神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

十二支に入れてもらえなかったネコさん。

2019年01月14日 | キリスト教


 いえ、こちらはキリスト教について何か書く……といった主旨のブログなので、クリスチャンの方からは「干支~?それって偶像礼拝や占いと関係してるから、そゆこと書くの、よくないよ!」と言われてしまいそうなのですが、まあただの一般的(?)なお話と思っていただければと思いますm(_ _)m

 というのも、1コ下の記事でイソップ寓話の「うさぎとかめ」のことを取り上げたところ、「うさぎとかめ」のウィキのところに、類話として十二支の説話のことが載ってまして。。。

 もしかしたら有名な話なのかもしれませんが、わたしこれ知らなかったので、実はちょっと「なるほど~!」と思ってしまったのです。なので、ちょっとまた便利なウィキさんから引用させていただきますね♪(^^)


【十二支の説話】

 >>動物たちが競走をする話としては、十二支がなぜネズミから始まるかを説明する話がある。十二支のある世界各地にほとんど共通して伝わる話で、ネズミが牛の背に乗って行き、自分では走らないで勝つというものである。ネコが十二支にいない地域ではネズミがネコから追い回されていなければならない理由の部分を付け加えても用いられる。

 はるかな大昔、ある年の暮れのこと、神様が動物たちを集めてこう言った。

「元日の朝、新年の挨拶に一番早く来た者から十二番目の者までを、順番に一年ずつの首領としてやろう」

 ネコは昼寝をしていて神様のところに行けず、ネズミに訊くと、ネズミはわざと「元日の翌日に」行くよう教えた。

 ウシは「自分は歩くのが遅いから」と前の日の夜のうちから出発した。これを見たネズミは、ウシの背中に飛び乗った。

 そんなこととは知らず、ウシが神様の前に到着してみると、まだ誰も来ていない。ウシが「早く出発してきたかいがあった。自分が一番だ」と思った途端に、牛の背中からネズミが飛び降り、ネズミが一番になってしまった。それでウシは二番、それから虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪の順で着いた。

 ネコは一日遅れで行ったものだから番外で仲間に入れなかった。それでネコはネズミを追い回すものなのだ。


 わたしも、多くのネコ好きさんと同じく、「にゃんでネコ年はにゃいの?」と思ってきた口なのですが、このお話を読んで「にゃるほろ~!!」と思ったというか(笑)

 そして、このネズミのエピソードってなんか、イスラエル的(ユダヤ人的)と言いますか、神さまに祝福されたキリスト教徒的なところもあるような気がしたり。。。

 神さまの力によって、到底小さくて勝てないような者が勝利を得る、イスラエル民族の歴史というのは、彼らが神さまに真実聞き従った時にだけそうした力が現れるということの連続でしたし、また、現代のクリスチャン(霊的イスラエル民族)も、イエスさまに聖霊さまを通して祈り、真実従った時には、「蟻が象を投げ飛ばす」といったような奇跡を今も経験することが出来ると思います。

 もちろん、「え~?このネズミってただ単にずる賢いってだけじゃないの~?」、「そんなこと言ったらネコはともかく、牛は可哀想だ!」との意見がありそうですが、わたしが旧約・新約聖書を読む限り、神さまの選び、恵みというのはそのようなものではないかという気がします(^^;)


 >>主は仰せられた。

「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」

(出エジプト記、第33章19節)


 >>神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

 忍耐を持って善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

 神にはえこひいきなどはないからです。

(ローマ人への手紙、第2章6~11節)


 >>神の賜物と召命とは変わることがありません。

 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測りがたいことでしょう。

 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

(ローマ人への手紙、第11章29~36節)


 なんて言うんでしょう、神さまがネズミに対し、「おまえは悪い奴だ。ネコを騙し、その上善良で努力家の牛を使って一位になろうとするとは。そんな奴は、えい!競争の失格者として十二支には加えてやらんわ!代わりにネコよ、おまえが入るがよい」……というのも、なんかあまりそんなに平等な感じがしないのは、わたしの気のせいですかね(^^;)

 そもそもネコには、タラントのたとえで地中に1タラント隠した人のように、そもそも「寝ていたい」といったような怠け心があって、そこをネズミに突かれたような気もしますし、神さまがネズミのゴールを「よし」としたのは、そもそもこの十二支の競争には体の大きさや足の速さ等にハンデがあったため、そのようなネズミの知恵の用い方を「よし」とされたということなのではないでしょうか。

 もちろん、これでもし牛が抗議したとしたら、神さまはその抗議を取り上げたかもしれませんが、牛さんってなんかのんびり屋さんですから、「あっ、こりゃやられたなあ!」とか言って笑ってる感じだったら、それで万事解決という気がします

 そして、わたしも小さい頃に時々、「ネズミ年の人は特別だ」という話を聞いたりしたものでした。というのも、実はわたし、上に兄がいまして、この兄が実はネズミ年なのです。

 それで、兄のことを見ていても確かにそうした「特別」なものがあるように感じたものでした。兄は頭もいいほうでしたし、人からもよく好かれ、いつもそうした人の輪の中心にいるようなところのある人でしたから。

 なので、「確かにネズミ年の人ってちょっと特別なのかな~」となんとなく漠然と思うのですが、でも、ネズミがいつもネコに追われるように、イスラエル民族の歴史というのは苦難・迫害の連続ですし、また時と場合によっては他のトラ・ヘビ・馬・サルなど、他の十二支の仲間も敵にまわることがある……といった、神さまからの特別な恵みゆえの苦難・迫害という運命を背負っているところがあると思います。

 なんにしても、今年イノシシ年で、来年がネズミ年ですか(笑)

「イノシシ年の人って、みんな猪突猛進だよね☆」とは、あまり一般に言わない気がするのに、ネズミ年についてだけは「ネズミは特別」、「ネズミ年の人は賢い」、「運がよくてラッキー」的な話は結構浸透してるのってなんか不思議な気がしますよね(笑)、まあ、健全なクリスチャンの方には、「干支占いとか関係ねーし!」といったところだとは思うのですが(^^;) 

 それではまた~!!





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« うさぎとかめのお話。~主の... | トップ | 自ら生贄を捧げるか、それと... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事