神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人生に対する圧倒的肯定感。

2024年11月20日 | キリスト教

 

 以前、山下達郎さんがラジオで「ポップカルチャーは人生に対する肯定である」みたいに語っていたことがあったのですが、そう指摘されてみると「確かに間違いなくそうだなあ」と妙に納得してしまいました

 

 というか、人間は自分の人生が比較的うまくいってる時、そこにはある程度の世界に対する「肯定感」が間違いなくあると思います。まあ、わざわざそんなふうに指摘されなくても「そんなことわかっとるがな」という話ではあるにしても……これは信仰的なことで言えば、神さまを信じることにも通じることなんじゃないかなと思ったり。

 

 つまり、わたし自身もそうでしたが、「神さまっているのかどうかわかんにゃい」、「でもきっといるような気がするわん」、「というか、いるかいないかで言ったらいるほうに投票しようかな」くらいの時って――まあ、人生になんやかんやありながらも、それなりにバランスを取ってやっていけてる時なんじゃないかという気がするんですよね。

 

 ところが、「神の否定」=「世界の否定」くらいになってくると、大体その方は人生がうまくいってなかったり、「神がいるなら何故こんな絶望にオレを落とすんだ」という、鬱状態に入ってくると思うわけです。

 

 そこでポップカルチャーの登場!!

 

 山下達郎てんてーの楽曲だけじゃなく、JPOPやKPOP、海外のロックやパンクその他みんなそうでしょうが、大体トップ10に入って来るものって決まってる気がします。最初から最後まで人生に対する悲しみが語られて終わるシャンソンのようなものはまず滅多になく(あ、もちろんわたしシャンソンも好きですよ)、「こんな苦しいことやつらいこと、ツイてないことがあってもがんばろうよ!YEAR!!」的な、恋愛を歌ってないものであれば、そうした共感できる歌詞が最終的に肯定感へと至るサビに結びつくっていうんでしょうか。

 

 自分がなんかちょっと元気ないとか、ストレスフルな日々を過ごしているとか、やなことがあるたびに必ずこの曲を聞くであるとか……そうした行為全般、大体人生を肯定する、あるいは肯定するための一手順といった感じがします。

 

 まあ、人間関係などで自分がストレス受けるといった場合、学校や職場などに「自分を肯定しない存在がいる」ことが原因でしょうし、わたし自身が思うにそうした意味でも神さまって、「いる」って信じられたほうが自分も含めた全世界も肯定している状態と言える気がするわけです。

 

 ただここで、「まー、言われてみたらそーかもねー」くらいには思えたとしても、「全世界を肯定するためにも神さまを今日から強く信じちゃおっかな」とはなれないのが人間と思います。というのも、そんなふうに思って善行しようと心がけてみた途端、なんか嫌なことが起きたりして、「せっかくいいことしようと思ったのに」みたいな結果で終わってしまい、そんなこんなでまた「神さまなんているかどうかわかんないや」みたいな世界へごろごろごろっと転がって来てしまうわけです。

 

 さて、今度はこの逆に「いやあ、オレは無神論だぜ!」という方の精神世界について考えてみましょう。とはいえ、わたしの知る限り、自分では無神論と言いつつも、お正月には神社へ参拝に行っておみくじ引いて「大吉だった!!」と喜んでみたりとか、「普通の無神論」の方って、実はそんなに根性の入った無神論者ってわけでもない(笑)。

 

 でも世の中には本当にいらっしゃるようなのです。物理学など、科学に携わる職業の方に多いようなのですが、宇宙の真理なるものに近づけば近づくほど、神を否定せざるを得ないというのでしょうか。そして、最近とあるとてもリアルな設定のSFドラマシリーズを見ていて思ったことがありました

 

 なんていうか、わたしもスタートレックシリーズとか詳しいわけではないものの、ちょっと見てみた感じだと、割と夢があるんですよね。もちろん、主人公の船長グループは色々な危険に遭ったりするものの、宇宙のエイリアンなども何やら特撮めいているため、現実に本当に実在するというよりも――人間の脳の生みだす産物を楽しむと言いますか、そうした空想的産物としての異星人、といった感じがするわけです。

 

 ところが、実際には宇宙へ人が出ていくって、よく考えたらあまりにも当たり前なことながら、相当危険なことですまず、当たり前すぎるほど当たり前のことながら、空気や水がありませんたぶん、スタートレックシリーズであれば、そうした部分も最先端科学によってすでに問題がクリアーされてたりするのでしょう。でも、人間が火星とか土星などへ最初に行こうと思ったら……何かの事故で宇宙船内からこの空気や水がなくなるといった場合、まず船内の人々の間で醜い取り合いになったり、あるいは他の宇宙船が一見友好的な様子で近づいてきたかと思ったら、そちらの船のほうで空気や水がなくなりそうだから奪いに来た――などなど、その他食事が美味しくないといった事情もあるようで。。。

 

 いつか相当遠い将来の未来であれば、宇宙船内で食べる食事というのも美味しいご馳走みたいになってる可能性もあるかも知れません。でもそうなる前の宇宙探索時点においては、そんな厳しい宇宙空間を生きていかなければならないらしく……その他、船内や外からやって来た宇宙船のグループなんかと揉めると、すぐ外の宇宙空間へ突き飛ばされてエアロック閉められるとか……ほんと、こんなのが「宇宙の現実」なら、地球に留まって神さまにお祈りして「我々のことはあなたがお創りになったのですから、どうとでもしてください。もし滅びるのがあなたの御意志であるなら喜んでそれを受け容れます」とでも、膝を屈めて祈っていたいような――宇宙空間のようなあらゆる方向から生命体が生きることを全否定してくるような空間へ出ていくよりもよほど幸福なんじゃないかなって、そのSFドラマを見て初めて思った次第です。

 

 いえ、わたしも前まで宇宙とか遠い星々といったものにすごく夢とかロマンを抱いていたので、「そうした過程を通らなければ、我々人類に生き延びる道はないのだ」という部分をリアルに実感して、正直、「他の人が危険を冒して開拓した相当あとで安全になってからでもない限り、人間は宇宙へなんて行きそうもないなあ」と初めて思ったというか。

 

 何やらおかしな着地点ですが、あらゆる意味で自分を否定してくるものやことって、人生上にたくさんあると思います。でも、遥か彼方の宇宙空間にひとりぽつねん☆と放り出された時ほどではない。もちろんだからと言って「こんな素晴らしい地上に存在できるというだけで、この地球人類はなんという奇跡を今この瞬間も生きていることだろう」と、人がなれるのはそう長い時間でもなく、次の瞬間には重力の力にズドーンと沈むかのように、己の悩み・苦しみへと沈んでいく……そんな存在だったりするわけですよね。

 

 >>あなたの指のわざである天を見、

 あなたが整えられた月や星を見ますのに、

 人とは、何者なのでしょう。

 あなたがこれを心に留められるとは。

 人の子とは、何者なのでしょう。

 あなたがこれを顧みられるとは。

 

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、

 万物を彼の足の下に置かれました。

 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、

 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

 

 私たちの主、主よ。

 あなたの御名は全地にわたり、

 なんと力強いことでしょう。

 

(詩篇、第8編3~9節)

 

 キリスト教徒、クリスチャンにとっては本当に、神さま、イエスさまを信じることこそ究極の人生の肯定に他ならないと、そのように思われてなりません

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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