」、「わたしの人生が豊かに祝福されていることを感謝します」、「わたしの心の願いごとを叶えてくださっていることを感謝します」、「わたしのことを悩みの綱より解放し、悩みの沼より救いだしてくださっている(くださった)ことを感謝します」、「わたしの髪の先から足の爪先までを豊かに完全に十全に万全に幾重にもお癒しくださっていることを感謝します」……などです。
もし仮に今、自分の霊肉に衰えを感じ、人生がまるで祝福されておらず、願いごとが神に聞かれず、悩みごとにつきまとわれて苦しみ、体のあちこちが痛んでいたとしても――先に「いずれ自分の人生はそのようになる」と先取りの勝利を感謝の祈りによって取っておくというのも、ひとつの大きな信仰の働かせ方だと思います。
>>だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。
(マルコの福音書、第11章24節)
また、祈るのと同時に自分の祈っている事柄を聖書の御言葉とも照らし合わせ、結びつけて祈るというのもとても大切なことなんですよね。
祈りの中で、「この祈りが叶えられることの確証として、御言葉を与えてください」と祈る時、聖霊さまは必ず何がしかの示しを与えてくださると思うので……また、そうしたしるしを与えられてのち、「これはわたしの人間的な考えではなく、神さまから来ていると思って行動していいでしょうか」といったように、さらに確認を取っていきます。
神さまの語りかけと感じたものには必ず吟味が必要になりますので、ただ、自分の希望的観測によって御言葉を捉えていないかどうかなど、チェックが必要なんですよね。そしてこうしたことも祈っていくうちに、段階をへて経験的にわかっていくことなので……それと、自分の祈り方が間違っていないかどうかや、「こう祈ってもいいのだろうか」と不安な方の場合は、牧師さんや教会の方に聞いて意見してもらうというのもひとつの手かなと思います。
それではまた~!!
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