神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

主の尊き御臨在。

2022年04月30日 | キリスト教
 実は今回は、『罪と罰』の下巻巻末にあった、ドストエフスキーの生涯についてコピペ☆させていただき、「そのような大変な生涯だったのに、ドストエフスキーは神さまのことを信じていた」ということを書こうと思ったんですけど、『カラマーゾフの兄弟』の続きの巻が行方不明(?)であるように、『罪と罰』も探してみたものの……どこへ行ったのか、見当たりませんでした(ダンボールのどっかにあるのは間違いないんですけど^^;)。

 なので、どうしようかなと思いつつ……『罪と罰』って、性格のひね曲がった守銭奴ババアを主人公が殺しちゃって、その罪悪感についてや、殺人の犯人として捕まったらどうしようといった心理について描かれているのと同時、ヒロインに超健気なソフィアちゃんという女性が出てくるのです。それで、このソフィアちゃんは信仰心の厚い清らかな女性なのですが、体を売ってお金を稼ぐ娼婦の女性でもあるんですよね。これは、家の家計を助けるために仕方なくといった事情なのですが、主人公のラスコーリニコフくんは、ソフィアちゃんが心の清らかな女性と感じながらも――同時に不思議なわけです。「そのふたつというのは、どうやって同時に成り立つのだろうか」ということが……。

「そのふたつ」というのは、ひとつが「信仰深く神のことを心から信じている」という、ソフィアちゃんの信仰心のことであり、このことと、「娼婦業」という、一般に汚れているとされる職業に身を落とさねばならなかったこと、そのような運命を与えた神を恨むことはないのか――という、「このふたつのこと」というのは、明らかに矛盾しているようにラスコーリニコフくんは思うわけです。

 そのあたりのことをもし「知りたい」と思われる方がいたら、『罪と罰』を読んでみて欲しいと思います。いえ、説明するには絶対的に本文からの引用が必要になるもので(^^;)そんで、今その本が見つからないので、その点については省こうと思うのですが――「人殺し」と「娼婦」、そんな人間にも果たして神の救いなどあるのだろうか……ドストエフスキーはそのことの答えを、これ以上もなく鮮やかに描きだしていると思うんですよね。

「どんなにひどい、過酷な状況を与えられようとも」、「神を信じることも、死に至るまで信じ抜くことも十分すぎるほど可能である」――ということが、そのことの内には証明されており、それはドストエフスキーの信仰心にも通じるものだったのだろうと思います。

 つまり、人の心にはそれぞれ、それを経験した本人にしかわからない「心の地獄」というものがあると思うんですよね。にも関わらず、そうしたところを通らされたり、今もその地獄を心の内に抱えたままだというのに……変わらず神さま、イエスさまのことを信じ続けている方はたくさんいるということだったりします。どちらかというとむしろ、「こんなひどい状況に囲まれて、その上神さままで信じられないとしたら、わたしは一体どうなってしまうことでしょう!」と、そのように告白される方も多いと思います。

 キリスト教に関していえば、信仰の鍵は「聖霊」ということであり、そもそも理屈や理論で説明されて、「ああ、その方は確かに神だと思う」とか、「もし神がおられるとすれば、そのような形によってだと思う」――と、もし一旦納得したとしても、その時かそれ以後、聖霊のバプテスマによる注ぎかけといったことがなかったとしたら……一度はイエス・キリストこそ神だと信じたにも関わらず、信仰心っていうのはみるみる弱く薄まって、何か次に大きな試練や困難が人生に起きたとしたら、「いや、やっぱり神さまなんていないんだ」と絶望して終わってしまうかもしれません。

 けれど、「聖霊によって信じている」人の信仰というのは、何度引き裂かれても甦り、その引き裂かれた傷痕をいついつまでもなぞりつつ、「こんなものが人生になかったらねえ」とか、「でも、こんなことがなかったら、人の心の傷を本当の意味で理解することはなかっただろう」という、人生における必要性と不必要性の間で時に苦痛に涙しながら考える……という部分を一度も通ったことがない――という方のほうがおそらく少ないと思うわけです。

 そして、ドストエフスキーにも信仰の秘訣というか、秘密があったのだろうと思います。彼はてんかん持ちで、そのてんかん発作に苦しめられたということは、有名な話と思うんですよね。でも、つい最近、『罪と罰』じゃない他の本を探している時に(笑)、『妻と帽子をまちがえた男』という、オリヴァー・サックス先生の本が出てきて、軽く読み返してたらこんな文章がありました。


