
>>私は再び、日の下を見たが、競争は足の早い人のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知恵のある人のものではないことがわかった。
(伝道者の書、第9章11節)
>>主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。
(コリント人への手紙第二、第12章9~10節)
>>「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』
と万軍の主は仰せられる。
(ゼカリヤ書、第4章6節)
>>最も小さい者も氏族となり、
最も弱い者も強国となる。
時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。
(イザヤ書、第60章22節)
うさぎとかめのお話は、誰でもご存じと思うので、説明は不要かなって思います♪(^^)
でも一応、とっても便利なウィキさんより、まずはあらすじをコピペ☆しておきますねm(_ _)m
>>ある時、ウサギに歩みの鈍さをバカにされたカメは、山のふもとまでかけっこの勝負を挑んだ。かけっこを始めると予想通りウサギはどんどん先へ行き、とうとうカメが見えなくなってしまった。ウサギは少しカメを待とうと余裕綽々で居眠りを始めた。その間にカメは着実に進み、ウサギが目を覚ましたとき見たものは、山のふもとのゴールで大喜びするカメの姿であった。
ちなみにこのお話、日本に古くから伝わる昔話かと思ったら、イソップ寓話なんですね


それはさておき、これもまたウィキさんからの情報によると、
【教訓】
過信(自信過剰)して思い上がり油断をすると物事を逃してしまう。 また、能力が弱く、歩みが遅くとも、脇道にそれず、着実に真っ直ぐ進むことで、最終的に大きな成果を得ることができる。
ということらしく。。。
ここまで聞いてクリスチャンの方が思いだすのは、たぶん「先の者があとになる」という、イエスさまのあのお話だと思います。
つまり、先に早くイエスさまのことを信じた人が、信仰生活も長くなるうちに何かこうちょっと脇道に逸れたりしてうだうだ☆(?)やってるうちに、あとからイエスさまを信じた人々が聖霊さまに燃やされて、先の人々など軽々追い越す強い信仰を持つようになる……というのでしょうか。
わたしも、信仰的には間違いなくうさぎタイプではなく、かめさんタイプだと思うんですよね

聖書に出てくる人々の中には、パウロやルカのようにとても頭が良く、聡明なタイプの使徒がいる一方、イエスさまが最初に弟子にした十二弟子のように、「え?こんな奴がイエスさまの最初の弟子?イエスさまも神の子なんだから、もちょっとマシな人選すればよかったのにー

でも、ペテロやヨハネといったイエスさまが御自身で選ばれた弟子たちは、決して信仰的にかめさんではありませんでしたし、人間的能力のある方をうさぎタイプとした場合、パウロやルカはうさぎさんタイプでしょうけれども、彼らが神さまが受ける実は、実はどちらも同じもので、ゴールした時には神さまが栄光の冠で彼らを輝かせてくださるのです


>>競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
(コリント人への手紙第一、第9章24~27節)
これはパウロの言葉ですが、信仰生活のゴールには朽ちない冠、永遠の命の冠をイエスさまよりいただけるように、信仰者はみな努力する必要があると思います。
ただ、なんと言いますか、これはわたし個人の信仰観ですが、体を打ち叩いて一生懸命マラソンを走り、絶えずゼェゼェ☆言っている信仰者がいつでも正しいとか、そうしたことではなく(やはり、人生にはゼェゼェ言いながら坂道を上るべき<時>があり、それまでの努力が報われて、今度はそれが下り坂になる……といった<時>があると思います)、歩みの速さよりも、いかにのろくとも主以外の道へ逸れていかない生涯、そうした人というのはうさぎのような速さはなくとも、イエスさまから報われてあまりある人生を生きることが出来るのではないでしょうか。
>>兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
まさしく、「誇る者は主にあって誇れ」と書かれているとおりになるためです。
(コリント人への手紙第一、第1章26~31節)
「誇る者は主にあって誇れ」……なんでも、うさぎとかめのうさぎさんは、こののち、あんなにノロマなかめに負けたということで、仲間全員から馬鹿にされたそうですが、当然のことながらキリスト教徒同士の間でそんなことはあってはならないことだと思います

また、かめさんはゴール後、うさぎさんに「あなたの最初のあの自慢はどうしたの」的に言ったとのことですが、わたしが昔読んだ絵本だと、かめさんはとにかくただ、自分がゴール出来たことが嬉しくてならず、うさぎに勝ったと聞いても、「あれ?そうだったの?」的な、何かとても謙虚な態度だったような記憶があります。
そして神さまは、御自身の力が現れるために――あえて、弱い者や虐げられている者、人より下に見られ、世間から軽んじられている者をこそ、お選びになるお方でもあるのです。
イエスさまを信じるのに、立派な経歴や資格などは必要ありません。ただ、こう祈ってください。
【イエス・キリストを受け入れる祈り】
神さま。
私はキリストを必要としています。私は罪人(つみびと)です。
私の罪をゆるしてください。
今、私は心の戸を開いて、イエス・キリストを私の罪からの救い主、また人生の主としてお迎えいたします。
私の心の王座を占めてくださり、あなたの望まれるような者にしてください。
アーメン。
言ってみればかめさんは、ゴールに至るまでずっと、心の王座がイエスさまでいっぱいだったのだと思います。
そしてうさぎさんは、「オレ、信仰的に今まで結構がんばってきたし、ちょっと休んだっていいべ☆

もちろん、わたしはうさぎさんを裁こうとは思いませんし、むしろ逆に「キミのその気持ちもわかるよ!


それではまた~!!

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