 >>ほんの五、六秒のみじかい時間だが、永遠の調和の存在を感じるときがある。恐ろしいことに、それは驚くべき明晰さで姿をあらわし、魂に法悦をもたらす。もしこの状態が五秒以上つづくなら、魂はそれに耐えられず消滅してしまうだろう。この五秒間に、私は人間としての全存在を生きる。そのためなら、私は命をも賭けるだろうし、賭けても惜しいとは思わないだろう。


 たぶんこれ、ドストエフスキーの書簡の中にある言葉じゃないかな……と思うのですが、てんかんの中でも側頭葉てんかんと呼ばれるものの中には、恍惚感を伴うものがあり、ドストエフスキーもそうだったみたいです。ただ、現在はキンドリングと呼ばれるそうした症状を持つ患者さんの症例についてよく知られるようになっており、このあたりの症例報告をドストエフスキーが読んだとすれば、どう思ったかはわかりません(^^;)

 とにかく、人の信仰には人それぞれ偽善でもなく表面的なことでもなく、「それほどまでの過酷さや運命の意地悪さを経験したにも関わらず、神さま、イエス・キリストのことを信じていられる」心の領域――心の秘密を持っている方は多いと思うわけです。

『カラマーゾフの兄弟』のところで取り上げた理論でいくと、「天国にある褒美のことを思って、この世の苦難を耐え忍ぼう」ということになるのかもしれませんが、本当に苦しい時、「でも、天国では永遠の命を与えられるのだから」とか、「そこには苦しみも悩みもない」といったように思って耐え忍ぶ……とか、少なくともわたし自身は理性的にそう考えて耐え忍ぶといった感じではありませんでした。そうではなく、「神さま、今助けて!今、今、今!!」という、そうした貧しい信仰によって毎回切羽詰って祈るわけです(^^;)

 ただ、戦争や災害といった大きな規模の不幸について思う時、そう神さまに祈って助けられなかった人々のことをどう考えるか――という、答えのでない難題について、ドストエフスキーもきっと考え抜き、『カラマーゾフの兄弟』といった世紀の大傑作が生まれたのではないかと思うんですよね。

 戦争、ということでいえば、ウクライナのことを対岸の火事のように思ってニュースを見たりしてる方は誰もいないと思います。「国際社会が助けてくれないという絶望」については、以前からあったことですが、ここまで国際社会の誰もが注目する形で、その無力さがこんなにもはっきり露呈したことはなかったのではないでしょうか。

 ロシアがウクライナに攻め込んだ時から、「プーチン大統領が悪いにしても、結局のところプーチン大統領と<大国>ロシアの面子が保たれる形で、その落としどころを探らなければならない」ということは、わかりきっていたことだと思います。アメリカやヨーロッパ(もちろん日本も)といった有力国がしなければならないのは、経済制裁を加えつつも、裏のルートで「これならばプーチンも納得し、ロシアの面子も保たれるだろう」という国際社会の協調の中でそのあたりをなんとかすることだと思う。そのあたりの案で、プーチンやロシア側が納得できなければ、いつまでも戦争は終わらないし、犠牲は広がる一方だと思うので……。

 また、戦争が長引くと、長引いた分だけ、その後の経済的な影響その他、ロシアとウクライナの二国間だけでなく、かなり深刻なものになると思うんですよね。それに、戦争後、ロシアとは今後取引しないといったことだと、ロシアという国自体が崩壊し、それが世界的な経済悪化にさらに拍車をかけることになった――ということが、絶対ないとは言えない気がするというか(また、ロシア国民の意思とプーチンの意思はまったくの別物と思うので、ロシアの国民の方が今後困窮することになったら……と、そのことも心配です)。

 それに、中国も怖いですよね。こういった社会情勢を見て、中国も「オレたちも同じことやっても、結局国際社会は沈黙したまんまじゃね?」といった感じで、今後軍事面において特に、ますます強気に出てきそうな気がします。。。

 なんにしても、開戦二か月でこの状況なので、ウクライナの人々にとってこんなに長い、地獄のような二か月もなかったに違いない……そう思うと、胸が痛むばかりです

 それではまた~!!






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